2022年6月26日(日)
朝、イサク奉献の物語を子どもたちと引率の保護者らに話し終え、ここしばらくの肩の荷をおろした。
拝聴する側にまわり、今朝M師の説教のポイントは「安息日は人間のためにある」ということである。「安息日が真の安息をもたらしているかどうか」という問いに置き換えてもよい。
「このところ体調が悪くて礼拝に出られない」とこぼした信徒に対して、牧師が「礼拝に出ないから体調が悪いのではないか」と反問したという逸話も実は同じところを突くもので、要するに真の安息とは何であり、どこでそれが与えられるかということに尽きる。律法主義の倒錯ぶりを嘲ってすむ話ではない。
そのように首尾一貫した説教の、どこにどう織り込まれたのだったか、「キリスト教は物故者を大事にしない」というありがちの誤解に反論されたことに意を強くした。
仏教では○○回忌の法事を多年にわたって繰り返し、家族がうっかりしていてもお寺さんからちゃんと報せが来る、それに対してキリスト教とりわけプロテスタントは、葬儀を行ったあとは意向次第で記念会を行うぐらいで、その後は定期的な供養を行わない。
それは事実だが「だから故人に対して薄情だ」というのは無知というもので、クリスチャンは毎日曜日の礼拝の中で召された信徒を覚え、再会の希望を週毎に確かめている。大事にしないどころか、日々の信仰生活の中でいつも故人を覚えているというのである。
先生よくぞ言ってくださった。訳を知らない者があれこれ詮索し難詰するとしても、そうした者に限って故人が何を大事にしていたかを知らず、存命中にも知ろうとはしなかったのである。
血縁の無意味なること斯くの如し。
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