散日拾遺

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大の大人が集まる理由 / 灯台もと暗し / 絵を見せる効用

2016-08-31 09:32:41 | 日記

2016年8月31日(水)

 先週の23日(火)は午後から出かけた。主たる用事はCMCCの医療相談で、最近は申し込みがなく流れることが多かったから久しぶりのことになる。陪席のメンタルフレンドがT氏からS氏へ交代になっており、いずれも篤信の教友ながらおのずと個性の違いがあるのが楽しい。教派的な違いもあり、聖公会のおっとりした味と、セブンスデ-・アドベンチストのひたむきな敬虔とが、原因なのか結果なのか二氏の持ち味によく呼応している。その観点からは、自分はどんなふうに見えるのだろうとちょっと気になる。

 病んでいる孤独な人があり、その人のためにいい大人が2人、何の義理もないのに貴重な時間を割いて相談に来るという布置自体が既に感動的である。おまけに今日は当事者を含め、関係者全員が信徒という最近めずらしい構図になり、時間の終わりを祈りで締めくくることができた。一同の教派的背景が重ねて多様である。なぜだろうか、違った持ち味の者が根本的な一致に支えられて協力するという風景が、いつも無性に嬉しいのである。だからこの道に惹かれるということがあったかもしれない。イエスの群れには、ゼロタイ(右翼国粋主義者)もいれば取税人(ローマ支配の末端代行者)もいたが、それが反目の原因になることはなかった。

 相談者が去り、まとめの雑談の中でS氏が思いがけず深い自己開示をなさった。弱さや痛みを開示できる者は、本当の意味で強いのである。パウロの理屈には辟易することが少なくないが、下記の言葉には脱帽する。それを我知らず実行しているSさんにも脱帽である。

「ところが主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれる』。だから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。わたしが弱い時にこそ、わたしは強いのである。」(第二コリント 12:9-10)

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 蒸し暑いので躊躇もあるが、ついでを良いことに銀座に回る。大江戸線というものがどうも頭に入っていないが、これを使うと代々木から銀座が駅間19分である。移動中の液晶情報で今日勉強したのは、

「灯台下暗し」

 これって犬吠埼や佐多岬の灯台(lighthouse)のことじゃないのね!物を知らず恥ずかしい、国語辞典ふうに言うなら「支柱の上に皿を乗せ、灯油を満たして紐状の灯心に火をつける方式の、室内照明器具」のことだったのだ。

 

 ↑ こんな感じのものだが、案外写真が出てこない。このイラストも元サイトの url が不明で示せないのである。時代劇なんかでよく見ると思ったけれど、なるほどこれは下(もと)が暗いことだろう。

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 さて銀座に回った目的は、中学校の同級生である斉木章代(さいき・ふみよ)画伯の最近作を見ることである。今年はみゆき通りに面した小画廊、20歳前後から一貫して少しもブレない画風だが、大小二幅を対にする趣向はあまり記憶にない。

 

  タイトルは「かたりべ(希望10)」、このところの連作である。

 作者自身は千葉のかなり田舎に住んでいるので、毎日銀座までは出てこない。ぼんやり絵を眺めていると、お仲間の先生方の会話が耳に入ってきた。

 「日本では小学校に入ると、図画工作の時間にいきなり絵の具を持たせて絵を描いてみろと云う、これがマズいんです。フランスだと、まず子どもたちを美術館に連れていって絵を見せる、たっぷり見せておいてから画用紙を与えるわけですな。手本になるイメージがあるから、子どもたちの食いつきが違う。」

 なるほど一理ありそうだ。言語教育でも同じことで、まず良い文章をたっぷり読ませなければ良い文章の書ける理屈がない。自発性とか創造性とかとは別の次元の話で、見聞きするそばから覚えていく頭の柔らかいうちに、名文をどんどん暗誦させたら良いのである。欧米では今でもそれをやっている。だからそこに歴史が生まれる。オバマのスピーチがリンカーンやMLKの演説の学びの上に構想されているのを、この夏も見たばかりだ。

 良いことを聞いた、来た甲斐がありました。

 

Ω

 


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