散日拾遺

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1月27日 実朝の命日(1219年)

2024-01-27 21:56:24 | 日記

 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.32

1月27日 源実朝が鶴岡八幡宮で殺される

> 1219年(承久元年)1月27日夕方六時頃、鎌倉幕府三代将軍、源実朝は甥の公暁に殺害された。鶴岡八幡宮への参拝の帰りに、大銀杏の陰に隠れていた公暁に斬りつけられたのだ。これによって、源氏の正統は絶え、源氏将軍も実質上三代で断絶することになる。
> なぜ公暁は叔父の実朝を狙ったのか。公暁の父は、源頼朝の長子で二代将軍の頼家だが、義父の比企能員(ひき よしかず)と共に北条氏討伐を企てたため伊豆に幽閉され、殺害されてしまう。
> 公暁は、父の死後に三代将軍となった実朝(頼朝の次男)を父の敵と思いなし、殺害の準備を重ねていた。実朝殺害後、公卿は自分が次期将軍になれると思い込んだが、北条義時の命により直ちに刺客によって討ち取られている。
> 実朝は1203年、三代将軍になった後、政治の実権は北条義時に譲り、自分は「飾り物の将軍」に徹していた。藤原定家の指導を受けて和歌をよくし、1213年には『金槐和歌集』を編んでいる。この歌集には、万葉調の名歌「大海の磯もとどろに寄する波 われてくだけてさけて散るかも」などが収められている。

***

 この件、公卿が北条義時の奸計にまんまと乗せられたものと思っていたが、近年は野心にはやる公卿の単独犯行説が有力だという。その日の詳細を Wikipedia から補足。

> 建保7年(1219年)1月27日、雪が2尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎えた。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ、実朝は落命した。享年28(満26歳没)。『愚管抄』によると次に公暁の一味の3~4人の法師が源仲章を斬り殺したが、これは北条義時と誤ったものだという。『吾妻鏡』によれば、義時は御所を発し八幡宮の楼門に至ると体調の不良を訴え、太刀持ちを仲章に譲り自邸に戻ったとある。一方で『愚管抄』によれば、義時は実朝の命により太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しなかったとある。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された。

 事件が起きた日の元号について。建保から承久への改元は西暦1219年4月とあるから、1月27日の記載としては建保が正しいのであろう。
 義時が「体調の不良を訴えて自邸に戻った」とすれば義時謀略説が、実朝の命によって同行を控えたとすれば公卿単独犯行説が、それぞれ説得力を増す理屈である。しかし前者の典拠である『吾妻鏡』は北条得宗家の立場から記述されたものであり、わざわざ義時の悪だくみを示唆するような書き方がよく分からない。
 おおかた万巻の書がこの件について記されていることだろう。そのうちとっくり読んでみたい。

 「われて くだけて さけて ちるかも」 … 絶唱、見事なり
 百人一首所収の「海人の小舟の綱手かなしも」(新勅撰集)、それに金槐和歌集の掉尾を飾る下記などもこの歌い手ならではと思われる。

時によりすぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ

Ω
 

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