散日拾遺

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コメント御礼 / 診療雑感 ~ 憑依するものの苦しさ

2016-10-27 07:28:40 | 日記

 阿部美香さん(10月17日、18日)、yoko さん(10月27日)、コメントありがとうございます。直接返信する機能がブログの設定に見あたらず、すぐに御礼も言えずにいますが、書き散らかしの中から丁寧に意味を拾ってくださることを感謝しています。

 面接授業などの際に、一人の発言が多くの受講者の気もちや考えを代弁し、皆が参加感覚を共有するということが起きます。いただいたコメントがそんなふうに機能するよう願っています。重ねてありがとうございました。

***

2016年10月14日(金)頃に書き損なったこと:

 ある女性 〜 仮にA山B子さんとして ~ がこんなふうに言ったとする。

  「私というものがA山B子の魂の中にいるのは、すごく間違ったことではないかという気がする、私はA山B子からもう出ていかなければならないのじゃないか、A山B子は迷惑しているのじゃないか、そんなふうに考えてしまうんです。」

 しみじみと低い声で打ち明けられるのを聞くにつれ、めまいに似た感覚がしてくるだろう。「太陽ではなく地球が動いているのだ」と聞かされたときに感じるめまいと、似たものではないか。「憑依」という周知の現象(というか、そのようなものの見方)においては、僕らの人格に異質な何ものかがとりついて攪乱する。僕らの共感は常に憑依される側にある。ところがこの人は、痛ましくも憑依する側に同一化しているのだ。それはこの世に歴とした市民権をもたないこと、招かれざる余計ものとして誰かにとりつきながら、肩身を狭くしてわずかに命をつなぐことを意味する。そんな感覚で過ごす20年があったとしらた、それはどんな長さの20年だろうか!

 それは、福音書の物語で墓場に住みついて暴れる人からイエスによって追い出され、豚の群れに入ることを願って許された霊(レギオン)に同一化することと同じである。そういう読み方もあるのだし、心秘かに/心ならずもそのような読み方をしてきた人々がいつの時代にもいたに違いない。気づいていなかった。ドストエフスキーの『悪霊』はそのことを背後に負うており、あるいはそこに鎮魂の企てを見るべきなのかもしれない。

 2週間後、今度はA山B子さんがこんなふうに言ったとしよう。

 「いろいろあって疲れてしまって・・・私はもう、A山B子をやめたいと思うんです。これ以上、彼女に迷惑をかけることはできませんから。」

 顔色が変わるのを、たぶん抑えきれはしないことだろう。それはいけない、あなたは勘違いしている、あなたこそがA山B子なのであって他の誰でもありはしない、出ていくことなどできないし正しいことでもない、だってあなたがA山B子なのだから・・・かきくどくように懸命に伝えるに違いない。

 真にこの世には、さまざまな苦悩がある。「病理」とはそのことの別名に他ならない。

Ω


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