散日拾遺

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読書メモ: 歌よみに与ふる書

2015-08-31 18:39:08 | 日記

2015年8月21日(金)

 『歌よみに与ふる書』をこれまで読まなかった理由は簡単で、自分は「歌よみ」ではないからである。これが了見違いというもので、歌よみだから『歌よみに与ふる書』を読むわけではなく、『歌よみに与ふる書』を読むことで歌よみがつくられるということがあり、そちらの方が本筋だ。サムエルは預言者だから神に呼ばれたのではなく、神に呼ばれて預言者になった。第一、子規のいう『歌よみ』は彼の追随者ではなくて論敵のこと、そこらのへっぽこ歌よみどもということであるらしい。

 そんなことはどうでもいい、読めばこれが無類に面白い。子規の舌鋒止まるところを知らず、あたるを幸い切りまくり投げ倒し、これが自ら「足萎え」と称する病人かしらん。

 「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候(これありそうろう)。」

 「この躬恒の歌(註:心あてに折らばや折らむ・・・)、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちもこれなき駄歌に御座候。この歌は嘘の趣向なり・・・」

 「三夕などいふ歌いづれもろくな歌にあらず。」

 いやもう、怖いもの知らずったらない。どうせなら古典の授業で『古今集』を教える時、セットで子規の歌論を紹介したら良いのに。どっちが正しいと思うか、生徒に評定させたら面白いのだ。というのも、子規はヤミクモに古いものがダメだと言ってるのではないし、『万葉集』が最古の黄金時代であとは退化する一方だと決めつけているわけでもない。『新古今』は『古今』に比べて復調の兆しありとし、『金槐和歌集』を大いに称え、さらに幕末の歌人・橘曙覧(たちばなあけみ)を称揚してもいる。良いものは良いとする、その基準が至って明解である。

 基準は何かというに、実はややこしいものではない。嫌み・無駄・理屈を嫌い、その反対 ~ 素直・簡潔・写実を貴ぶ。それだけのことだ。ただ、それを実践に反映するのは簡単ではない。文というもの自体が生の現実に対する人工の産物であり、人工物を生み出す作為が既に何ほどか「嫌み・無駄・理屈」の性質をもっているからである。 たゆみない研鑽、永久革命を目ざすばかりだ。

 

 岩波文庫の『歌よみに与ふる書』は、同名の小論説十編(『十たび歌よみに与ふる書』まで)に加え、『あきまろに答ふ』『人々に答ふ』『曙覧(あけみ)の歌』『歌話』を収める。明解・痛快で『病床六尺』に通じる子規のド根性が申し分なく発揮され、文学論としても面白いから今後繰り返し読むだろうと思う。引用するなら全体を引かねばならないが、中で上にも述べた橘曙覧を紹介讃仰する文が異色なので、少しだけ転記しておく。

 橘曙覧は松平春嶽がその人ありと認め、訪ねてまで行ったのに仕官を固辞した。門地を擲っての洗うがごとき赤貧に、離縁して里に帰るよう妻女に勧める人々もあったが、これがまた夫を見限る気配は微塵もなしに添い遂げたという。おしどり夫婦の陋屋から生まれた歌でもある。

 

 壁くぐる竹に肩する窓のうちみじろくたびにかれもえだ振る

 膝いるるばかりもあらぬ草屋を竹にとられて身をすぼめおり

 「明治に生まれたるわれらはかくまで貧しくなられ得べくもあらず」と子規が言う。「昭和に」「平成に」生まれたるわれらは・・・かくまで強く豊けくなられ得べくもない。

 

 たのしみは小豆の飯の冷えたるを茶漬てふ物になしてくふ時

 たのしみは銭なくなりてわびをるに人の来たりて銭くれし時

 「正直にも彼は銭を多く貰ひし時の、思ひがけなきうれしさをも白状せり。仙人の如き、仏の如き、仏の如き、子供の如き、神の如き曙覧は余は理想界においてこれを見る、現実界の人間として殆ど承認する能はず。彼の心や無垢清浄、彼の歌や玲瓏透徹。」(子規)

 

 四つになる女の子を失って、

 きのうまで吾衣手にとりすがり父よ父よといひてしものを

 

 飛騨の鉱山の労働現場を見て、

 赤裸(まはだか)の男子(おのこ)むれゐて鉱(あらがね)のまろがり砕く鎚うち揮(ふり)て

 

 生活万事森羅万象、歌にならざるはない。その創作姿勢は、

 灯火のもとに夜な夜な来たれ鬼我ひめ歌の限りきかせむ

 

 きりがない。これで決定版としよう。

 いつはりのたくみをいふな誠だにさぐれば歌はやすからむもの

 むろん、これほど難しい「簡単」はないのである。


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