2019年7月8日(月)

お堀にかかる橋を渡ったところに、クスノキの巨木。もともと対岸にあったものを移植する必要が生じた。数年越しで根回ししたうえ掘り起こし、クレーンで吊り上げて巨大な金属製の器(!)に納め、ここまで運んだのだと。壮挙である。

第10代佐賀藩主鍋島直正公、号は閑叟 (文化11(1815)年 ~ 明治4(1871)年)。
写真もヘタクソだが、NHKの電波塔がどうにも邪魔で仕方がない。何も直正公の真後ろに建てなくても良さそうなものだが、そういう風には考えないものかな。

佐賀城は古くは佐嘉城、別名「沈み城」「亀甲城」とある。平城の備えの薄さを補うため複雑に外堀を巡らせ、敵襲の際は主要部以外を水没させて侵攻を食い止めるからくりをもったことが、別名の由来という。
もと龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したもので、城も藩も九州北部の雄であった龍造寺氏に由来する。天正12(1584)年、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に敗死したことをきっかけに、家臣である鍋島氏が力を伸ばすことになった。とはいえ鍋島氏は主家を重んじ、隆信の後を継いだ龍造寺政家が病を得た後には、政家が鍋島直茂を養子とし、その直茂の養子に政家の一子高房を入れるという複雑な一体化を模索する。
その龍造寺高房が慶長12(1607)年に江戸表で妻を刺殺し自らをも傷つけ、これがもとで死去。精神の変調があったようである。政家また後を追うように他界したため龍造寺宗家が断絶し、鍋島氏が江戸幕府から正式に佐賀藩主として認められるに至る。龍造寺家の遺子をめぐって暗闘があったらしく、それが鍋島騒動として世に騒がれ、化け猫話で脚色されるという後日談が付いた。
佐賀城は何度も火災に見舞われており、特に享保11(1726)年の大火では天守をはじめ本丸建造物の大半が失われた。このためその後の藩政は二の丸中心に行われたが、今度は天保6(1835)年の火災で二の丸を焼失。ここであらためて本丸が再建され、政務が本丸に移る。この時、江戸詰であった九代目に代わり、現地佐賀で政庁再建や人事刷新に辣腕を振るったのが若き十代目の鍋島直正、上掲の鯱の門や下掲の本丸御殿はこの時に建てられたものである。

本丸御殿は保存状態が素晴らしく、建物の一部は昭和32(1957)年まで子どもたちの礼儀作法の教育の場として使われていた。中の様子や豊富な歴史資料にはあらためて触れるとして、その入り口に据えられた一門の砲に胸騒ぐ思いがした。
アームストロング砲、これがそれか、もちろん模型であるけれど。


司馬遼太郎『花神』に仔細が語られている。イギリス製のアームストロング砲は、当時世界で最新式のものだった。軍備強化の一環として同砲を購入したものの、破壊力を知る鍋島公は、あくまで将来の国防の備え、日本人同士の戦いに用うべからずとの考えだった。
官軍の指揮を執った長州人、村田蔵六こと大村益次郎が、そこをまげて頼み込む。使い方について説明したかどうか。ともかく首尾よく借り出したこの砲を、加賀前田藩の江戸屋敷、つまり現在の東京大学本郷キャンパス、三四郎池端あたりに据え置いた。
慶応4(1868)年、旧暦5月15日、薩摩は正面(黒門口、現・広小路周辺)から、長州は側・背面(団子坂、谷中門)から、上野の高台を強襲する。折から雨模様で文字通り泥沼の激戦数時間、頃合いを見計らっていた大村の命令一下、アームストロング砲が火蓋を切り、彰義隊の本陣めがけて砲弾を撃ち込んだ。弾数は多くはなく、実際の被害よりも心理的な効果が大きかった、そんな記述だったように記憶する。
狙いは的中、守備側はこれを合図と聞くかのように退却を始める。大村の指図であらかじめ一方だけ逃げ道の開かれていた根岸から東北方面へ、吸い込まれるように退いていったのである。
完全に殲滅するのでない限り、相手の逃げ道を残しておくのが攻撃側の心得であること、最近読んだ『太平記』で知った。逃げるという選択肢を残すことが、相手の心に迷いを生む。四方を完全に封鎖して逃げ道を奪うのは、実は危険な策。逃げ場を失った兵が死に物狂いで暴れるなら、窮鼠が猫を噛み倒すことも起きるのである。
そもそもこの戦、官軍は必ずしも圧倒的優位を確立していたわけではない。幕軍の一部でも江戸市中に散開してゲリラ戦を展開したら、江戸中が火の海になってしまう。必死の相手を散らすことなく、ひとまとめにして江戸から落とすという難題に大村益次郎が取り組んだ、その切り札の一つがアームストロング砲だった。
戦場心理の機微を踏まえ、これを勝利の号砲に使った大村の軍事的天才が『花神』の読ませどころ、その主役の活躍に不可欠の大道具を、鍋島公の熱心が用意していた。
左の写真左下に写っている説明書きが下に掲げるもの、その文中で砲の射程を1,300~1,600mと推測している。三四郎池から上野の山はちょうど1kmほど、法学部の講義に飽きると上野動物園まで散歩としゃれこんだものだった。その道のりを弾が飛び越え、レンコンの店のあるあたりも飛び越えて激戦の帰趨を決めた。佐賀はこうして歴史の転轍に関わった。

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