散日拾遺

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仏典と聖書のトリビアルな類似

2018-09-26 20:11:15 | 日記

2018年9月25日(火)

 たぶん珍しいことでもないのだろうが。

 『今昔物語集』の天竺・震旦部(岩波文庫版)をつらつらと読み進めるにつれ、仏教説話と旧新約聖書の記載に似たところが見つかって面白い。

 たとえば舎利弗(シャーリプトラ)が外道らと神通力を競う場面(P.48-)は、「列王記」(上)18章のエリヤとバアルの預言者らの対決と酷似している。どちらもただ一人で群がる有象無象を鎧袖一触、痛快にやっつけちゃうのである。もっとも大まかな設定は似ているものの、舎利弗が巨大な象だの怪鳥ガルーダだのを自在に呼び出して外道を粉砕するのに対し、エリヤはひたすらな祈りによって神の火を下らせるもので、自ずとそれぞれの「らしさ」が現れている。

 今夜心に残ったのは、「仏、婆羅門の城に入りて乞食し給へること」のくだりで、貧しい女が米のとぎ汁の腐ったものを捧げたのを仏が嘉し、外道らがこれを嘲笑したのに対して語られた譬え話である。

 仏の宣はく、「汝は高堅樹の実は見たりや」と。外道の云く、「芥子よりもなお小さし」と。仏の宣はく、「高堅樹の木はいかばかりぞ」と。外道の云く、「枝の下に五百の車を隠すになお木の影余る」と。仏の宣はく、「汝、その譬えを以て心得べし。芥子よりも小さき種より生いたる木、五百の車を隠すになお影余る。仏に少しきも物を供養する功徳無量なり。世間のことかくの如し、いかにいわんや、後世の事はこれをもって知るべし」と。外道これを聞きて「貴し」と思ひなして礼拝し奉る時に、頭の髪空に落ちて羅漢となりぬ、云々。

 「似た話があるのが面白い」と言ったが、こちら実はピタリと一致する聖書の箇所が思い当たらない。一対一ではなく複数の箇所が浮かぶという意味である。

○ 「実」と「樹」の対比から、まずは下記:

 「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:31-2)

○ いっぽう、貧しい女が粗末ながらも自身のもてる全てを捧げたというモチーフからは以下:

 一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ 12:43-4)

○ さらに、聖者をもてなした者が必ず報われるというテーマからは次の箇所など:

 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ 10:42)

 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ 25:40)

 宗教の聖典はどれも似たような発想をするものだと言ってしまえば、それまでのことであるけれど、それで済ませたくない面白さをついつい拾ってしまうのである。共通点とともに相違点も面白いので、たとえば釈迦が悟りに至る前の試練には美女による誘惑が含まれるが、イエスに対する荒野の試練にはそんなナマメカシイ話は出てこない。これは非常に残念なことで、イエスがどういう言葉を引いてその種の誘惑を退けたか、是非とも聞いてみたかったものだと思う。

 さて次は何が見つかるか。

ガルーダ(タイ王国国章) Wikipedia より

Ω


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