散日拾遺

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編集者はどこに?

2022-01-17 06:52:00 | 読書メモ
2022年1月17日(月)

「お母さまが病室に見えられました」・・・
朝の連載小説

【見える】[下一自]
 ① 目に感ぜられる、目にうつる
 ② 見ることができる
 ③ その状態が感じとれる、解釈される
 ④ 「来る」の敬語、おいでになる
岩波国語辞典など
 
 「見えられました」は敬語の重複、「見えました(=おいでになりました)」で必要十分だが、それで不足なら、せめて「お見えになりました」とすればよいのに。
 話者として想定されているのは昭和二十年当時の成人、その口の端に「見えられました」の浮かぶ余地は皆無だったはずである。理屈ではなく肌感覚の問題、美醜以前に落ちつかない…

 この種のことは、書き手よりも編集者が気づかないものかなと常々思う。上の例などはまだしも微妙だが、単純な誤記や事実誤認については編集者こそ、筆者と同等かそれ以上に責任を負うべき立場にある。
 書き手にはさまざまな思惑があり心配事もあって、そちらに気をとられてとんでもない思い違いや勘違いをやらかしがちなものだ。世界に一つしかない原稿の第一番目の読者である編集者は、執筆現場のいわば砂かぶりに位置しており、こうしたミスを修正するうえで絶好の立場にあるはずなのに。

 「江戸城内にはまだ実力主義の気風が残っていましたから、国松を待望する大名も多かったようです。そうしたなかで、家康の正妻である春日局(かすがのつぼね)が駿府城に出向き、家康に「ちょっと、おじいさん。何とかしてくださいよ」と直訴しました。それで家康が動いて…」
門井慶喜『家康の江戸プロジェクト』祥伝社新書 P.129
 
 まさか!
 春日局は明智光秀の重臣・斎藤利三の娘、小早川秀秋の家臣である稲葉正成の妻であった。徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の三代将軍家光)の乳母に抜擢され、憎くもない夫と離縁する形で大奥に入ったが、家康の室になった訳ではない。側室でもなければ正室でもない。もっぱら家光の養育係としてスカウトされた、それだけでありそれに尽きる。
 この筆者がそうした事情を知らないはずがなく、それこそ何かの勘違いで筆が滑ったに違いない。そのとき編集者は何をしていた?

 余談ながら「家康の正妻」に注目するのは、なかなか面白いテーマである。民法も何もない時代で、正室と側室の違いがどこにあるかがそもそも問われるが、これは理屈をこねるよりも実例を見た方が話が早い。
 家康の生涯で「正妻」と目された女性は二人あった。

 第一は築山殿。今川氏の一族で、今川義元の姪(妹の子)にあたる。家康が今川の人質であった時代に正室となり、長男信康を産んだ。永禄3(1560)年に桶狭間で義元が討たれて家康が独立し、二年後に人質交換で岡崎に迎えられてからは城の近くにある総持寺の築山に住んだところから、築山殿と言われる。
 正室であるうえ跡継ぎを産んだのだから不動の地位にあったはずだが、出自を頼んで気位が高く夫を見下すところがあったともいわれる。天正7(1579)年に信康と謀って甲斐の武田と内通したとの疑いをかけられ、殺害された。家康の生涯最大の痛恨事である。

 第二は朝日姫、こちらは秀吉の妹(異父妹)である。小牧・長久手で両雄相まみえ、戦闘では家康が一本取ったが政略でまんまと秀吉に丸め込まれた。戦後の和睦の一環として、立派な夫のある「妹」をわざわざ離婚させて家康に嫁がせたのだが、家康も天下人の妹を迎える以上、正室として遇する他はない。
 ただ、いかにも無理があった、というのも時に朝日姫44歳、現代の44歳とは話が違う。結婚の実質など誰よりも当人たちが期待していない。二年後に母大政所の病気見舞いと称して上洛した朝日姫は、そのまま京都に滞在することさらに二年、48歳で病没した。

 これら正室との実り少ない縁に引き替え、側室に関しては家康はなはだ艶福であり子福者でもあった。以下はその驚くべきリストである。
  西郡の方 ・・・ 次女督姫の母
  於万の方 ・・・ 次男於義丸(結城秀康)の母
  於愛の方 ・・・ 三男秀忠の母
  於都摩の方・・・ 五男万千代、三女振姫の母
  於茶阿の方・・・ 六男忠輝、七男松千代の母
  於亀の方 ・・・ 八男仙千代、九男義直の母
  間宮氏女 ・・・ 四女松姫の母
  於万の方 ・・・ 十男頼宣、十一男頼房の母
  於梶(勝)の方・・・五女市姫の母
 以下は子を生すことあたわなかった側室たち。
  阿茶の局
  阿牟須の方
  於仙の方
  於梅の方
  於竹の方
  於六の方
  於夏の方

 名家のお嬢さん筋に執心だった秀吉に対して、徹頭徹尾実質主義の家康、このあたりは坂口安吾『二流の人』の筆致が抜群に面白いのだが、どうしたことか手許に見あたらない。
 話を戻し、書き手のうっかりということについて、もう一つ。

 「『旧約聖書』では、大洪水の後、生き残ったノアの方舟の生き物たちのうち、最初に飛ぶのが白い鳩でした。」
前掲書 P.104
 そう思われがちだが、実は違う。

 「四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。」
(創世記 8:6-7)

 白い鳩ではなく、黒い烏が最初だった。ただ、この時はまだ水が引いていなかったので、烏はしょうことなしに箱舟から出たり入ったりで終わってしまう。烏の責任ではないのだが、ノアはあっさり選手交代させ七日後に鳩を放す(「白い」鳩とは特に書かれていない)。鳩はオリーブの枝をくわえて帰って来、さらに七日後に放たれたときはもう帰ってこなかった。
 この通り、黒い烏は結果を出せず、白い(かどうかわからない)鳩は成果を得ているから、「白」の象徴的な価値を強調する前掲書の文脈では差支えないことというものの、「最初に飛ぶのが白い鳩」と言いきるのはやっぱりまずい。
 しつこいようだが、こういうことをチェックするのが、本来なら編集者の仕事ではないかというのである。

 もう一つだけ、これはタイトルに惹かれて買い帰った ~ 徳川ものは当方も好きなので ~ 帰りの電車の中で気づいたこと。

 「万千代は、天正3年(1575)11月、元服して、井伊兵部直政となった。
 その際、直政は、家康に乞うて、織田信長に滅ぼされた武田勝頼の、生きのこった家来百余人を、おのが麾下に加えた。」
細谷正充編『井伊の赤備え』(河出文庫)P.12

 赤備えが武田(とりわけその部将、山県昌景)から井伊に伝えられた由来を示す有名な逸話であるが、年代が間違っている。武田勝頼が天目山で敗れ甲斐武田氏が滅ぶのは天正10(1582)年3月のことだから、天正3年の井伊直政元服時ではあり得ない。年表を見るまでもなく明らかな錯誤で、これなども書き手の手が滑った一例であろう。
 「その際」を「後に」と修正すれば済むことであり、そうしたことこそ編集者の仕事の大事な一部ではないかと、重ねて主張したいのである。

Ω

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