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散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

タテのものをヨコにする工夫

2016-06-22 10:34:18 | 日記

2016年6月22日(水)

 隙間時間に、忘れないうちに。

 このところ乗り慣れた羽田・松山便では、搭乗時の混雑を避けるために一般座席の乗客を前後二分し、後方半分を先に、前方半分を後から乗せている。もっともなことだと思っていたが、先日の羽田・鳥取便では、窓側座席の乗客を先に、通路側座席の乗客を後から案内した。これも一理ある。

 大型機では前者、小型機では後者が合理的ということがあるだろうか、こういうことを研究している人もきっとあるに違いなく、解説を聞いてみたいものだと思う。

  ← 羽田発・鳥取行き / 松山発・羽田行き → 

Ω


温羅のこと、もう少し

2016-06-22 09:01:40 | 日記

2016年6月21日(火)

 俵藤太こと藤原秀鄕のムカデ退治、大ムカデとは平将門のこと。同様に桃太郎に退治された鬼とは温羅のこと。そうなると、桃太郎/吉備津彦よりも鬼/温羅に関心が向くのは理の当然としたもので。

 ふたたび wiki 頼み。

 温羅とは伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされる。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、中央の伝承によると吉備には吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣されたというが、吉備に残る伝承では温羅は吉備津彦命に退治されたという。伝承は遅くとも室町時代末期には現在の形で成立したものと見られ、文書には数種類の縁起が伝えられている。また、この伝承は桃太郎のモチーフになったともいわれる。

 伝承によると、温羅は吉備の外から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣した。

 討伐に際し、吉備津彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。そして温羅に対して矢を1本ずつ射たが矢は岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。すると温羅は雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追った。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。そうして温羅を討ったという。

 討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという(吉備津神社の鳴釜神事)。(⇒ 『雨月物語』の吉備津の釜だ。石丸註)

【人物】

○ 温羅 (うら) 「吉備冠者」「鬼神」とも。

 鬼ノ城を拠点とした鬼。渡来人で空が飛べた、大男で怪力無双だった、大酒飲みだった、等の逸話が伝わる。渡来元についての説が複数存在しており、出雲渡来説・九州渡来説・百済の王子説・任那・伽耶渡来説・新羅渡来説など。

○ 阿曽媛 (あそひめ) 温羅の妻。阿曽郷(現・総社市奥坂)の祝の娘。

○ 王丹 (おに)  温羅の弟。

(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%BE%85)

***

 温羅が気になったには伏線があり、岡山の5時間をアレンジしてくださったNさん(実は伊豫松山の同郷人)によれば、中四国地方の少なくとも一部で、韓国・朝鮮のことを「うら」と呼ぶのだと。「だから」と短絡はできないが、同系列の情報には違いない。

 現在の韓国・朝鮮語で「うら」は何かを意味するだろうか?これまた、「だから何」とは言えない話だが、「なら」が「国」を意味する式の連想のタネを期待して辞書をめくる。

 우(ウ)に子音 ㄹ(L) が続く単語として、まずは우리(ウリ:われわれ)がある。続いて・・・

우락-부락 [副] ① あらあらしく言動が粗野で無礼なさま ② 体が大きく人相のけわしいさま

우람-지다 [形] 荘厳にできている

 ちょっと雰囲気があるかな。

우럭-우럭 [副] ① 火の燃えさかるさま、ぼうぼう ② (酔気や熱気で)顔が火照るさま ③ 病気が次第に悪くなるさま

우렁-우렁 [副] 音響の大きいさま、ごろごろ

 何やらいっそう・・・

우러-나다 (にじみ出る)

우러-나오다 (思いがわき出る)

 これらはどういう系列だろうか。

 何かを言うためには、こちらの準備があまりに不足している。だから楽しいということもあるけれど。

Ω


桃太郎異聞

2016-06-22 07:53:04 | 日記

2016年6月21日(火)

 岡山を訪れる前の週末、朝日新聞の土曜版「みちのものがたり」に「時代の波にもまれた桃太郎」という特集記事が出た。眷属を従えて勇ましく出征し、みごと鬼を退治して凱旋するという筋立てには、「人生の荒波の中へ出ていくための心構えを養う」教育的意味があったとか、軍国主義時代の精神教育の一翼を担ったとか、記憶にあるのはそんな半端な断片ばかりである。

 記事のポイントを乱暴に拾っておくと、

① 大和朝廷から派遣された吉備津彦命(きびつひこのみこと)による、温羅(うら)征討の故事が背景にある。

② 敗者の鎮魂が伝説形成の主たる動機である。

③ 「桃太郎」物語は室町末期から江戸初期には成立しているが、記紀に遡れる浦島太郎や因幡の白兎などと比べて出自がはっきりせず、謎が多い。(なので①、②といった推論が必要になる。)

④ 富国強兵-軍国主義路線の中で、他の昔話とは違った形で利用された。

 と、こんなところだろうか。①、②についてこれまで全く知らなかったので、記事の末尾を転記する。

*

 岡山の文化・歴史に詳しい臼井洋輔・備前焼ミュージアム館長(73)は温羅伝説について「ただの作り話ではない」と語る。「古代の吉備に起きた大混乱を後世に伝えたい思いから生じたのだと思います」

 吉備では早くから渡来人が伝えた製鉄が行われた。「異国から飛来した皇子」と伝えられる温羅は、製鉄技術との関わりを持つと読み取れる。製鉄を強みに吉備は繁栄するが、これを脅威とみた大和政権に滅ぼされた。伝説は大和に対抗して敗れた吉備諸族の事績を伝え、鎮魂する意味があるとみるべきではないか、そう臼井さんは推測する。

*

 wiki の記載が案外良い。臼井氏個人の推測というより、歴史学のコミュニティでほぼ共有された理解らしい。

 吉備津神社(岡山県岡山市、備中国一宮)の縁起として、吉備津彦命が吉備平定にあたって温羅(うら・うんら・おんら)という鬼を討ったという伝承が岡山県を中心として広く知られる。これによると、温羅は鬼ノ城に住んで地域を荒らしたが、吉備津彦命は犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来とともに討ち、その祟りを鎮めるために温羅の首を吉備津神社の釜の下に封じたという。この伝説は物語「桃太郎」のモチーフになったともいわれる。吉備地域には伝説の関係地が多く伝わっているほか、伝説に関連する吉備津神社の鳴釜神事は上田秋成の『雨月物語』中の「吉備津の釜」においても記されている(詳細は「温羅」を参照)。

 この伝承では、温羅は討伐される側の人物として記述される。しかし、吉備は「真金(まかね)吹く吉備」という言葉にも見えるように古くから鉄の産地として知られることから、温羅は製鉄技術をもたらして吉備を繁栄させた渡来人であるとする見方や、鉄文化を象徴する人物とする見方もある。また、吉備津神社の本来の祭神を温羅と見る説もあり、その中でヤマト王権に吉備が服属する以前の同社には吉備の祖神、すなわち温羅が祀られていたとし、服属により祭神がヤマト王権系の吉備津彦命に入れ替わったと指摘されている。

(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E6%B4%A5%E5%BD%A6%E5%91%BD)

 吉備路の歴史は古く、畿内と大陸の双方に道が開けている。

Ω

 


豎子不足與謀

2016-06-22 06:44:55 | 日記

2016年6月21日(火)

 午後、M先生・H先生とラジオ特別講義のうちあわせに臨む。日曜日の博士課程指導の続きのようなもので、夢中になって話すうちあっという間に2時間以上経っていた。どこから始めても、結局同じ「現代」にたどりつく。山の風景が反対側からはそんなふうに見えるのか、こっちはこんな具合ですよと教わる楽しみ、伝える興奮である。

*

 ある雑誌に載せた小さな記事、完成版が届き、全体としては満足の出来だが、ある箇所を確認して「やっぱり」と小落胆。「それもそのはず」とはよくある表現だが、少々考えるところあって「それはそのはず」と変化球を混ぜてみた。校正作業でちゃんと「も」に戻されている。

 「なお、この先原稿は他の編集者の目も通りますので、文章表現などに少々変更が入る可能性があることをご了承いただけますようお願いいたします。」

 敢えて「了承しない」とは言わずにお手並み拝見してみたけれど、やっぱり言っとけばよかったな。助詞一つが文の命だもの。この雑誌の仕事は今後考えよう。

*

 これはまた別件。

 「唉、豎子与に謀るに足らず」

 『史記』は「鴻門之会」、項羽麾下の范増の言葉、「ああ、豎子(じゅし)ともに謀るに足らず」と読みくだす。高校の教室で教わったのが妙に印象に残り、40年来ときどきつぶやくことがあった。そういうお前が「豎子」 ~ 小僧、小物、器の小さいもの ~ の見本ではないかと頭の後ろで声がする。それもそうなんだけどね。

 いずれがアヤメ、カキツバタ、浜松あたりでは「似ったか、よったか」というところか。

Ω

 


岡山を経て松山へ

2016-06-21 10:46:27 | 日記

2016年6月13日(月)

 少々前後して、先の週末の旅後半のこと。

 鳥取駅真向かいのホテル、バイキング形式の朝食の隣席は女性二人、高齢の母親とその娘さんという様子で中国語の会話を交わしている。気にもとめずにいたが、お母さんのほうがクシャミをしたら娘さんが「Bless you!」と声をかけたので、思わずそちらを見てしまった。またクシャミ、また「Bless you !」、僕と視線が合うと首をすくめて笑った。つられてこちらも「Bless you !」、お母さんは表情を変えず、娘さんが「Thank you」と返事した。

 中国語を話す人々は地球上に数十億人いるが、お二人さんの出身地はかなり絞り込める。僕の通勤路はディズニーランド最寄り駅を通るので外国人観光客と話す機会はちょいちょいあるが、中国(中華人民共和国)からの観光客と会話できたためしは一度もない。視線を合わせることを周到に回避し、仲間同士の会話に閉じこもるのが相場である。もっともこれは消去法的な推測で、8年近くも通う間に話した相手は台湾・香港・シンガポールからの中国人ばかりである。実際には大勢来ているはずだから、視線を合わせず会話を望まないあの人々が、大陸の中国人に相違ない。

 隣の母娘は確かにそれとは違っている。尋ねてみたらやっぱり「シンガポール」だって、道理で英語が流暢なわけだ。シンガポールの人づくりにはまったく敬服する。日本は初めてかと聞いたらとんでもない、新潟・広島・博多・北海道など「東京・京都・奈良」とは違った地名がズラズラ出てきた。今回は島根・鳥取の山陰ツアー、日本は大好きだといい、初物のスイカを「これ美味しい!」とおかわりしている。僕はマレーシアはじっくり旅したが、シンガポールは行ってないのだった。

 「世界一ととのった美しい国でしょう」「でも小さい国」「小さいことは悪いことじゃないもの」「ありがとう、きっと来てね」・・・シンガポールは不思議の国、ついでに言うなら、同じく中国人が作った小さなエリアの香港とシンガポールの対照が、30年来ひそかな瞠目のタネである。

***

 ホームまでお見送りいただくなんて、半世紀ぶりぐらいではないかしらん。

  お見送りのお二人は御夫妻ではない、念のため。

  

 ↑ 「スーパーいなば」のこのマークは梨の花だね。「西日本旅客鉄道(JR西日本)および智頭急行が岡山駅 - 鳥取駅間を山陽本線・智頭急行智頭線・因美線経由で運行する特急列車」とある通りのコラボ線だから、鳥取側の梨の花だけでは公平を欠くだろう。岡山側のシンボルは何かしら、どんなふうに塗り替えるのかな等と考える。

 道々、田植えが終わったばかりの山間の風景にうっとり見とれた。一昨日は南東北の田んぼに見とれていたが、ふとあちらの方が作付けが早いらしいことに気づく。葉波がもっとぎっしり立ち上がっていたような。単純に気温では決まらないものか。

 田んぼの風景は日本の旅情の原型である。セントルイスの神経科学のユダヤ系の老教授で、日本の生活風景を見事な写真に切り取って飾っていた人があったが、中でも目を引いたのがごくあたりまえの田んぼの眺めだった。「旅情の」ではない、日本人の心性の根本条件であるに違いない。

***

 途中駅の佐用、これは「さよ」と読むらしい。地名の由来について下記の解説あり。

 佐用郡の地名は、播磨国風土記に「讃容郡(さよのこおり)」に見え、その地名の由来を最初に書いている。

 「大神夫婦の二人がこの地に来て国占めの争いをされたとき、玉津日女命が生きた鹿を捕らえて腹をさき、鹿の血に稲をまかれたところ、一夜の間に苗がはえたので取って植えられた。これを見て夫神は「あなたは五月夜(さよ)に植えたのか」といって自分の負けを認められてこの地を立ち去られた。それ以来この地を五月夜郡(さよのこおり)というようになり、妻神を讃用都比売命といった話が出ている。」(佐用町史) ※玉津日女命は伊和大神の妹の説もある。

(http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=11007&bbs_id=102 より転載)

 何しろこのあたりは、黒田官兵衛が力を蓄えた宍粟(しそう)の一帯である。佐用のひとつ手前(鳥取側)、大原駅には「宮本武蔵生誕の地」とある。そうか、武蔵は「作州浪人、新免武蔵こと宮本武蔵」とあるとおり、美作の出身なのだ。佐用からひとつ進んで智頭線が山陽本線に接続する上郡駅ではスイッチバックがあり、「お声を掛け合って座席の反転を」という車内放送に従って乗客一斉に立ち上がり、ガタリンコと座席を回転させる。見事な協力ぶりだが、どうせなら笑顔で挨拶でも交わしながらすれば良いのに。みんなむっつり、鳥取から隣席のビジネススーツの若い女性は座席回転の間も両耳のイヤホンを外そうとせず、笑顔はおろか視線を全く合わせない。どうももったいないことだ。

***

 鳥取滞在は23時間、岡山はわずか5時間だったが、ここでも主催者の心を砕いた準備のおかげで良い集まりができた。70名あまりの出席者中には、教会関係者や精神疾患当事者・家族が多数いらしたようである。

 

 その足で東へ戻るつもりだったが少々事情あり、予定変更して東ならぬ西へ向かう。中国大返しの鏡像版と気どっておこう。「しおかぜ」で3時間弱、単線をのんびりたどる田舎の特急だが、やがて開ける故郷の海、光の道、この眺めは天下一品である。

 

Ω