散日拾遺

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長岡花火と画家のこと

2018-08-31 07:13:08 | 日記

2018年8月31日(金)

 今年は友人の中に何人か長岡へ出かけた者があり、自分はテレビで見た。凄いとか素晴らしいとか、そんな陳腐な言葉しか出てこないぐらい凄いもので、要は言葉で表現できるところを超えている。実に圧倒的で技術・演出・運営どれをとってもよくぞと感動敬服するばがりだが、私的に最も驚くのは、これが1945年8月1日の長岡空襲の慰霊として始まり今もそのメッセージを鮮明に伝えていることである。

 怖い、とも思う。空に弾ける火球の光と轟き、燃えあがる橋のきらめきは、まるで空襲そのものの再現のようである。観念的に論じるなら、かえって空襲の忌まわしい思い出を想起させ、PTSDを惹起しないかとの懸念も出そうだし、事実その危険なしとしない。だからこそ地元の決断に頭が下がる。戦闘的とすら言える前向きの慰霊の営みに、ふと「怒り地蔵」に通じるものを感じた。

 遠くテレビで見ていてひとつ気になったのは、最初から最後まで流れる「ジュピター」のアレンジ曲である。昨今のテレビ制作者のBGM中毒症状と考えあわせ、放映の際に付加されたものではないかと疑ったりした。できれば音楽を消して見たいが、音を消すとせっかくの花火の遅れてくる轟音まで消えるのがもどかしい。あらずもがなの曲の音源はどこなのか?

 答えを与えてくれたのは通院中の患者さんで、この女性画家は知人を北海道に尋ねる道すがら長岡に(!)立ち寄ったらしい。もちろん花火が目当てである。

 「ええ、あれは現地で流れているんです。大音量で、かえってどうかなとも思うんですが」

 「そう思われますか?」

 画家というものは作品を永続的に遺せる特権をもっており、この特権を楽しむものとばかり思っていたが、この女性は正反対であるという。

 「作品を長く残したいとは思いません。むしろ、どう消し去るかということを考えながら描いています。だからこそ、現れた瞬間に消え去る花火にはとても惹かれるものがあります。」

 彼女の通院理由は「鬱」と「不安」であるが、それが単に病理的な治療の対象なのか、それとも制作・創作してはそれを消し去る生き方に不可避の副産物なのか、そこはまだよくわからない。

 わからないということを本人にも伝え、わかる方向へ向けての共同作業として毎回の面接を進めていく。こんなことの許されるのがこの仕事の醍醐味だが、これもまた後には残らず、診療記録も数年のうちには破棄される。ただ、卒業していった人々の健やかな毎日のうちに、微かな痕跡を残すばかりだ。

 花火は、すべてそのように現れ消えていくものの象徴か。それだから、これほど人の心を魅了するのか。

(https://ja.wikipedia.org/wiki/長岡まつり)

Ω


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