散日拾遺

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首都圏交通ネットワークの愚かしさ / 定石はずれを咎めそこね

2015-07-29 06:12:44 | 日記

2015年7月28日(火)

 朝から暑い中を遠方からTS先生お越しあり、『精神医学特論』のインタビュー収録を滞りなく終える。

 結果的には「滞りなく」だが、今朝もまた電車遅れて冷や汗をかいた。埼玉は蕨で起きた人身事故で京浜東北線がストップし、あおりで、りんかい線のダイヤが乱れるといういつものパターンである。

 年間の自殺者数は減少に転じたというが、「ジンシンジコ」というアナウンスが減った実感はさらにない。そのことがひとつのポイントだが、もうひとつは「埼玉のトラブルで神奈川や千葉の鉄道が乱れる」という件である。これはどう見たって愚劣なことだ。

 ここ数年だか数十年だか、相互乗り入れ・直通運転をひたすら促進する方向で首都圏の電車網の再編成が進んできた。目黒線が日吉から高島平や浦和まで直通し、東横線が横浜と飯能を結ぶありさまである。これを便利というのだろうか、現実には毎朝のようにどこかでトラブルが起き、毎朝のようにネットワーク全体が不具合を起こす。時刻表を信用して家を出ても、約束の時間に着けるという保証がない。これは便利ではなくて、大きな不便である。この不便が起きたのは、長距離にわたる直通運転を無理やり推進した結果に他ならならい。

 生物学者なら、ほ乳類型と昆虫型の神経系になぞらえるかもしれない。ほ乳類は全身の神経を中枢の完全なコントロール下に置き、全身の統合性を高めて複雑な体制を発達させた。その結果、大型化が可能になり、知能が発達することにもなった。昆虫の神経系は、全身に散在する神経節の独立性が高い。これでは全体のサイズをあまり大きくできないし、知能を発達させる余地もない。ただし、ほ乳類型では中枢が一撃されればアウトだし、中枢と末梢を結ぶ長い経路のどこか一部に故障が生じたら、全体が機能マヒに陥る。昆虫の場合、各神経節へのダメージは局在的なものに留まり、一部に故障が起きても他の部分がそれを補うことができる。

 こういうことを扱う学問を何と呼ぶのか、昔サイバネティックスなどという言葉があったが、最近聞かないのは、たぶん別の概念に取って代わられたのだろう。ともかくその種のナントカ学で、きっと定式化されているはずである。高能率だが脆弱な中枢優位のほ乳類型、能率は低いがトラブル耐性の高い末梢優位の昆虫型、人類を頂点とする進化史観を一歩離れてみるなら、いずれも立派な言い分のある二つの方式である。

 そして

 ヒトが中枢神経優位路線のチャンピオンだからといって、交通システムまでほ乳類型にしてしまうことはない。少なくとも、主要なルートがどれもこれも長距離の直通運転を指向する今のやり方は、コストパフォーマンスが絶望的に悪いだろう。さしあたり利用者側の不満を述べ立てたのだが、保線や運行にあたる鉄道会社職員の苦労心労も、飛躍的に増大しているはずである。

 

 結果的には大過なく、必要な時刻には大学に着いた。反対方向からやってくるTS先生のほうが、僕らに影響したのとはまったく別の路線の同じようなダイヤ乱れで15分遅れ、最後はタクシーで大汗かいて到着された。そのかいあって、インタビューは非常に充実したものになった。災害精神支援について広く深く語られている。受講者の反応が楽しみである。

***

 夕方、仕事を終えたFさんと一局。序盤にだいぶ稼がれ、後半ずいぶん挽回したがわずかに及ばず、1目半の負け。

 Fさんいつになく御機嫌で、「いやあ激しい碁だったが、やっぱり棋力が同じようなものだから、最後はきわどい勝負になりますね」と、こんなコメントは珍しい。僕のほうは、屈託なく笑えない事情がある。

 定石の勉強は、アマが上達するためには必須である。「アマが」と殊更いうのは本意ではないが理由がある。「名人に定石なし」のたとえあり、名人ならずともプロは知識に依るのではなく、自身の判断に従って最善手を打つことができ、逆にその集積が定石となって残る。僕らはそこまでの技量がないから、逆に最善とされているものを学んで、そこから棋理に近づこうとする。上達の王道であり、効率的な道でもある。

 ただし、

 実際に碁会所などで打ってみると、定石をきちんと勉強している者は少ない。ヒジョーに少ない。定石が登場するのは布石の段階だが、布石などは「どう打っても一局」とばかり、定石はずれの無理手ゴリ押しがむしろ多数派で、そのかわり実戦チャンバラの腕には自信あり、強引に自分のペースに引きずり込んでしまう。強引さ比べのケンカ碁である。Fさんは、その道の雄なのだ。

 僕はというと、50歳も過ぎるまで家族以外とはほとんど打たず、本から学んだ畳上の水練だったから、形はきれいだけれど接近戦の腕力が劣る。で、何が起きるかというと、相手がおかしな手を打っていることは分かるのだが、それを的確に咎めきれないという顛末、今日もそうだった・・・はずだ。しかし何がまずかったんだろう?

 例によって帰り道で気がつく。右下でトビツケをオサえてきた瞬間、あれはキル一手だった。あと、どう転んでもこちらの悪い図は考えられない。気合からも、それしかなかったのに・・・ オサエは明らかにヘンだ、こんな手あるかなとアンテナが働いたんだが、それが警戒信号になって自重したために、相手の無理が通ってしまった。左辺もそうだ。自分だったらアテられた一子はあっさり捨てて外に回る。それが当然と思うところ、アテた石をノビられ、「え?」と思う意外さがその後の対処を誤らせた。なりふり構わず、オサえこんで取りに行くのが正しかった。

 「階段下のエスプリ」 、これは2013年9月15日のブログにも書いたが、見直せば「階段のエスプリ l'esprit de l'escalier」 が正しいらしい。郷里の戯れ言で「後で餡つく××の知恵」というのがある、概ね同義である。これが僕の大の得意だ。Fさんは終わった碁のことなんかきれいに忘れるらしい。「勝った」という満足感で十分、今頃は気持ちよく家路をたどっていることだろう。う~ん、どうも悔しいな。負けたことが悔しいんじゃなくて、このアタマの悪さがな~・・・


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