散日拾遺

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著変なし/座敷わらしと空いたイス

2014-09-23 18:30:54 | 日記
2014年9月22日(月)
 午後から医科歯科の消化器外来で、検査結果の説明を受ける。
 著変なし、まずは安堵した。

 ウィルス量がカットオフラインよりわずかに高いが、ALT・ASTは余裕をもって低値で、僕自身いちばん懸念していた血小板値は正常域内で安定している。抗ウィルス剤服用の適応にあたらず、経過観察でよし。
 十二指腸の隆起性病変は、良性の過形成と半年前に診断がついている。
 膵鈎(コウ)部の小嚢胞にA先生は注意を払っていたが、これが半年前のMRIと変化していないので、まずはお咎めなしとなった。
 次は半年後に採血とエコーである。不愉快なMRIでないなら、通院先の変更はさしあたり据え置きにしておこうか。
 LDLが高めなのは相変わらずで、HbA1cや体重などとあわせ、メタボ対策が中心課題という立派な中高年。
 またせっせと歩こう。でも今日はいいや、受診しただけで何だか気疲れした。

***

 『愛しの座敷わらし』
 楽しめた。
 バラバラになりかかっている家族が、盛岡郊外の田舎家とそこに住む座敷わらし、それを抱いて暮らす人々の輪の中で「いろり/父親」を中心とする結ぼれを取り戻していく。そのストーリーは類型的と言えば言えるけれど、寅さんと同じくこういう類型は、マンネリを承知で定期的に味わいたい性質のものだ。
 水谷豊と安田成美の夫婦は手堅く、草笛光子が祖母を好演、橋本愛の姉役に名前を知らない弟も、その年頃の街の子供を自然に演じている。学校の先生に長嶋一茂、近所の出戻りに飯島直子など、それぞれハマっていたんじゃないかな。
 座敷わらしが「間引かれた子ども」と考えられてきたこと、座敷わらしの住む家には福が来るとされることなど、恥ずかしながら僕は知らなかった。そうでもあろう。
 祭りの晩に、祖母が「六ちゃんを駅に迎えに行く」と言い出す。六ちゃんは祖母の弟で、幼くして東京に里子に出され、空襲で亡くなったのだ。この祖母を説得しようとする息子を制し、嫁が義母に付き添っていく場面、来年の『精神医学特論』にいただこう。

 この映画に原作がある。読んでみたくなった。

 

***

 ラストで五人家族が六人のテーブルに着き、なぜかウェイトレス(スザンヌ!)が「6名様ですね」と言うところで、見えない座敷わらしが、ちゃんと一緒に来ていることを皆が知る。
 アメリカ時代に聞いたんだが、敬虔なユダヤ人は今でも会食の際などに、空席をひとつ用意する。生きながら天に挙げられた予言者エリヤが、いつ戻ってきても良いように、である。
 それを聞いて以来、ずっと気になっていた。同様にいつ戻られるか分からない主のために、自分は椅子を用意しているかと。

 宗旨は問わず、と、さしあたり言っておこう、宗旨は問わず、信仰者のリアリティは主の帰還に備える支度ができてるかどうか、そのことにかかっている。そのような存在として、常に主と共にあるかと言い換えてもいい。

Christ is the head of this house,
The unseen guest at every meal,
The silent listener to every conversation.

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