散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

談論「風」発/メアリー・ポピンズとピヘルシュタイナー

2017-02-23 07:54:45 | 日記

2017年2月21日(火)

 風の強い週である。今日は大学で事務雑務を片づけることにあて、これは案外はかどって2~3時間でケリがついたが、昼過ぎの本部図書館前で体が浮き上がるほどの強風に煽られ、出かけるのをしばらく控えていた。

 4時過ぎ、そろそろおさまってきたかと腰を浮かせかけたところへY先生、ついで会議を終えたO先生がいらして何となくの歓談が始まった。デキる先生たちというのは例外なく話題が豊富で、おおむね話し好きである。小俣先生との間でお互いの姓に関する情報交換したことなど話したら、連想の宝庫に火がついて御両所の談論が止まらなくなった。O先生は長く名古屋にお住まいで、その名古屋で先週末に僕の同窓会があったことも話題に油を注ぎ、気がつけば6時前である。もちろんシラフなのに、何だか少し酔ったような帰り道になった。

 帰宅して、先日45年ぶりに再会したJ君からもらった60~70年代ポップスのCDをかけたら、頭の中の可燃物に本格的に引火爆発してしまった。「音楽はタイムマシン」とはJ君の御託宣だが、よく言ったものである。シカゴにショッキング・ブルー、ポルナレフ、ダニエル・ビダルにメリー・ホプキン、へドバとダビデが日本語一点なのね、当のJ君が当時、「ヘド・・・ロ?」と怪訝な顔をしていたのを覚えているんだな。Wiki からコピペしておこう。

 1970年は、J君と僕が汐路中学校2年G組で同級生になった、ちょうどその年だ。初夏の頃、階下のおねえさんに連れられて『ローマの休日』を見に行った。夏には京都の叔父の家に泊めてもらって大阪万博を見に行った。冬にかかる頃、三島由紀夫の例の事件が起きた。皆、あの年のことだったんだね。ヘドバ・アムラニ(当時26歳)はアメリカで健在、ダビデ・タル(同28歳)は1999年に麻薬中毒で他界とある。Naomi は旧約聖書にも登場するヘブル語の女性名で、それが日本名としても通じることを彼らがどんなタイミングで知ったか、興味がもたれる。

***

ヘドバとダビデ(HEDVA & DAVID)は、イスラエルの歌手グループ。

イスラエル軍の音楽隊で知り合い、退役後の1965年にデュオグループとしてプロデビュー。1970年、世界47ヶ国の代表が出場した第1回東京国際歌謡音楽祭(翌年から世界歌謡祭に改称)にイスラエル代表として出場し、ヘブライ語の歌詞の曲『ANI HOLEM AL NAOMI(I Dream of Naomi)』を歌いグランプリを受賞。その後、二人が一週間東京に滞在している間に日本語の詞を付けレコーディングし、翌年1月25日、『ナオミの夢』のタイトルで発売し大ヒットした。1970年代後半に解散。

 

 風が強い日には、決まってメアリー・ポピンズのことを思い出す。彼女は東風の日にやってきて、東風が吹くとまた去って行く。妙な話だと思っていたのがハタと腑に落ちたのもおおかた中学生ぐらいだろう。イギリスは偏西風の国だから、マクロの風は西から吹くと決まっている。本格的な東風がどの程度どんな時に吹くかよく知らないが、おそらくちょっとした非日常なのである。そうした目に見えない非日常に、このスーパー家政婦は属している。

 メアリー・ポピンズの特徴といえば、何といってもその愛想のなさ、とっつきの悪さである。そのくせ抗しがたい魅力があり、バンクス家のマイケル坊やは彼女がやって来たその晩に哀願する。

***

 「メアリー・ポピンズ!いつまでも、いてくれるんでしょう?」

 寝まきの下からはなんのへんじもありません。マイケルは、がまんができなくて、

 「いってしまったりしないでしょう?」と、一生けんめい、いいました。

 メアリー・ポピンズの頭が、寝まきのてっぺんから出てきました。ひどくこわい顔をしていました。

 「もうひとこと、いってごらんなさい」と、おどかすようにいいました。「お巡りさんをよびますよ」

 「ぼくは、ただ」とマイケルは、おそるおそるいいました。「ずっと、いてもらいたいと思って ー 」

***

 おおこわ!たぶんこの怖さのために、メアリー・ポピンズは愛読書の中からは遠ざけがちだったのだね。ところが同じメアリー・ポピンズがボーイフレンドのバート ~ マッチ売りで絵描きのハーバート・アルフレッドとデートするときには、まったく違った顔を見せる。細やかで忍耐強く、言葉の端々に愛情深い配慮をこめた、しとやかでしおらしい恋人のそれである。もちろん、見かけの取っつき悪さとは違って子どもたちにも同様の愛情と配慮があることは、彼女の表情や言葉でなく行動を見ていればわかる。子どもたちはそれをあやまたず感じとって彼女に慕い寄るのだが、それは選ばれた相手以外には周到に秘められている。

 ナゼ?と考えて、ふとこんな異能の女性は、世が世なら魔女として火であぶられる危険があったのだと思ったりした。西洋中世の「魔女狩り」はまことに奇怪な現象で簡単に説明することはできないから、ここでこれ以上立ち入ることはしないけれど。

 「じゅうたんです。」

 「じゅうたんを入れて運ぶの?」

 「いいえ。で、できてるんです。」

 このあたり、訳者の苦心が偲ばれる。"No, made of it." といった原文が隠れているのだろう。読んでみたいな。

 

 風でもうひとつ思い出すのは、ケストナーの『サーカスの小びと』。なぜ「風」かというと、ちょっと(ではない、とても)悲しい物語の説き起こしに関連する。

***

 メックスヒェンは、六つの年に、両親をなくしました。パリでのことでした。まったくとつぜんな、思いがけないことでした。両親は、エレベーターでエッフェル塔にのぼり、美しい見はらしを楽しもうと思いました。ところが、一ばん上の階でおりたとたんに、あらしがおこって、ふたりを空中にさらって行き、あっというまにどこかへ吹き飛ばしてしまいました!

 ほかの見物人たちは、大きかったので、手すりの格子にしがみつくことができました。

 が、ウ・フとチン・チンは、おしまいでした。ふたりがしっかり手をとりあっているのが見えました。やがて、そのまま地平線に消えてしまいました。

***

  質の良いユーモアと強靱なヒューマニズムを身上とする、敬愛するエーリッヒ・ケストナー(イザベルさん、久しぶりに彼の話題になりましたよ!)だが、登場人物の中には生い立ちの痛みをもつ者が少なくない。手塚治虫作品の多くが裂かれた親子関係に場を置くことを連想させ、それが逆に温かさと希望を浮き彫りにするのかとも思う。ケストナー自身の生い立ちの秘密がそれに影響を与えているのかどうか、そのあたりは何とも言えない。

Ω


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。