散日拾遺

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さくらのこえ

2015-12-31 15:11:54 | 日記

2015年12月5日(土)・・ようやくここまで戻りました。

  すっかり日が経ってしまったが、年が改まる前にどうしてもこれは載せておきたい。

 11月末の多摩SCの面接授業はいつもながら疲弊した。実際に学生と顔を合わせて勉強するのは掛け値なしに楽しいのだが、85分の授業を2日間で8コマというのが、どうやってもこうやってもしんどいのである。僕は座って話すことができず、熱をこめずに淡々と話すこともできないので、一日立ちっぱなしのしゃべりっぱなしになる。今度こそ省エネとか思って始めてみたところで、終わってみれば相も変わらぬ肉弾消耗戦、11月30日(月)は抜け殻みたいで何の使い物にもならなかった。

 僕のあの脳みそ、どこに行ったんでしょうね。(これはパクリである。え?いや、そうじゃなくてね、パクリなのだ。)

 

 次の週も今度は渋谷SCで面接授業だが、これは一転楽ちん、というのも3人で分担するからである。桜美林の種市先生が2コマ、今はICUの清水先生が3コマで、僕が最初の2コマとまとめの1コマ。3人の講師の話を聞けて受講側にはお得感があり、こちらも加重負担を避けられる。たぶん一つの理想型である。

 金曜の晩に翌日の準備をしていたら、同窓会がきっかけでメールをやりとりするようになったM女史から連絡あり、渡したいものがあるという。土曜日は13時過ぎに解放されると返信したら、朝になってメールが入り、それではその頃その辺に行っているからとファジーなメッセージ、「お昼ご飯食べたら、お宮で遊ぼうね」・・・むろん最後はケータイ頼りで、たぶん35年ぶりぐらいの再会となった。

 渡されたブツが、なるほど貴重である。詳細は下記に挙げる記事や写真を見てもらうとしよう。要は、重度の脳性麻痺で生まれてこのかた寝たきりの生活を余儀なくされてきた20歳の女性の、詩集が完成発行されたという内容である。記事はいずれも朝日新聞だが、うちは夕刊をとっていないこともあって気づいていなかった。「ことばやいしがあることをしって」とあるが、「さくらのこえ」をめくってみて驚いた。「ある」どころではない、輝いている。

 つくづく思うのだが、足があって手があるなら、言葉はさほど必要ないという一面がある。歩み寄り、肩をたたき、振り返ったらにっこり微笑んでみせれば良い。それで気持ちはたっぷり通じる。歩くことができず、肩をたたくことがままならなず、豊かに表情を作れない状況だからこそ、言葉が力を発揮する。おしなべて順境では言葉の役割は小さい。逆境を超えさせるのが言葉の力である。

 「こういう人のためにこそ、言葉があるんだねえ」と言ったら、

 「そう、そのことよ!」と辛口のM女史が膝をたたくように反応した。

 この件、項をあらためる。

  「さくらのこえ」表紙

  2015年4月6日 朝日新聞夕刊1面

  2015年7月25日(土) 朝日新聞夕刊社会面

 

 


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