散日拾遺

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二つの癒やしは並行箇所? ~ 「高官の息子」と「百卒長の僕」

2015-07-19 16:27:37 | 日記

2015年7月19日(日)

 今朝は小学科で「役人の息子の癒やし」の話をした。ヨハネ福音書、4章43-54節である。

 引証によればこの箇所は、「百人隊長の僕の癒やし」(マタイ8:5-13、ルカ7:1-10)の並行箇所とされる。そう言われてみて、以前から何だかもやもやしていたような気がしてくる。実は気がついてもいなかったんだろうが。

 並行箇所というけれど、両者の間にはいくつかはっきりした違いがある。マタイ/ルカの方はいわゆるQ資料から採取された素材だろうか、主人公は百人隊長(百卒長という昔の訳の方がよかった)すなわちローマの軍人で、政治的には優位に立つ支配者の一員であるけれども、聖書の神への信仰においては品下れる異邦人である。前者よりも後者を優先する驚くべき弁えが、有名な言葉の背景にある。

 「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすればわたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)

 「わたしは権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(マタイ8:9)

 後者の助詞を二カ所、微妙に変えておいた。ずいぶん早い時期、教会通いなど考えもしなかった幼年期から、なぜか強く意識してきた下りである。百卒長の潔さ、あるいは真の権威感覚とでもいうものだろうか。部下が上官の命に従うのはもっぱら力関係によるもので、世俗的・物理的であるがそれだけに現実には逆らえない強い拘束力をもつ。軍隊での抗命は、軍法会議を経て極刑に直結するものだ。この異邦人は、目に見えもしない神の権威を彼の知悉する軍律のアナロジーで受けとめる。あるいはそれが彼の知る唯一の「権威」イメージだったかも知れず、その理解は素朴にして揺るぎがない。そのような絶対の権威のもとに自分が生かされており、その権威のうちにイエスと出会っていることを彼は明言する。イエスが手放しで褒めるのも当然だ。

 「(皆に)はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。(中略)帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

 「これほどの信仰を見たことがない」と言うけれども、対比しうるものはたぶんいくつかある。主の衣に触れさえすれば癒やしていただけると信じた長血患いの女(マタイ9章、マルコ5章、ルカ8章)、「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言ったカナンの女(マタイ15章、マルコ7章)、特に後者は異邦人の信仰というテーマにおいて、百卒長の物語と共通するものがある。

***

 ヨハネに記された「役人の息子の癒やし」では、この「異邦人」性は少なくとも表には出ていない。新共同訳が「王の役人」としているので、この王とは一体誰か、「ヘロデ」同様イドマヤ系の異邦人の王であり、従ってその役人も異邦人ではあるまいかと一瞬深読みしたが、その原語 βασιλικος という一語で「廷臣」「侍従」というほどの意味だから、さしあたり「高官」という以上の情報をもたらさない。

 さらに、この高官は百卒長のように「言葉だけ」を求めたのではなく、「カファルナウムに下ってきて」息子を癒やしてくれるよう懇請している。イエスの癒やしの力に望みをかけてはいるが、言葉の力だけで遠隔的に治癒が為されるとは思っていないのである。これに対して「帰りなさい πορευου」というイエスの言葉(ヨハネ4:50)は、百卒長に対する「帰りなさい υπαγε」と違って、さしあたり拒絶的に聞こえる。「これほど頼んでも来てくれないのか」という失望が当然あり、「あなたの息子は生きる」という約束との間でひどく揺さぶられながら、高官は帰途をたどったはずである。

 イエスは高官に対して、百卒長や女たちに言ったように「あなたが信じたとおりになるように/あなたの信仰があなたを救った」とは言わない。高官は強く願い、期待してはいるが、まだ信じていない。あるいは自分が何を信じようとしているか知らない。だからこそこの物語が貴い。あらかじめ存在した信仰に主が応えたのではなく、主とのやりとりの中で信仰が起こされているからである。

 さらにこだわって、πορευομαι 「旅を続ける、立ち去る」とυάγω 「引き返す、帰る」の使い分けに意味を見出したい気がする。高官に対して「帰りなさい πορευου」と告げられたその場所は、周囲を奇跡めあての物見高い群衆が埋めていた。「このような場を立ち退いて、信仰の場に進みなさい」と戒められたのではないか。いっぽうの百卒長には「現にあなたの生活する、その信仰の場に帰りなさい」と勧められた、そういうことではあるまいかと思う。僕のギリシア語の能力 では確信がもてないけれど。

***

 二つの物語を並行箇所として見ることは自由だが、それは解釈に属する。高官の物語と百卒長の物語、二つの出会いがそれぞれ別々に存在したのではないかというのが、今日の僕の感想ということになる・・・のかな。


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