散日拾遺

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エートス ~ KM先生の教え ①

2019-01-30 11:59:00 | 日記

θ2019年1月26日(土)

 三重CMCCの加藤幹夫先生が、数年前にお書きになったものを送ってくださった。

 一読ただちに家族全員に転送。ここにも全文を掲載したいところながら、もともとの発表趣旨からしてここは控えるところかもしれない。こちらが哲学・倫理学の素養を欠くものだから、基本的なことに他愛もなく感動しているということもあるだろうか。もちろん、そのことは受け取ったものの価値をいささかも減じはしないのだけれど。

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 「倫理的な卓越性(徳)は本性的に与えられているものではない、それは行為を習慣化することによって生まれる。いかに行為すべきか、一般に過超と不足とを避けねばならない。中庸をとる習慣としてのエートス」(『ニコマコス倫理学』)

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 「倫理規範ではなく、内面的な機動力(起動力?)をもたらす倫理的姿勢としてのエートス」をM. ヴェーバーが例の著作で論じていること。

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 「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。」(ルカ 22:39)

 「いつものように」と訳されたのが κατά το εθος 、字義通りには「習慣によって」である。ος が英語の as, like に相当し、εθω は「習慣である」の意の動詞、εθος は as usual というところか。εθω は εθνος (民族・国民)とも関連するのだろう。

 何しろ一時的な情熱ではなく、持続的な習慣であるところのエートス。‘‘Habit is a second nature.'' と言われて、"No, ten times stronger !" と返したのは、ワーテルローでナポレオンを破ったウェリントンとされている。

 ただし、習慣は形骸でもなければ義務でもない。加藤先生はここで僕にはとても面白く見える連想を提示する。祈りの習慣はヴェーバーが「内的機動力」(原語が知りたい!)と説明する通り、Sollen ではなく Sein に根拠づけられるというのである。

 さらに目映い飛躍、それは習慣の中で無理なく楽しくできる行為であって、R. ボーレンが『天水桶の深みにて』の中で「スポーツ的霊性」「遊びの範疇」と表現する行為に通じるという。

 消化不良を防ぐため、ここでいったん置く。

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