散日拾遺

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真理への畏敬:解題

2020-10-14 07:20:32 | 日記
2020年10月9日(金)
 「真理への畏敬」という言葉について補足しておきたい。この言葉は前項のガイダンスの主題とも言えるが、直接この言葉が使われてはいない。実は福田先生との、先立つやりとりの中でテーマとなったものである。
 同先生とのこれまでの経緯はなかなか面白いものだったが、本題から逸れるのでごく簡単に記す。先生のかつての指導教授が僕から言えば岳父にあたる。岳父は脳を専門とする解剖学者で電子顕微鏡研究を十八番にしており、僕も電顕を教わりにしばらく彼の研究室へ通った。このことが後の留学で大いに役立つのだが、これも今は触れない。
 ともかく岳父の研究室に日参した際に、そこで研鑽に励んでおられた福田先生と出会い、共通の友人も複数あったりしたところから親しくしていただいた。そんな伏線が、30年近くも経ってあらためて意味をもつことになった、ざっとそんな次第である。
 以下、メールのやりとりから抜粋する。

● 福田先生より:
 ご無沙汰しております。
 今年の解剖学会九州地方会では、H先生と行った41年前の研究結果を発表します。抄録と、当時の実験ノートからコピーさせてもらった記録を添付します。
 実はこの内容は、多くの研究者が未だによく理解していない事実と思われます。臨床においても、精神科医にとどまらず様々な科の医師が、睡眠障害などに対して日々投与している薬剤の局在 (電子顕微鏡で初めて捉えられる、neuropilの狭い細胞間隙と脳室との繋がり)の理解を助ける内容といえます。
 秋に延期した肉眼解剖学実習がもうすぐはじまります。脳実習は昨日終わりました。どちらも、実習では学生同士の作業の協力や discussion が不可欠なので密になることは避けられませんが、 攻めの姿勢で科学的に正しく防御する手段を講じて、例年に近い実習を進めていくことにしました。不織布マスクと手袋に加えて全員にフェイスシールド着用を義務付け、更衣室や洗い場は時間を区切って混雑を避ける、などです。
 東京は感染者の多さから、お仕事や生活におけるご苦労の大きさをお察しいたします。どうぞご自愛ください。

● 石丸返信:
 お便りをありがとうございます。
 41年前ということは、1979年当時の研究の成果ということになりましょうか。
 拝見して、この話題を意気軒昂に語る岳父の姿がありありと思い起こされました。これほど基本的な事実に関わる、臨床的にも重要な意義のある知見が、確固たる証拠の存在にも関わらず世に伝わらないのはナゼか、かねがね不思議でなりません。それだけに福田先生の発信はたいへん心強く、研究者の良心の証しとも感じる次第です。
 亡父と御縁のあった方々の中で、福田先生お一人がこうして父の遺産を確かに継承してくださることは、家族にとっても何よりの励ましとなることでしょう。
 コロナ禍の中、「攻めの姿勢で科学的に正しく防御する手段を講じ、例年に近い実習を進めて」いらっしゃるとのこと、満腔の敬意を表します。先生のその姿勢は、学生たちの心に末永く良い薫陶を残すに違いありません。
 いっそうの御活躍をお祈り申しあげます。

● 福田先生より再信:
 41年前というのは私の勘違いでした。
 実験ノートに1979年と書いてありますので、トレーサー注入実験をH先生が行ったのが41年前です。私の最初の論文(1987年)をまとめるにあたり、79年の実験で作っておいた標本が大事な論点の証明に使えるのではないかと御教示いただき、残っていたエポンブロックをいただいて電顕で観察しました。期待通りの結果が得られ、論文の図に加えました。
 なお、この最初の研究はまだ学部学生の時に、H先生の研究室でお世話になって行ったものです。1987年は私の医学部卒業の年にあたります。
 当時の医学部学生生活は、昨今とはちがってのんびりしたものでしたね。

 その際の電顕観察を通して、今回の抄録に書いたような事実を確認し、髄液についての考え方を深めることができました。その内容について、毎年の医学部学生への講義では伝えてきましたが、どうやら研究者の間でもあまり認識されていないことのようなので、学会発表することにした次第です。
 真実を追究するH先生の研究姿勢からは大いに薫陶を受け、今に至っております。
 「ものをして語らしめる」という言葉を常々おっしゃっていたことをよく覚えております。科学者にとって、真実とは何かということを教えていただきました。

 キリスト教徒としての流派は異なるのかもしれませんが、矢内原忠雄の流れになる故大塚久雄(東京大学西洋経済史、岩波新書の『社会科学の方法』『社会科学における人間』の著者) による『生活の貧しさとこころの貧しさ』という本に、若い頃影響をうけました。国際基督教大学などの場での講演集ですが、その中でも印象に残ったのは「真理への畏敬」という言葉でした。
 聖書の中のある逸話に基づいたお考えですが、どんなに自分には不都合なことであっても、正しいものは正しいものとして、その前には黙って頭をさげる態度、真実を尊ぶことの大切さを述べたもので、当時大問題であった学生運動を憂慮し、運動主体側と大学当局との間の対話に、そう言った要素が欠けていることが対立を激化させているのではないかと論じた内容でした。
 それ自体と趣旨は異なりますが、私としては真理への畏敬という内容と、H先生の学問への真摯な姿勢に、非常に近いものを感じました。
 西洋で発達した科学の根底には、キリスト教の考え方が通奏低音のようにあるのかもしれないなどと素人考えで思っています。

 解剖学実習の最終日には、実習を通して、ご遺体の中の構造の詳細が、一人一人教科書とは必ず異なっていることを経験した学生に向けて、目の前のご遺体にこそ真実があること、これは将来自分が担当する患者さんについても同様で、たとえ教科書どおりではなくても目の前の患者さんの症状のなかにこそ真実があるのであって、教科書の記載や理論や自分の思い込みを優先してはならないということを、「真理への畏敬」ということばで説明しています。
 H先生に教えていただいた、すべての真実が電顕写真の中に見えている
ということを、形を変えて伝えさせていただいています。

Ω

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