2013年11月1日(金)
田沢と上原が、二人ながら見事な活躍でRソックスをチャンピオンに押し上げた。
すごいなあ、こんな時代が来たんだな。
ポストシーズンにアメリカチームが親善試合に来ると、最初は時差ボケもあって日本代表が善戦するんだが、日を重ねるにつれて歯もツメも立たなくなる。
悔しいけれどこれが現実か、何でもアメリカが一番なのか、ザリガニまでアメリカが強いんだから、と悔しさを噛みしめていた少年期がウソのようだ。
川上哲治さんのこと、監督退任時の記者会見で両側に座ったONを称えたのはよく知られているが、あの時代を知るファンなら牧野茂(1928-1984)という人物の影の貢献を思わずにはいられない。
V9を支えた読売のヘッドコーチだが、選手時代はずっと中日だった。
退団後に新聞で読売の戦いぶりを批評する、その舌鋒の鋭さに目をつけてコーチに招いたという川上さんも、さすがただ者ではなかった。
牧野氏の貢献が日本のプロ野球全体に及んでいるというのは、組織野球理論 ~ いわゆる「ドジャーズ戦法」をアメリカから導入した点で、個人の能力の単純な総和を超えたチーム力が追及されるようになったのは、たぶんこのあたりからなのだ。
サードのコーチャーズボックスに立って、ベンチから受けた指示をサインに換えて発信する細身の姿は、野球ファンの記憶に地味に焼き付いているだろう。一見おだやかな印象を受けるが、実はかなり激しい感情の持ち主であったことがいくつかの挿話からうかがわれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/15/04/17403b8dffcab16d0d409b473fc6650a_s.jpg)
この際に一筆しておこうと思ったのは、Wikiに載っていた次の話を見たからである。
牧野の他界から5年たった1989年の日本シリーズ第5戦、それまでシリーズ無安打だった原辰徳が満塁本塁打を打って、喜びのあまり三塁コーチの近藤昭仁と抱き合った時に、興奮した日本テレビの吉田填一郎アナウンサーは、「原が三塁キャンバスを回って、牧野コーチと抱き合っています」と実況した。
何と素敵な間違いではないか。しかも没後すでに5年経っているのだ。
ちなみに近藤昭仁は、かつて大洋ホエールズの強力打線の一翼を担った好二塁手、コンニャク打法の近藤和彦とダブル近藤の一・二番はパワフルだった。
ここにささやかな因縁があるというのは、牧野と近藤は年は離れているが、いずれも香川県高松市の出身ということだ。
近藤は1938年生まれ、高松一高から早稲田へ進んだ。
牧野は1928年生まれ、高松商業在学中に空襲で実家が全焼し、疎開先の愛知で愛知商業に入って戦後の甲子園大会に出場、明大を経て中日入りする。
もちろん、それで吉田アナが「間違えた」わけではないのだけれど。
満塁本塁打の一球前、三振をとられても文句いえない球がボールと判定されている。
不調の原は、見送ったというより手が出ないのだと僕は思った。
次の球がシリーズを決め、近鉄バッファローズの日本一はまたも潰えた。
打たれたのは吉井理人、後にヤクルトへ移籍、さらにはアメリカへわたって活躍したのが記憶に新しい。
田沢と上原が、二人ながら見事な活躍でRソックスをチャンピオンに押し上げた。
すごいなあ、こんな時代が来たんだな。
ポストシーズンにアメリカチームが親善試合に来ると、最初は時差ボケもあって日本代表が善戦するんだが、日を重ねるにつれて歯もツメも立たなくなる。
悔しいけれどこれが現実か、何でもアメリカが一番なのか、ザリガニまでアメリカが強いんだから、と悔しさを噛みしめていた少年期がウソのようだ。
川上哲治さんのこと、監督退任時の記者会見で両側に座ったONを称えたのはよく知られているが、あの時代を知るファンなら牧野茂(1928-1984)という人物の影の貢献を思わずにはいられない。
V9を支えた読売のヘッドコーチだが、選手時代はずっと中日だった。
退団後に新聞で読売の戦いぶりを批評する、その舌鋒の鋭さに目をつけてコーチに招いたという川上さんも、さすがただ者ではなかった。
牧野氏の貢献が日本のプロ野球全体に及んでいるというのは、組織野球理論 ~ いわゆる「ドジャーズ戦法」をアメリカから導入した点で、個人の能力の単純な総和を超えたチーム力が追及されるようになったのは、たぶんこのあたりからなのだ。
サードのコーチャーズボックスに立って、ベンチから受けた指示をサインに換えて発信する細身の姿は、野球ファンの記憶に地味に焼き付いているだろう。一見おだやかな印象を受けるが、実はかなり激しい感情の持ち主であったことがいくつかの挿話からうかがわれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/15/04/17403b8dffcab16d0d409b473fc6650a_s.jpg)
この際に一筆しておこうと思ったのは、Wikiに載っていた次の話を見たからである。
牧野の他界から5年たった1989年の日本シリーズ第5戦、それまでシリーズ無安打だった原辰徳が満塁本塁打を打って、喜びのあまり三塁コーチの近藤昭仁と抱き合った時に、興奮した日本テレビの吉田填一郎アナウンサーは、「原が三塁キャンバスを回って、牧野コーチと抱き合っています」と実況した。
何と素敵な間違いではないか。しかも没後すでに5年経っているのだ。
ちなみに近藤昭仁は、かつて大洋ホエールズの強力打線の一翼を担った好二塁手、コンニャク打法の近藤和彦とダブル近藤の一・二番はパワフルだった。
ここにささやかな因縁があるというのは、牧野と近藤は年は離れているが、いずれも香川県高松市の出身ということだ。
近藤は1938年生まれ、高松一高から早稲田へ進んだ。
牧野は1928年生まれ、高松商業在学中に空襲で実家が全焼し、疎開先の愛知で愛知商業に入って戦後の甲子園大会に出場、明大を経て中日入りする。
もちろん、それで吉田アナが「間違えた」わけではないのだけれど。
満塁本塁打の一球前、三振をとられても文句いえない球がボールと判定されている。
不調の原は、見送ったというより手が出ないのだと僕は思った。
次の球がシリーズを決め、近鉄バッファローズの日本一はまたも潰えた。
打たれたのは吉井理人、後にヤクルトへ移籍、さらにはアメリカへわたって活躍したのが記憶に新しい。