散日拾遺

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『赤光』寫本とカラヤンのサイン ~ 伊予路の親子鶴

2015-08-30 07:50:11 | 日記

2015年8月29日(土)

 帰省のことをちまちまと書き記したとき、最後に残した大きな話題がこれである。腰を痛めた翌日の夕、松山市のI先生宅にお招きいただいた。I先生自身は東京の生まれ育ちで、なぜ伊予路に住み着いて開業なさったかについては、また別の長くて短い物語がある。その素晴らしい御家族についても、あだやおろそかには文字にできない多くの宝話があり、今日はその手付けみたいなものだ。

 前にちらりと一部を挙げた『赤光』、それにカラヤンのサインのこと。まず『赤光』からあらためて写真を掲げる。

 

  見ての通り、斎藤茂吉の歌集『赤光』であるが、ただし、ただの『赤光』ではない。頁を繰ってみると・・・

 

 そう、これは手写本である。拡大してみてほしい。「さらさらと」ではない、一字一字、丁寧に丹念に書きとめた跡が刻まれ、目の覚める思いがする。筆記具は、たぶんあまり上等なものではないのだろう。あるいは鉄製のペン先を換えては使う、昔のペンではなかったかと思われる。

 P.26の左の歌 

 「岩ふみて吾立つやまの火の山に雲せまりくる五百(いほ)つ白雲」

 写した人はふりがなまでも精確に記し、熱誠込めた息づかいが聞こえてくるようだ。そしてアララギなる茂吉の歌は ~ 先日来、「歌よみに与ふる書」でにわか勉強したところに直結する ~ 朴訥で雄渾な万葉調である。「山」や「雲」の語のくり返しだけでも、他のものではありえない。

 写した人は、なぜ市販のものを買うのでなく、わざわざ写したのか。それほどに茂吉と『赤光』に心酔していたからに違いなく、敬虔な仏教徒が写経するように自身の「経典」を写したに違いないが、一面では時代も考えねばならない。

 これが手写されたのは昭和24年、あるいはそれに先立つ時期である。瓦解に引き続く混乱期、物資は乏しく社会は行方を見失っていた。物心両面の事情が、手写という営みに必然性を与えたに違いない。ペンが「上等のものではなさそう」などと敢えて失礼な推測をしたのもそのことで、物も時間もない中ですべてをやりくりして作業に打ち込んだものと愚考する。真実について、ぜひとも御自身に伺ってみたいところである。

 さて、その「御自身」は佐伯藏氏とおっしゃる方、実は敬愛するI先生令夫人の父上なのだ。

 巻末に茂吉から佐伯氏へのはがきが添付され、茂吉自身による署名があり、それで「昭和24年晩春」と知られる。氏は完成した写本を茂吉に送り、茂吉は願いに応えて揮毫のうえ返送したものらしい。「題 佐伯氏寫本赤光 斎藤茂吉」の字が見える。発信住所は東京都世田谷区○○と今様だが、宛先が伊豫県内子局区内というのがまた時代を感じさせるだろう。内子では、幼年期の大江健三郎が谷間の空を見あげていた時分だろうか。

 多言を要せず。これが文化というものだ。歌う者があり、まねぶ者があり、交わりがあり、形が残る。広島の焼け跡に緑が芽吹くに似た、強靱な柔らかさである。

 

 『たのしくうたふ』 佐伯蔵 選歌集

 自身も歌人であられるうえに、佐伯氏は碁の達人であり愛好者でもある。常々「碁は宇宙だ」と語られた由、そういう人に手ほどきを受けたかった。

***

 さて、もう一題は「カラヤンのサイン」。これは佐伯氏令嬢の秘話であるが、秘話をどこまで明かして良いものか・・・

 要するにカラヤン大ファンの若い女性が、たまたま航空機でこの巨匠と乗り合わせ、思案の末にカラヤン夫人を介して首尾よくサインをもらったという話である。若い人々にはカラヤンのすごさが分からないから、この話のすごさも伝わりにくいだろうが、これは相当すごい話だ。現に活躍する人々が登場する実話なので、とりあえずこのぐらいにしておこう。

 僕は精神医学の授業の際、「自己愛パーソナリティ」が一発で理解できる実例として、カラヤンを使わせてもらっている(僕の世代以上の受講者限定)。しかし快くサインをくれたカラヤンは、ブルーの瞳が非常に美しい気さくな人だったそうで、少々申し訳ない気持ちがした。

 

 Herbert fon Karajan

 

 それにしても、本物の芸術家にためらわず交わりを求めていく迷いのない素直さは、やはり「この父にしてこの娘」なのだろう。「親子鷹」と言いならわすところ、女性に「鷹」も申し訳ない。「親子鶴」とシャレさせていただくことにする。


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