散日拾遺

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五月の出張は懐かしの上州路

2018-05-29 16:36:59 | 日記

2018年5月19日(土)

 高知の空は、すぐ近くの南の海とのおおらかな連続性を体感させた。前橋の空は四方の山並みを支柱にして、大天幕のように広がっている。土曜日は青い天幕に一つの雲もなく、むやみに強い風が地上を奔放に吹きなぐった。上州名物の空っ風とは違って、前日関西を吹き荒れた風が東漸したものらしい。学習センターまで徒歩25分とあり、一瞬タクシーも考えたが、歩き出してみれば進めぬほどではない。ただ、なけなしの髪が頭上で乱舞して収拾がつかないと訴えている。

 昔、前橋の駅舎はなかなか風情のあるものだったが、今は個性のない高架に変わっている。駅前がだだっ広くて、清潔だが何もないと教室で嘆いたら、その日のうちに誰かが上の写真をアンケートの束の中に入れてくれていた。高知では見事な土佐ブンタンを匿名で届けてくれた受講者があった。毎度こうして名乗りもせずに支えてくれる学生たちがある。奥ゆかしい誰彼に、せめてお礼を言いたいところ。

 交差点を越えて直進する道が立派なケヤキの並木である。東のケヤキ、西のクスノキ、仙台ばかりではない、まだまだ高く伸びそうな、成長途上の並木である。


 何しろ人が少なく、ほっと嬉しくなる。人が少ないということは人目が乏しいということであり、また車が少ないということでもある。車も通らず人目もないのに、この街の人々は交通信号を実に律儀に遵守する。部活へ出かけるらしい自転車の高校生が、一またぎの小道の赤信号をじっと見つめて待つ姿に、神々しさが漂うようだ。これも教室で話してみたら、「(車が来ようが来まいが信号を守るのは)あたりまえです」と一蹴された。東京からものの100km、清々しくもかけ離れたものである。

 

                 

 道筋に一対のモニュメントあり、向かって左は、現に歩いている道を「シルバートピア道路」と称して解説する。たしかに広くて歩きやすい。キャラクターは「ぐんまちゃん」に「ふーちゃん」、コワイぞ、ふーちゃんは。

 向かって右は敷島公園、確か小学校一年生の遠足で行った。集合がかかったのにボンヤリ池を眺めていて、井田先生に「石丸さん!」と呼ばれたっけ。さん付けで呼んでいらしたな、井田先生は。

 敷島公園はバラの名所らしいが、そもそも前橋市内はとてもバラが多い。公共施設だけでなく、人々が民家にバラを植えているのである。バラといえば福山を思うが、前橋市民のバラを愛すること見事と知った。

            

 おっと、これは残念。大きな交差点に陸橋がかかっていて、左右(東西)方向は写真に見える横断歩道を渡ることができるが、縦(南北)方向の陸橋の下は自転車専用である。北へ進む歩行者は陸橋を上がり降りするしかなく、これでは高齢者や車椅子利用者が困るだろう。もっともこれは前橋だからではない、放送大学から総武線幕張駅へ向かう道にも同じ眺めがあり、むろん多くの歩行者が地上を渡っている。しかし前橋の人々は律儀に指示を守り、大いに困るのではないかしらん。

 一本道と楽観していたらY字の交差点で選択を間違え、赤城山の方向へしばらく進んで気がついた。八百屋のおじさんが、強風で飛ばされかけた発泡スチロールを追いかけて行く。戻ってきたところに声をかけ、放送大学学習センターでは分かりっこない、県立図書館はと聞いたら、広い空の一隅を指差して教えてくれた。とりたてて愛想はないが、簡明かつ実直である。次の角の交通整理の男性に自然で逞しい笑顔あり、以後足かけ三日を通して上州人の素朴といったものを感じ続けた。

 1962年夏から1965年夏までの三年間、ここで受け取ったものはその後にどう浸透定着したのだろう。五輪聖火が国道17号線を駆け抜けていった1964年が、まるで昨日のことのようである。その次に住んだ場所は、良くも悪くもこことは随分違っていた。

Ω

 


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