散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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土曜の講演会/藤田さんと藤田さん/「責任」のこと

2013-11-17 23:32:28 | 日記
2013年11月17日(日)

 昨日の講演は、とても恵まれた。

 子育て世代の若い親たちが数えるほどしか集まらなかったのは、想定の範囲内。
 子育てのOB・OGや思春期の子供をもつ父親、少数ながら幼児と格闘中の現役ママなどを含め、熱心な聴き手の前で楽しく話をさせてもらった。

 主宰者御一同に感謝しつつ、レジュメを画像ファイルで掲げておく。パワポは使わなかったが、今回はそれが正解だったと思う。

 「内容を膨らませ、ぜひ冊子化するように」と勧めてくださった方があった。


 10月に入ってからの超繁忙に一息つき、午後は完全に脱力して過ごした。
 サッカー日本代表はオランダに2-2で引き分ける大健闘、サッカーはよく分からないが、前半終了間際に1点を返してから日本チームの動きが見違えるように良くなったことは、ハッキリわかった。達成感の効用である。

***

明けて今日の日曜日。

「著者に聞きたい本のツボ」は寄生虫学の藤田紘一郎先生が登場、近著『脳はバカ、腸はかしこい 』について語っているらしい。(ほんとうに、「バカ」は使用解禁のようだ。)
 わが母校の名誉教授であらせられるが、僕らは前任の加納六郎先生の時代の学生なので、直接教えを受けたことはない。加納先生は人柄の徳でも知られた方だったが、藤田先生はそのヤンチャな書きっぷりでメディアの寵児ともなっておられる。
 所説の全てを鵜呑みにして良いかどうかはともかく、多くの真実を含んだ痛快な言説であることは間違いない。

「およそ動物は、基本的に消化管さえあればよい。これに有害物を回避するための神経系、誤って摂取した時に毒から身を守るための免疫系が付随すれば十二分」とおっしゃる。あと、生殖系はどうしても要るんでしょうね。
 脳は神経系には違いないが、本来必要な限度を超えて畸形的に発達していると先生はおっしゃる。恐怖だの不安だのは、いたずらに脳が発達した結果生じたもので、だから現代人もあえて腸に従って生きればいいのだと。
 脳が畸形的に発達した生物種をホモ・サピエンスというのだから、今さらトータルに腸がえりもできないだろうが、ここでもまた藤田説に深い一理がある。たとえばパニック障害があれほど急速に悪化するのは、「予期不安」と「学習」という脳の得意技の存在によるものだ。
 「腸に戻る」はともかく、ある程度「自然に帰る」ことをしなければ、都市型ノイローゼの蔓延は止まないだろう。

 藤田説を拝聴しながら、マンション理事会の議事録を見るともなく見ていて、「あ」と声が出た。数か月前までの大規模改修工事で、現場代理人として工事全体を統括してくれた人が急逝したとある。この人も藤田氏だった。
 いくらか顔色が悪く、ヘビースモーカーなのが気に掛かってはいたが、僕などよりは10歳以上若かったはずである。トラブルは不可避の現場にあって、工事担当者の苦労や不平、僕ら身勝手な居住者の注文を一手に引き受け、穏やかで親切な対応に腐心していた姿が目の当たりに浮かんでいる。休日もあるのかないのか、非常な激務であることは想像に難くない。家族があったとすれば、子どもも独り立ちしてはいまい。
 管理組合から、感謝状と香典を贈るとある。

 午前中、教会へ。
 パウロの言葉、「あなたがたの血は、あなたがたの頭に降りかかれ、わたしには責任がない。」(使徒言行録 18章6節)
 何と、ピラトの言葉と重なるではないか。「この人の血について、わたしには責任がない。あなたがたの問題だ。」(マタイ27:24)
 責任とは何だろうか。
 パウロは告げるべきことを ~ 命がけで ~ 伝えたうえで、これを拒絶する相手に「自己責任」を告げたのだ。ピラトは被告人の無罪を内心に確信しつつも、政治的配慮からその処刑を容認し、しかしそれを望んでいるのが群衆であって自分ではないことの「アリバイ」として同じ言葉を使っている。いかにも怯懦、ピラトの不利は明らかなのだけれど、何か割り切れないものがいつもそこに残っている。

 何を、どこまで果たしたときに、誰に対して僕らは「責任がない」と主張できるのだろうか。
 金曜日にT夫人から提示された、新たなミッションのことを思い出す。精神障害者のスティグマ問題を長年誠実に扱ってきた学者の主著を、邦訳するというプロジェクトである。あるいはまた、先日来の「赦し」と「悔い改め」のこと。

 「責任」はギリシア語で何というのか?

酸鼻(讃美ではない)/紅葉の兆し

2013-11-16 07:06:29 | 日記
2013年11月16日(土)

『荒神』
 ・・・砦の北側の竹林が見えるあたりまで戻ると、さらなる惨状が待ち受けていた。溶かされかけ、身体がばらばらになりかけた番士たちの骸が、こんがらがって、ひとかたまりの山になっている。

この作家は山場に臨んで、凄惨な場面を荒々しく執拗に描写するところがあり、付いていきづらい感じをときどき覚えていた。けれどもこの作品では、明確な意図のもとにその手法が動員されているのを感じる。そのように期待してもいる。

大うわばみのもたらした惨禍は、一見して戦争のそれに重なるだろう。自然災害ではなく人災、もしくは天意がこめられたという意味での天災である。
うわばみは人の憎悪の化身であることが、既に繰り返し予告されてきた。生き延びた主人公一行が、負いつ負われつようよう人里へ落ち延びていく。

***

快晴。

西に望む大学の敷地内の、樹々がおもむろに紅葉・黄葉へ向かいつつある。銀杏はこの時期、とっくに全身が黄色かと思ったが、そうでもないらしい。まだ気配程度だ。

今日は午前中、渋谷の某所で子育てについての話をする。
専門でもないのに申し訳ないが、楽しい話を楽しく話して、心の役得をしっかりいただいてくる予定。

「日本生殖医学会は15日、神戸市内で総会を開き、健康な未婚女性が将来の妊娠に備えて卵子を凍結保存しておくことを認めるガイドライン(指針)と、実施できる施設の基準を正式決定した。」
ただし、
「40歳以上での卵子の採取と、凍結卵子を使った45歳以上での妊娠は推奨しないとした。また、卵子の凍結保存と妊娠・出産の先送りを推奨するものではないと明記した。」
(日経新聞)

こんなことにも触れるかな。
功罪あるには違いないが、人の生がいっそう強迫的になるのは不可避と思われる。
木の葉も人も、秋になれば色が変わるのだ。それをコントロールしようとすれば、人生は別のゲームになる。

生きる力と生かす力

2013-11-14 22:42:05 | 日記
2013年11月14日(木)

締切を過ぎて抱えていた原稿が、ひとつ片づいた。
今日の空のように晴れやかな気持ち。

ついでに、東京女子大の講演の抄録校正が回ってきた。
テープから原稿を起こすのはたいへんな作業だ。今どき良いソフトウェアができていて、PCがやってくれるのかもしれないが。
何しろスタッフが頑張って良い粗稿を作ってくれたおかげで、こちらの作業は楽だった。

転載しておく。

もっとも、当日はもっといろいろ脱線してるし、その部分が面白かったんだけれど。
産声の瞬間に、新生児の体内でたいへんな事態 ~ 進化上の大ジャンプが起きてること、
創造主が幼児の泥んこ遊びのように無心に世界をつくったこと、
バナナケーキの話、
ケーキ作りと泥んこ遊びが似てること、
などなど。

*****

「生きる力と生かす力」

【呼吸の不思議】
 もし生きるということをあくまで一人称で、「私が生きる」と考えたら、しんどいことも多いと思います。
「私たちが生きる」というのは、とりもなおさず何者かに私たちが生かされているということです。そのことに本当に気付いて実感できる時に、「生きる」ということがずっと楽になり、楽しくもなると思います。
「いきる」という言葉の語源は「いき」、つまり「息をする」ということに由来するとの説があります。
吸っては吐き、吐いては吸う、「息をする」動作の繰り返しには、非常に不思議なところがありますね。私たちは息をしようと思わなくても、息をします。忘れていても息をします。それは、心臓のことを忘れていても心臓は動き、胃腸のことを忘れていても胃腸が働いてくれるのと同じです。けれども心臓や胃腸は、私たちの意志によって動かしたり止めたり、動きを速くしたり遅くしたりすることはできません。これらの内臓は私たちの意志の支配を離れ、自律神経に支配されて勝手に動いています。ところが呼吸だけは、自律神経に支配されていると同時に、随意に速めたり遅くしたり、止めたり再開したりすることができます。自律的なコントロールと意志によるコントロール、この二重の支配を受けているのが呼吸の不思議なところです。
「生きる」ことも同じです。私たちは、ことさら「生きなければいけない」と考えなくても、だいたいは生きていけるのです。しかし人生の中で何度かは、「生きよう」「生きたい」「生きなければ」と、意志的に決断をしなければいけない時があります。まさに息遣いと同じ二重性がそこにあるのです。

【生きることの困難 ~ 精神疾患の現状(=わたしたちの社会の現実)】
多くの人がうつ病は増えていると思っているでしょう。意外かもしれませんが、実際にはうつ病は必ずしも増えていません。それは「うつ病」の定義に関係があることです。たとえば、ひと月に100時間を超える時間外労働を余儀なくされ、不眠不休で働き続けた末にダウンしてしまったケース。これは病気でしょうか。生じた結果は確かに病気なのですが、こんな働き方をしていれば病気になるのがあたりまえです。これは異常な刺激に対する正常な反応というべきでしょう。こういうものを、昔はうつ病と言いませんでした。抑うつ反応とか、ストレス反応という言い方をしたのです。昔ながらの「うつ病」とは、そういう原因が何も見当たらないのに、ひとりでに気分が沈んでいくケースを指していました。理由なく気分が落ち込んでいくから病気とされたのです。そのような昔ながらの、原因不明のうつ病は、減ってはいないけれど増えてもいません。増えているのは、強い環境ストレスによってブレイクダウンを起こしてしまう、反応性の抑うつ状態なのです。
こういうケースの多くは、最近の診断名では適応障害と呼ばれます。適応障害とは、何かはっきりとしたストレス因があって、それに対する反応としてうつになったり不安になったりするケースのことです。この適応障害が、最近ものすごい勢いで増えてきているのです。皆さんの周りでも、思いあたるようなことが起きていないでしょうか。

【人を支えるネットワークの綻び】
 適応障害が急増しているのはなぜか、人によってはその原因を、「今の日本人が、昔に比べて折れやすく打たれ弱くなったからだ」と見るのですが、果たしてどうなのでしょう。そういう面もあるのかもしれませんが、私は個々の日本人が弱くなったということよりも、むしろ人と人とをつなぐコミュニティのネットワークが、至るところで綻(ほころ)びをきたしていることが問題なのだと思うのです。だから皆、大変なのです。地域の支えも、職場の支えも、家庭の支えも、ないとは言わないまでも、以前よりずっと弱くなった環境の中で、自分の面倒を自分で見ていかなければなりません。ひとりで頑張っていかなければなりません。そのことが皆さんを、非常に打たれ弱くしているのです。これからの時代に向けて、私たちはしっかりとコミュニティの作り直しをしなければいけないと思います。そうしないとメンタルヘルスの状況も改善しないでしょう。

【患者さんが運んでくるもの】
精神科医として診療していてつくづく思うのですが、患者さんが外来へやってくるというのは、実は大変な作業なのです。病気のつらさを抱え、見も知らない医者や看護師に出会う不安を乗り越えて外来に足を運ぶ患者さんは、そこに来た時点で既に大きな仕事をしています。その熱意と努力が、その人自身を良くするということがあるように思うのです。
外来診療の日には朝9時過ぎから夕方の6時頃まで、一日中他人の悩みに耳を傾けていることになります。そこで、「そういう仕事をしていて疲れませんか」「自分の方が、うつになりませんか」と訊かれることがよくあるのですが、不思議なぐらいそういうことは起きないのですね。自分が医者として患者さんを治すというよりも、患者さんが一生懸命とりくんでいる自己治療の作業に参与し、手伝っているという感覚が強いのです。そこで、いつも思い出す聖書の言葉を紹介しましょう。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。元気に暮らしなさい。」(マルコによる福音書5:34)。これは12年間にわたって出血性疾患を患っていた女性の話です。この女性がせめてイエスさまの服にでもふれれば、癒していただけるに違いないと思って、群衆の中でイエスさまの服にしがみつく。イエスさまは自分の中から力が出て行ったのを感じ、「触ったのは誰か」とおっしゃって振り返る。恐る恐る進み出た女性に、イエスさまがおっしゃったのが先ほどの言葉です。
キリスト教の教えでは、救いは私たちが自力で獲得するものではありません。もっぱら上から下されるものです。神様の恵みが私たちを引き上げるのであって、私たちは自分を救うことはできません。しかし、イエスさまはあえて「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃるのです。「生きたい」「よくなりたい」「健康になりたい」、そう願う私たちの願いは、必ず何事かをなしとげます。それは神様の救いの仕事の、大事な一部分を占めるものとさえなるのです。そのことを聖書は語り、私は日々の診療の中でそれを実感しています。私たちは皆、無力であるけれども無力ではありません。自分で自分を生かすことはできませんが、生かしていただく作業の大事な一部分を担うことができるのです。

【絆の強さ】
アルコール依存症の方々の集う、「断酒会」というコミュニティがあります。中でもAA(alcoholic anonymous 匿名断酒会)はアメリカで始まったものです。そのミーティングに参加するのに、資格や肩書きはいらない、むしろ全部捨ててきなさいという、それが「匿名」の理由です。酒というものに打ち負かされた、一人の人間としてそこに参加する。そこで何をするかというと特別なことは何もないのです。ただ頻繁にミーティングをやって、そこでお互い語りっぱなしに語り合います。それぞれのつらさや思いなどを話し、お互い無批判に聞くのです。ただ、語って聞いてというそのミーティングをひたすら繰り返します。効果があるのですよ。断酒会につながった人の断酒率や生存率は、参加しなかった人よりもはるかに良いのです。人が集まることには、こんなに力があるのかと思います。
農村共同体が崩壊し、職場が共同体であることをやめ、家庭が力を失いました。そのいっぽうで、たとえば断酒会のような、お互いがお互いの運命に関して真剣に関心をもっているコミュニティが生まれています。精神障害者のコロニーの中にも同じようなものがあるのです。一人ではできないことも、お互いに助け合って達成することができます。これがお互いを活かす力だと思います。
私たちは生きる力を与えられています。現に生かされているということが、その証明です。けれども時として、その力に自信のなくなる時があるでしょう。そのような時、仲間を見出すことができ、神さまの力を見出すことができるならば、私たちはまた先へ進むことができるのです。

もちつもたれつ/カイロウドウケツ

2013-11-14 08:06:46 | 日記
2013年11月14日(木)

「持ちつ持たれつ」もあったな。

再記しておくと・・・

ゆきつもどりつ
さしつさされつ
ためつすがめつ
とつおいつ
こいつこがれつ
もちつもたれつ

そういえば、モチツモタレツという名前の動物がいるということを、むか~し畑正憲のエッセイで読んだ気がするんだが、記憶違いかな。
ネットで引いても「共生」とか「草薙全裸」とかが出てくるばかりで(後者は何で?)、目的地にたどりつけない。

同じエッセイに載っていたカイロウドウケツのほうは、海綿動物として確かに実在する。
『雑木話』さんという愉快なブログから写真をお借りしておく。
名前の由来もそこを読めば分かるが、それ以上に興味深いのは誰がこんなユーモラスなネーミングを、後世に遺したしたかということだ。
確かムツゴロウ氏が書いていたように思ったが・・・


http://homepage1.nifty.com/tadahiko/ZOKI/ZOKI-010.HTML

四季の色/ケネディ駐日大使/機械音の効用

2013-11-14 07:52:39 | 日記
2013年11月14日(木)

「青は何の季節か?」と朝刊クイズ、中国古代思想の話である。
答えは青、春夏秋冬が順に青朱白玄となる。
「青春」「朱夏」を考えれば分かるか、なるほど北原「白秋」、「玄冬」は使ったことがなかった。

ってことは・・・

春・青・青龍・東
夏・朱・朱雀・南
秋・白・白虎・西
冬・玄・玄武・北

めでたく完成。

***

キャロライン・ケネディが明日、着任する。
JFKの葬儀の写真に、敬礼して見送る坊やが写っていて子ども心にも悲しかったが、自分とほぼ同年のお嬢さんがいたのは気づかなかった。

彼女の父が「第二次大戦中に日本軍と戦った」とだけ、さらりと新聞に書かれている。
それだけなら当時の米国人は皆同じだが、ケネディの場合は少々いわくつきだ。
彼が艇長を勤めたパトロール魚雷艇・PT109は、1943年にソロモン海域で日本の駆逐艦・天霧と遭遇衝突し、船体は四分五裂、乗員は海に投げ出された。負傷者を命綱でつないで6kmほどの島に泳ぎ着き、ココナツに刻んだメッセージを現地人に託して6日後に救助される。
いったん全員戦死と報じられた後の生還だった。

ケネディは出来の悪い次男坊で、秀才の兄ジョセフの影でけっこう屈折した少年時代を送っている。その兄はJFKの生還直後にヨーロッパ戦線で事故死し、父の野心は一転、次男ジャックに託されることになる。

戦後、ケネディは天霧の艦長や乗務員と「再会」し、上院選・大統領選では激励の色紙を贈られている由。美談ということになるのだろう。

***

小豆島のMさんより来信(メールもこう言うのかな?):
 電灯の調子が悪くて、上から落ちそうになっていたので、新しい蛍光灯に変えました。
古い電気はひもを引っ張って点く時、かすかな音が出て分かったのですが、新しいのは音がしないのでかえって不便です。
 どう表現したら良いかわからないんだけど、使い勝手の良い所などは残して作ってほしいと思います。

石丸返信:
 なるほどね~
 そういえば、電気自動車ってびっくりするぐらい静かなので、かえって危ないんです。東京の商店街で、ギョッとしたことがありました。
 安全のために、わざと軽い騒音を出すようにしてほしいと思いましたが、お話と通じそうですね。

Mさん再信:
 先生ご存じだと思いますが、金融機関などのキャッシュはタッチパネルの所が多いのです。 でも、機械の横の受話器で操作ができるので助かります。

・・・タッチパネルか、困るだろうな。
どんどん「便利」になる都市環境が、誰を利して誰に負担をかけるか考えないといけない。
急速な変化自体、たとえ便利な方向への変化であっても負荷になるんだから。
高齢者・田舎の人・障害を抱える人には、特にそうだ。