散日拾遺

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文学への信頼

2023-12-13 07:30:09 | 読書メモ
12月13日(水)

 「いよいよ眼前を横切る時、茅乃が腰から離した片手を遠慮がちに振った。すると新平太はぱあと、陽だまりを閉じ込めたような笑みを浮かべる。」
今村翔吾『人よ、花よ』470

 「あの頃、文学というのは、永遠だとおもっていた。作家も批評家もそうだったと思う。一千年先を考えた上で、いま何を書くかということを考えていたんですね。」
柄谷行人回想録『私の謎』世代こえた交流(上)

 二つとも今日の朝日新聞朝刊から。
 夕方になって読みかけにしていた『タルチュフ』(モリエール/鈴木力衛、岩波文庫)を読み終えたところ、その解説に以下のようにある。

 「フランスの古典作家の理想は、特定の個人を描くこと(で)はなく、時代を超え、国境を越えた人間の型を描く点にあった。」(P.115)
 鉛筆で傍線が付してあるから、文庫本を買い込んだ2005年当時に既に一度、読んで感心したはずであるが、記憶には全くない。
 今日という日は、このこと ~ 一千年の相貌の中で書き考えることを、繰り返し教えられる日であるらしい。

 ところで、「モリエールはこの『タルチュフ』において、『ドン・ジュアン』や『守銭奴』の場合とおなじく、そのような普遍的な人間像を描くのにみごとに成功したと言えよう」とあることについては、異論というのではないが一理屈こねてみたい気がする。
 普遍的な人間像として描かれていると解説が主張するのは、表題の示すタルチュフというペテン師のことだろうと思われるが、この御仁は根っから嘘つきの呆れ果てた偽信心家で、いつの時代にもこういう悪党が必ずいるということ以上にとるものがあまりない。
 それより面白いのは脇役の方である。たとえばタルチュフのペテンにまんまとだまくらかされて相手に心酔するオルゴンというお人好し、こちらは周りがどう諫めても耳を貸さず、あやうく息子を勘当し娘と全財産を進呈する寸前まで至ったのに、妻の機知でタルチュフの化けの皮が剝がされるや、一転極端な激しさで相手を呪い世界を呪い始める。以下はオルゴンと、それを諫める年下の義兄のやりとりである。

 オルゴン「くそ、聖人君子なんて、もうまっぴらだ。これからはそんなやつらの名前を聞いただけで、背筋が寒くなるわ。こちらも悪魔より悪い人間になって、恩返ししてやるんだ。」
 クレアント「いけませんよ、お義兄さん、そんなに逆上なすっては!何事につけ、あなたはおだやかにやれないんですね。いつだって極端から極端に走るんです。お義兄さんは自分の間違いを悟り、偽の信仰に騙されていたことに気がつかれた。だからといって、それを改めるために、さらに大きな過ちを犯すことはないじゃありませんか。たったひとりのろくでなしの裏切者と、すべての聖人君子をごっちゃにすることはないじゃありませんか。(中略)中庸の道をえらばなければなりません。インチキな宗教に引っかからないよう、できるものなら用心してください。しかし、正しい信仰を罵倒してはいけません。どちらかの極端に走らざるをえないのなら、偽信心に引っかかった方がまだしも罪が軽いっていうもんです。」
上掲書 P. 88-89

 極端から極端に振れる熱情家と、中庸をもって徳とする常識人とのやりとりは、今日いたるところで聞かれる会話と少しも変わりがない。クレアントは作中一貫して健全な常識とまっとうな信仰の代表者として描かれており、だからこそタルチュフの偽信心に対して、常に安定した抵抗力を発揮する。

 クレアント「あなたの言い訳はこじつけばかりですよ。なにも神の思し召しを引き合いに出すことはないでしょう?罪人を罰するのに、神がわれわれの力を借りなければならない、というんですか?天罰を下すのは神の御心にまかせ、侮辱を赦せという神のお指図だけを考えればいいはずです。至上の命令に服するとき、人間の判断などを考慮に入れる必要はありません。つねに神の命ずるところを行い、ほかのことに心を乱さないようにしようじゃありませんか。」
同 P.69
 稀代のペテン師であるタルチュフよりも、これに振り回される平凡なオルゴンとクレアントにこそ、「普遍的な人間の型」が感じられて面白い。
 もう一つ例をあげるなら、オルゴンの娘マリアーヌと恋人ヴァレール、彼らの仲を取り持とうとする小間使いドリーヌの会話である。マリアーヌは父オルゴンの命でタルチュフに嫁がされようとしており、そんなことになったら自ら命を絶つとまで思い詰めているのに、父親に面と向かって「イヤ」ということができないのである。時は16世紀で親の権威がきわめて強かったのは間違いないが、娘の側に意思表示が認められなかった訳でもないらしいのは、
 「父親って、子どもの目から見ると、それはそれはこわいものよ」
というマリアーヌの言葉が逆に裏書きする。反論する権利がないのではなく、心理的に怖いというのが彼女の主張である。そのマリアーヌの代わりに、たびたび殴られそうになりながら抗弁を繰り返すのが気丈なドリーヌで、小間使いの忠誠を見ていながら苦労知らずのお嬢さんは、
 「お父さまからあたしをもらい受けるのは、あのかた(ヴァレール)の役目じゃないの?」
 とどこまでも受け身の座から動かない。
同 P.35
 当然ながら、恋人たちの間には互いに相手の本気を疑ってみせる駆け引きが始まり、売り言葉を買ってはまた売る泥沼のやりとりで収拾がつかなくなるのも、今しもあらゆる国と地域で繰り返される「普遍的な」図式ではないか。古めかしさというものがモリエールの行間には驚くほど少ない。

 五百年や千年で人の心の変わりはしないことは、モリエールに依らずとも本朝文学の中にふんだんに例がある。珍しくもあり羨ましくもあるのは、そうした心の機微をはっきり言葉に表し、言葉をぶつけあって人生の筋立てを展開していく伝統と文化のことだ。
 「本当に大事なものは目に見えない」とフランスのキツネが王子様に言う。
 「本当に大事なことは言葉では言えない」と日本のキツネが横を向いて呟く。
 この違いは小さいとは言えない。

Ω

 

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