散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

「あくび」について年来の妄想

2016-10-27 10:32:20 | 日記

2016年10月28日(金)

  

 アクビ、である。ポイントは二つ。

① 誰もが知るとおり、アクビは伝染(うつ)る。

② 人間だけでなく、動物もアクビする。

 ②はとりわけ不思議でもないようだが、知りたいのは動物のアクビも同種の動物間で、あるいは異種の動物間で伝染るかどうかという点だ。

 ①に戻って言えば、アクビがなぜ、いかなるメカニズムで伝染るのかについて、未だに説得力のある説明を読んだ/聞いた覚えがない。ただ、「なぜ/いかに」をとりあえず棚上げしてアクビが伝染るという事実から出発した場合、僕にはこれが「多くの生理現象はそもそも個体間で伝染しやすい性質をもっている」という一般則の証拠であるように思われる。「生理現象」というのが曖昧に過ぎるとすれば、「自律神経系の支配下にある現象」と言ってもよい。アクビの厳密は「なぜ/いかに」がさしあたり不明だとしても、そのメカニズムに自律神経系が介在している(あるいはそのメカニズムを自律神経系が担当している)ことは疑いようもないからである。

 ここにひとつの不思議がある。自律神経系のシステムは交感神経系と副交感神経系が拮抗する仕組みになっている、これも周知。これらを英語で何と呼ぶかとみれば、sympathetic/parasympathetic nervous system なのね。これは「共感/副共感神経系」と訳したって良かったような言葉だ。もっとも今なら「empathy が共感、sympathy は同情でしょ」と横やりが入りそうだけれど。

 そこでまた(大きな)疑問、英語の(あるいはその背後にある別の欧語の)命名者は、なぜこのようなネーミングをしたのか?「自律神経系の司る現象は、個体を超えた強い伝染性をもっている」という認識があったからではないか?この点を裏づける文献証拠がないか、もう20年も前から気になっているのだけれど見つけられずにいる。誰か御存じであれば是非とも教えてほしい。

 もうひとつの(小さな)疑問、これらをおそらくは明治期に「交感/副交感神経系」と訳したのは誰なんだろう、そこにどんな苦労があっただろうか。けっこう知恵を搾ったに違いないのだ。

 この一連のこだわりの理由は単純なもので、人と人との気もちが「伝わる」ということには身体的な基礎があり、そもそも情動は伝わるようにできている(設計されている)に違いないと確信するのだ。スポーツ観戦などはそれを最大限に生かして楽しむお約束だが、伝わるのが自律神経系にレベルでがっちり仕込まれた本性であるだけに、その伝染性を節度をもって制限するのが大脳連合野の役割(=マナー)であるということになる。どんなスポーツであれ、観衆のほぼ全てが一方に肩入れし、会場全体が一色に染まるというのは基本的なマナー違反、反文化的なことだと思いますよ。

 不安も安心も伝染性のものである。アッシジのフランチェスコの顰にならって、「不安のあるところに安心を生み出すものに祝福あれ」と言っておこう。

***

トリビアのトリビア①: "Gather, Darkness!"

 Fritz Leiber (1910-92)というアメリカのSF作家に、"Gather, Darkness!" という有名な作品がある。『闇よ、集え』というピッタリのタイトルで邦訳されたのを昔読んだ記憶があるが、確かこの作品の中に群衆の心理を交感/副交感神経系を介して操作するという設定があった。違う作品と混同していないか確認したいのだが、「闇よ、集え」で検索すると日本人作家のハロウィンコミックが出てきて、ライバー氏の方は見つからない。家のどこかから探し出すほかなさそうだ。

   http://www.goodreads.com/book/show/561311.Gather_Darkness_

トリビアのトリビア②: アクビはなぜアクビと言うのか?

 ・・・正確な語源は未詳だが、『枕草子』にもある動詞「欠ぶ(あくぶ)」の名詞形が有力。 「欠ぶ」の語源は未詳で、「開く(あく)」と同系とも考えられている。 「欠」の漢字は口を開けてする動きを表す文字で、「欠伸」はあくびをして背伸びをすることを意味していた。

 その他、「飽く」と関連づけた説も多く、「飽くぶ(あくぶ)」の名詞形、「飽吹(あくぶき)」の約、「飽息(あくいき)」の約などがある。「おくび(げっぷ)」と共通語源に由来することも示唆されている・・・

(「語源由来辞典」より http://gogen-allguide.com/a/akubi.html)

Ω


コメント御礼 / 診療雑感 ~ 憑依するものの苦しさ

2016-10-27 07:28:40 | 日記

 阿部美香さん(10月17日、18日)、yoko さん(10月27日)、コメントありがとうございます。直接返信する機能がブログの設定に見あたらず、すぐに御礼も言えずにいますが、書き散らかしの中から丁寧に意味を拾ってくださることを感謝しています。

 面接授業などの際に、一人の発言が多くの受講者の気もちや考えを代弁し、皆が参加感覚を共有するということが起きます。いただいたコメントがそんなふうに機能するよう願っています。重ねてありがとうございました。

***

2016年10月14日(金)頃に書き損なったこと:

 ある女性 〜 仮にA山B子さんとして ~ がこんなふうに言ったとする。

  「私というものがA山B子の魂の中にいるのは、すごく間違ったことではないかという気がする、私はA山B子からもう出ていかなければならないのじゃないか、A山B子は迷惑しているのじゃないか、そんなふうに考えてしまうんです。」

 しみじみと低い声で打ち明けられるのを聞くにつれ、めまいに似た感覚がしてくるだろう。「太陽ではなく地球が動いているのだ」と聞かされたときに感じるめまいと、似たものではないか。「憑依」という周知の現象(というか、そのようなものの見方)においては、僕らの人格に異質な何ものかがとりついて攪乱する。僕らの共感は常に憑依される側にある。ところがこの人は、痛ましくも憑依する側に同一化しているのだ。それはこの世に歴とした市民権をもたないこと、招かれざる余計ものとして誰かにとりつきながら、肩身を狭くしてわずかに命をつなぐことを意味する。そんな感覚で過ごす20年があったとしらた、それはどんな長さの20年だろうか!

 それは、福音書の物語で墓場に住みついて暴れる人からイエスによって追い出され、豚の群れに入ることを願って許された霊(レギオン)に同一化することと同じである。そういう読み方もあるのだし、心秘かに/心ならずもそのような読み方をしてきた人々がいつの時代にもいたに違いない。気づいていなかった。ドストエフスキーの『悪霊』はそのことを背後に負うており、あるいはそこに鎮魂の企てを見るべきなのかもしれない。

 2週間後、今度はA山B子さんがこんなふうに言ったとしよう。

 「いろいろあって疲れてしまって・・・私はもう、A山B子をやめたいと思うんです。これ以上、彼女に迷惑をかけることはできませんから。」

 顔色が変わるのを、たぶん抑えきれはしないことだろう。それはいけない、あなたは勘違いしている、あなたこそがA山B子なのであって他の誰でもありはしない、出ていくことなどできないし正しいことでもない、だってあなたがA山B子なのだから・・・かきくどくように懸命に伝えるに違いない。

 真にこの世には、さまざまな苦悩がある。「病理」とはそのことの別名に他ならない。

Ω