散日拾遺

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来信その3: ある軍録

2017-08-21 08:00:53 | 日記

2017年8月19日(土)にさらに戻って

 愛知県在住の修士OBでSさんという人がある。放送大学の修士課程で最初に出会ったメンバーの一人で、病院の放射線技師として働いておられ、患者の放射線被曝を低減する方策を検討して論文をまとめた。僕が母校附属病院でMRI検査を受けた際、検査側のモラルや配慮の欠如にアタマに来てブログで書きなぐったときには、「これは酷すぎる一例であって、全国一般の技師や検査者の誠実な努力を反映していない」という趣旨のコメントを送ってくれた。(おかげでわが母校の残念な状況が、よりいっそう浮き彫りになったのでもあるけれど。詳細は下記。)

・ 母校の附属病院に幻滅 http://blog.goo.ne.jp/ishimarium/d/20140909

・ 2チャレンジルールなど ~ 良心的な技師らのあたりまえの日常 http://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/dc03648b401313b414d829ea2eecd070

 このSさんから、夏休み中に久々の来信あり。一読沈思。了解を得てここに転載する。

***

【本文】

 残暑お見舞い申し上げます

 夏の疲れが出る頃ですが、お元気でお過ごしでしょうか。

 8/14の「サイパン島」についてのブログを拝読しました。私の祖父もサイパンで戦死しております。15年ほど前、家内とサイパンに行ったたときにガラパン付近で激しいスコールにあい、祖父の涙ではあるまいかと感じたことを思い出します。

 放送大学院ゼミ生時代に石丸先生に教えていただいたように、祖父の軍歴を取得することができましたので、少し書かせていただきました。ことがことだけに文が乱れ、個人的な感情が入っておりますがお許しください。

 当方は先日、バイクで捕鯨の町、太地町と本州最南端の潮岬を訪れ、近大マグロを食してまいりました。秋風を感じる頃はまだ少し先になりそうです。石丸先生もどうかご自愛下さい。

 平成二十九年 晩夏

【添付文書(抜粋)】

 H27、故人との間柄を証明する戸籍を県に提出し、父方の祖父の軍歴をやっと手に入れました。足かけ10年に及ぶ軍歴の初め近く、二・二六事件(S11.2.26)には近衛兵として軍務に服していたことも、ここからわかります。祖父は大正4年生まれ、入営は満19歳7か月、戦没は満29歳の誕生日を迎えた6日後でした。

 S10.12.1近衛歩兵第4連隊に入営(歩兵2等兵)。

 S11.10.21.歩兵上等兵。S12.5.31帰休除隊(下士官適任証書附与)。S12.11.30.現役満期。

 S.13.9.14臨時招集、近衛第2連隊応召。S13.9.28~S14.6.26支那事変に従事。(中略)

 勅令第580号によりS18.3.14臨時応召、歩兵第135連隊入隊。S19.5.14館山港、出帆。

 S19.5.19サイパン島上陸。

 S19.6.1軍曹。S.19.7.18マリアナ島に於いて戦死。

 我が家では今も、戦争は忘れがたい心の傷です。私の父も祖父が戦死したために苦労し、貧しかったことをよく話してくれます。父の小学校時代に、こんな逸話があったそうです。

 戦死した祖父に代わり、祖父の弟(つまり父の叔父)が運動会の親子行事に出たところ、競争で一番になったのです。これに対して、「代理出走ではないか」と今でいうクレームがつきました。すると、祖父の弟 ~ 自身も旧軍人 ~ がマイクを取って壇上に上がり、「この子の父は戦争で死んだのだ。戦死者に成り代わって走ることが『反則』なのか」と言い放ったところ、場内が静まり返ったとのことでした。

 「太平洋の防波堤」として戦い、貴い犠牲となって現在の日本の礎を築いた祖父に感謝するとともに、今は非常に複雑な気持ちです。これまで避けてきたのですが、どうしてもサイパン戦のことが知りたくて今年の6月頃から調べはじめました。すると、平櫛孝参謀の「サイパン肉弾戦」の中に、7月7日未明の万歳突撃の記載がありました。

 「洞窟を出て間もなく、司令部付のS軍曹が・・・月光に照らされて冷たく横たわっていた」

 背筋が凍る思いがいたしました。「S軍曹」が祖父ではないかと。

 「サイパン肉弾戦」によれば歩兵第135連隊は司令部直属の部隊となり、タポチョ山の戦いまで温存されていた部隊であったようなのです。

 今年の盆の墓参りの際、先祖の墓とは別に立つ祖父の墓(サイパンの砂しか入っておりませんが)に、「昭和19年6月28日マリヤナ島に於いて戦死」と刻まれた字を見て、祖父の最期の日を思いつつ妻と娘の3人で手をあわせてまいりました。

 生前の祖母が、空襲のこと、B29を照らした探照灯のこと等を孫の私によく話してくれました。ただ、祖父の最後の出征となった日に、祖母は自宅で見送っただけで駅までは行かなかったこと、これはただ一度しか語られなかったのに、今も私の心に印象深く残っています。

 いつまでもそんなことを気にして愚かなことと言われるかもしれませんが、私はそれで良いと思っております。命を懸けて戦場で戦ってくれた祖父を誇りに思っております。戦争を美化するのではありません。愚かしい戦争であっても、あるいはそうであるからこそ、貴い命を捧げて戦ってくれた祖父が忘れがたいのです。

 遺族には戦争を美化するのとは違った思いが受け継がれていることを、知ってほしいと思います。

Ω


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