2016年10月26日(水)
そうか、だから「出血性疾患の女性」の物語は、「百人隊長の僕」の物語と呼応するのだ。異邦人である百人隊長はイエスを自宅に招くことが許されておらず、構わず訪れようとするイエスを押しとどめて「言葉だけで十分」と言ったのである。直接のコンタクトを禁じられていた点で、女と百人隊長は共通する位置に立っている。
似たような癒やしの物語が設定を変えながら延々と繰り返されるのが、子供の頃から不思議だった。似たようであっても同じではなかったのだ。女、異邦人、ハンセン病患者、精神障害者、いわゆる疎外状況に置かれた人々を一括してではなく個別に取り上げ、どの一つも誰一人も恵みから漏れはしないことを丁寧に証ししていくのが、福音書の筆法なのだ。
残念ながらマルコ福音書には百人隊長の物語が含まれていない。福音書が一つではなく複数書かれねばならなかった理由も、ここに明らかである。
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さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
(マタイによる福音書 8:5-13)
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