散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

「柔和」と訳される形容詞[A]/寸前家族

2014-09-23 16:50:01 | 日記
2014年9月21日(日)
 M牧師の説教は、原典に沿って丁寧に言葉を解きほぐしてくれるので、僕のような者はお腹いっぱい満悦する。

 柔和な人々は、幸いである、
 その人たちは地を受け継ぐ。
 (マタイ5:5) 

 μακαριοι οι πραεις
 οτι αυτοι κληρονομησουσιν την γην.

「柔和」とは「性質がやさしくおとなしいこと」と広辞苑。
ただ、マタイの言う πραεις をそのような意味でのみ理解しては不十分になる。

マタイ得意の筆法で、この句は旧約に元ネタがある。

 貧しい人は地を継ぎ、
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。
 (詩編37:11 ~ 新共同訳)

この「貧しい」という言葉がポイントで、

 しかし柔和な者は国を継ぎ、
 豊かな繁栄を楽しむことができる。
 (同上 ~ 口語訳)

 つまり、ここにヘブル語の形容詞があり ~ [A]と呼んでおこう ~ この形容詞[A]が「貧しい」とも「柔和な」とも訳せる多義性をもつわけである。いっぽう、ギリシア語のπραυςは、専ら「gentle, mild」の意味に使われるようだから、ここではマタイの(というより、マタイが依拠したであろう『七十人訳』の)訳の適切さが問われてよいだろう。
 というのもM師に依れば、この形容詞[A]は gentle とか mild とかいう性格上の属性よりも(あるいは、それだけでなく)、「神の前に砕かれた」という魂のあり方を指すものだからだ。

 傍証が民数記にある。
 
 モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。
 (民数記12:3 ~ 新共同訳)

 今度は「謙遜」がポイント、

 モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。
 (同上 ~ 口語訳)

 「謙遜」と訳され「柔和」と訳されるのが、同じ形容詞[A]であるらしい。
 ところでモーセの人となりを考えるとき、出エジプト記以下の伝えるその人物像、大エジプトのファラオに強談判をしかけて民を脱出させ、荒野では時に激情を表しながらこれを導く強力な指導者のイメージは、「やさしくおとなしい」という意味での「柔和」には到底おさまらない。神を深く畏れる者が、それゆえにこそ、人に対して恐れを知らないということがある。その最強の例がモーセであり、イエスであろう。
 そのように神の前に砕かれた者の、神への忠実ゆえのしなやかさを聖書は「柔和」と呼ぶ。そういう意味で柔和な者が地を相続し、従ってまた天の国の相続人になるというのである。
 それで腑に落ちた。

 ギリシア語は何とか食いつけるが、ヘブル語はまるで読めない。残念ながら僕の現状である。けれどもここは新約を正しく理解するためにこそ、ヘブル語が解きほぐせないといけない。形容詞[A]の正体が知りたいと切に思う。
 もどかしいが、今は無理だ。

***

 午後から三男の高校の文化祭へ。
 18R(じゅうはちルーム ~ この学校特有の呼び方で、1年8組)の演劇は『寸前家族』と言うのだそうで、息子はその中で「お父さん」役をやっているらしい。
 早めに出かけ、理科系サークルの展示をしばらく楽しんだ後でお手並み拝見。家では末っ子で、兄たちにいじられながら、ちゃっかり良いところをおさえる相場通りの役どころだが、どうやら学校では違う面が出ているらしい。委細は省略、和やかな気持ちで校舎を出た。
 良い季節だ。
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。