散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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「しと」と「ばり」/ねまる也

2016-08-29 08:26:05 | 日記

2016年8月29日(月)

 何のことかパッと分かる人は偉い。

 芭蕉の道行きが松島から平泉を経て出羽の方角へ転じ、尿前の関に至っている。尿前(しとまえ)とはケッタイな名前で、菅菰抄(すがごもしょう)によれば、「今、尿戸前と書く。義経の若君の、初めて尿(しと)をし給へる処なるべし。小児の尿(いばり)を奥羽にてはシトといふ。他国にてシシと云ふに同じ。奥州平泉より、羽州新庄の舟形といふ所へ出る山道を、しと前越しと云ふ。義経奥州へ下向の時、秀衡此処まで出迎たると云伝ふ」とある。

 なるほど、尿を表す一般名詞は「いばり」(所により「ゆばり」という例があったように思う。『燃えよ剣』にも出てたかな)。こどものそれは「しし」「しと」などと云うわけだ。昔の方がよほど風雅で、「小便」「おしっこ」などは何やら品下れる感じがする。

 この関を越えたところで関守の家に宿を請うたが、三日ほど風雨で足止めとなった。その家屋というのが、この時代の農家では普通の風景であったかと思うが、人馬が同じ屋根の下に暮らすしくみである。馬は家族同様の扱いで、麗しい風景だけどたいへんな部分は当然あって、それで有名な句が詠まれる。

 蚤虱馬の尿する枕もと

 これを従来は「のみしらみ うまのしとする まくらもと」、つまり「尿=しと」と読んでいた。馬の尿はこどもの尿と同じ扱いで、岩波文庫版もこれに依っている。角川ソフィア版はこれを敢然と覆した。

 「なお、「尿」は「しと」と読まれてきたが、芭蕉自筆とされる野坡(やば)本では「ばり」と傍訓があり、小児の尿「しと」と馬の尿「ばり」とを使い分けていることが確認された。そこで従来の「しと」を「ばり」に改めてみた。「ばり」には野趣満々たる俳味がこもっている。」

 どうだ、という感じの書き方が良い。確かにそうなのだろう。「しとする」と「ばりする」では破壊力が違う。句の価値そのものが変わってきそうである。こういう言語感覚は嬉しいもので、そういえば『めぞん一刻』にもあったな。五代君が響子さんの怒りを避けて北海道を旅行中、ちょっと美人の道連れができるのだが、この子が牧場で「あっはっは、馬のイバリは滝のよーだわ」とやらかす系で、素敵だけれど色気がないのが五代君には幸いする。腹抱えて笑いながら、高橋留美子という人の言葉のセンスに舌を巻いたものだった。

 無事に出羽入りすれば「雪を眺むる」と花笠音頭に歌われる尾花沢(本来の地名は尾羽沢/おばねざわであるという)、ここで豪商・清風の歓待を受け、御礼を兼ねて詠んだ句の中に、

 涼しさを我宿にしてねまる也

 「ねまる」は「くつろいで座る」の意の方言とあるが、いかにも感じが出ているだろう。猫が丸くなっている姿が連想されたりする。路傍の花や落ち葉の彩を見逃さぬのと同様、土地言葉の中から自在に学び、取り込んで句を豊かにしていく、かくこそありたいものだ。

***

 ふと思い出して本棚から『評釈 芭蕉 - 俳諧・俳文・俳論』という本を取り出した。長年ぶりに、あるいは初めてのことにじっくりページをめくってみると、学習参考書の体裁からは想像もつかない充実した解説書がそこに現れた。尾形仂・丸山一彦共著(旺文社)、昭和47年の初版で定価470円。高校の2年か3年の時に購入したものらしい。小西甚一先生の『古文研究法』は洛陽社が閉じて後、他社が引き継いで文庫版を出した。これなどは代表格だが、昔は生涯座右に置くに足るほどの本格書がいわゆる参考書の中にまま見られたのである。

 セレクションなので、残念ながら「しと/ばり」の部分はスキップされているが、「野ざらし紀行」「笈の小文」「去来抄」など広くカバーしている。楽しみに読んでみよう。

 

Ω


ほたえな!

2016-08-28 07:45:16 | 日記

2016年8月28日(日)

 ついでながら、"Be still." の訳として考えられるもののうち、個人的にいちばん好きなのは・・・

「ほたえな!」

 僕の誤解でなければ、坂本龍馬も口にしたと思われる土佐弁である。「ほたえる」は関西一円に広がる表現のようだが、ところによっては「じゃれる、ふざける、戯れる」の意味が勝って、少しニュアンスが違ってくるらしい。なので敢えて土佐弁と言っておく。

 これについては『教えて!goo』の2009年のやりとりが面白い。中に京都在住の人の回答(No.4)として下記のものがあり、腑に落ちる感じである。

***

 私自身はほとんど使うことはありませんが、上2つ(石丸注:「ほたえる」と「ちょける」)は親の世代がよく使っていました。その場面を例としてあげてみます。

 ほたえる:  男の子がプロレスごっこなどで家の中でドタバタしている時に母が 「これ!ほたえなさんな!」(~しなさんな=~してはいけません) と叱りつける。

 ちょける: ちょろちょろと動き回っていたずらをする幼児の孫に対して 「この子はまたちょけて…」など。

(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4717325.html)

***

 京都でもその用法となると、「土佐弁」(だけ)とも言えないのか。何しろ「プロレスごっこ」はいいですね。戦争ごっこの止まらない地上の人類を、主が天上から「ほたえな!」と一括、それで地がしんと静まる幻を、僕らはどれほど渇望することだろう。

Ω


Be still.

2016-08-28 07:31:41 | 日記

2016年8月28日(日)

 "Be still and know that I am God."

 「私の愛唱句なんです。詩編の言葉で、いつもこれに支えられてます。」

 意地悪なツッコミは喉元で抑え、ただ感心しておくことにする。英語で聖書を読むのを好む人はときどきいて、もちろん結構なのだけれど日本語訳より英語訳の方が基本的に価値が高いわけではないことは、念のため知っておきたい。「基本的に」と注釈を付けるのは歴史の長さだけでもひとつの「価値」にはなるからで、英語を用いて達成された文学的・神学的蓄積を考えればそれなりの敬意は払う必要がある。ドイツ語やフランス語はなおのことだろうが、ただ聖書原文を伝える素材としては各国語の翻訳に優劣などあるはずもなく、クイーンズ・イングリッシュからケセン語に至るまで平等な輪/和ができあがるばかりである。

 ただひとつ違いがあるのは、原文としての旧約ヘブル語・新約ギリシア語で、こればかりはオリジナルとしての非対称的な重要性をもっている。(教会と神学の展開に直接連動するラテン語もこれに加えるべきかな。だけど新約聖書をギリシア語とラテン語で読み比べると結構な違いがあり、これがまた猛烈に面白かったりする。これは別の話。)

 で、

 「いいですね、詩編の何編でしょう?後で見てみたいので」

 「さあ・・・」と相手がドギマギした。これが意地悪だっての、何編だっていいでしょうに。実際こんなのはネットの便利で瞬時に調べがつく。"Be still" まで入れると全体が出てきたりする。

 たとえばNIV(New International Version): Psalm 46:10

  He says, “Be still, and know that I am God;

    I will be exalted among the nations,

    I will be exalted in the earth.”

(https://www.biblegateway.com/passage/?search=Psalm+46%3A10&version=NIV)

 なるほど、詩編46:10ですね。で、わが新共同訳に戻って見ると・・・

「主はこの地を圧倒される/地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」(詩編46:9-10)

 え?

「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」(同46:11)

 "
Be still and know that I am God." に対応するのは、明らかに11節前半である。英語訳と日本語訳でナンバリングがズレてる!一瞬動揺し、それから思い出した。新共同訳は詩の冒頭にある注釈というのか何というのか、「指揮者にあわせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。」などというのを従来訳と違って「1節」と数えるので、節数が一つズレるのである。そうそう、そうだった。そもそも聖書の章・節立ては後世の付加であって原文にはないのだから大騒ぎすることもないけれど、微妙なミスコミが起きやしないか心配になる。こんなのは変えずにおくほうが良くないだろうか。

そして訳文のこと、"Be still (静まれ)" と「力を捨てよ」とは、相通じるけれど同じではないよね。

「汝等しづまりて我の神たるをしれ」(文語訳 46:10上)

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語訳 46:10上)

 ということは、節数のズレ同様に「力を捨てよ」の訳も、新共同訳がもちこんだ変更ということになる。さてそのココロは・・・となると、やはり原文が読めないと具合が悪い。

 ヘブル語は40年前に挫折して以来なかなか気が進まないんだが、そろそろやらないと時間が足りなくなりそうだ。う~ん、悩むな・・・

Ω


現代のコロセウム

2016-08-27 06:42:57 | 日記

2016年8月27日(土)

 鵜久森は水曜日に続き、木曜日は勝ち越し9点目のタイムリー、昨夜は初回の満塁本塁打を含む全5打点を稼ぐ活躍で、お立ち台にも呼ばれた。12年目の脚光で嬉しかろう。

 彼らが敗れた2004年夏の甲子園、相手は北海道勢初優勝を賭けた駒大苫小牧で、そちらに肩入れする心理は分からなくはないものの、済美 vs 5万観衆の構図はフェアなものではない、判官贔屓は身勝手なものだと以前に書いた。この夏はもっと露骨で極端なケースがあった。7回の2-9から試合をひっくり返した東邦・八戸学院光星戦、特に9回裏2死からのつるべ打ちはまことに見事だったが、この時の甲子園の雰囲気は実に異様なもので、高速道路を西へ向かう車のラジオからでもその凄まじさが手に取るように伝わった。分かるかな、巨大な球場を埋めた5万人の観衆が、一方のチームにあからさまに肩入れすることの醜さ恐ろしさが。

 「これは判官贔屓と関係ない、いま弱い立場なのはマウンド上のピッチャーで、判官贔屓が弱い者に声援することなら、応援する相手を間違ってる」とブツブツ言い、「東邦ナインに『あっぱれ』、5万観衆に『喝!』」と嘯き、「コロセウムでキリスト教徒を追い回すライオンに声援を送ったのはこの手合いだ」と毒づいた。相手チームの選手たちの気もちなんかどうでもよく、ただスリリングなドラマが見たいだけならコロセウムの狂乱と変わりはない。考えるだに胸が悪くなる。

 などと言い流していたら、朝日の編集委員が今朝そのあたりをきっちり書いてくれた。

『劇的ドラマの裏に違和感』(安藤嘉浩)2016年8月27日朝刊22面

「東邦ナインが大喜びする一方で、八戸学院光星のエースは(球場の)全員が敵に見えた」とつぶやいた。東邦の選手・応援団と観客が一体となって生まれたドラマだが、違和感を覚えた人もいたのではないか。ある段階から、追い詰められたのは、むしろ八戸学院光星だった。同点になってからも東邦びいきが続いたのは寂しかった。」

「準決勝でも、北海(南北海道)にリードされた秀岳館(熊本)を球場全体が応援する場面があった。秀岳館も追い込まれていたが、北海の大西健斗投手も苦心の投球を続けていたと思う。(石丸注: この試合は北海が勝った。秀岳館と観客に。)」

「せめて、球場全体でタオルをグルグル回すのはやめられないだろうか。甲子園はスタンドが低く、守る選手にはボールが見えにくい。アルプス席の応援スタイルは自由だが、ネット裏でもタオルが回ると、選手のプレーに支障を来しかねない。」

 御説ごもっとも、ナダルがアタマに来たリオのテニスファンより、質も量もよほどたちが悪い。現代のコロセウムここにあり、つまりは帝国の衰亡が現実の危機になっているということだ。

 さて、目黒病棟の北ウイングへ出かけよう。

Ω

 


ward is the word

2016-08-26 07:11:43 | 日記

2016年8月25日(木)

 路上や電車の中で理不尽な場面が日常的に多くて外出がイヤになる、特に出張や帰省から東京に戻った後はそうである。いろいろ考えて、都市空間全体を病院と考えることにしてみた。道路はさしずめビョーインの廊下で、ビョーキの人がうようよいる。そのつもりで歩かないといけない。

 念のために言っておくが、これはいわゆる精神疾患の人々 ~ ちゃんとした患者さんたちのことではない。そもそも精神疾患を「心の病」と呼ぶことに僕は反対で、このことは桜美林時代にK.K.という女子学生から教わった。彼女によれば「心の病」というのは、たとえば目の前に杖ついた人を立たせておいて知らん顔でスマホゲームに興じる(ふりをする)「健常者」とか、耳にイヤホンしながら歩道を自転車ですり抜け、人に当たっても委細構わず走り去る輩とか、そういう系のことを言うのであって(例が少々小物に過ぎるが)、精神疾患とは違う話だというのである。卒業後は性根のすわったPSWになった彼女への懐かしさとともに、あらためて共感。

 もひとつ注を付けるなら、自分はこの面に関して申し分なく健康だなどと言い張るつもりはない。そんな人間はいない。僕の場合この方面での心気傾向とかや強迫傾向が強く、それが現状をいっそう耐えがたくしており、要するに自分にも問題があることは重々承知している。そういう性向をもちあわせた者には、それなりの役割があるんだろうと思ったりもする。

 ともかく気をつけて出かけながらふと思いついたのが、ward という言葉のことである。これは英和辞典を引けば分かるとおり、「病棟」の意味とともに「区」という用法がある。個人的には東京23区の「区」をwardとすることには抵抗があるんだが(もともと管理され監視される空間という意味合いの強い言葉なので)、この23区制度というやつは第二次大戦後に他ならぬGHQがもちこんだものだから、wardを英訳語とすることもたぶん米さんのお墨付き(というか発案)である。「管理・監視」のニュアンスがあるからこそ、この語を選んだのかも知れない。みっちり論じ返していきたい気もするが、それはあらためてのことにして。

 「本日の移動は目黒病棟から千代田病棟へ」と考えたら、瞬間、笑えた。電車の中で読んでいる本が、ちょうど『電気は誰のものか ー 電気の事件史』(晶文社)である。これは社会派的にコワ面白く、たぶん現代の原発問題にまでつながる一方で、自然の恵みや公共性に関する根本的な問題を提起している。著者の田中聡という人は、歴史学者としての学界の評価は知らないが、歴史ライターとしては相当力のある人と見た。奇しくも千代田病棟からの帰途に寄った書店では、ちょっと話題の『原発プロパガンダ』(本間龍・岩波新書)が目について購入したが、これがまた『電気は誰のものか』と好一対である。両者ともに司法の問題にも必然的に触れるところが、なおさら考えどころである。

 ward とは「区」のことではなく、日本の社会全体ではないか。先に挙げた微細な症候の背後に、巨大で深刻な病根が巣食っている。僕らに必要なのは「大医」であり深みからの健康なのだ。

 さて、杉並病棟へ出かけようか。

Ω