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散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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修論審査(続き)/スタンドオフ/才能について

2014-01-12 22:05:25 | 日記
2014年1月12日(日)

 修論審査は無事終了。運不運、本人の能力、志の水準、置かれた環境、指導者との相性、もろもろの変量が作用して出来不出来はあるものの、修論提出まで頑張り抜いた人々は、ある種のハードルを確かに越えたと感じさせる何かが一様に備わっている。そのことに対する修士号の授与とするなら、今日はこれで申し分ない。

 研究室へ戻ると、しばらくの静謐の後に人がわらわらと集まる気配あり、やがてフロアで珍しいようなお祭り騒ぎが始まった。O先生の「一家」が厳しい指導を耐え抜いた喜び全開に、鳴り物入りのパーティーである。さぞや解放感のあることだろう。
 しばらく雑務を片づけて帰宅。大河ドラマに、家人が録画してくれた大学ラグビーと、久々テレビっ子で過ごす。帝京5連覇は見事だが、「連覇」の意味合いがたぶん往時と変わっており、1982-84年の同志社大三連覇と比較の意味があるかどうか。
 変わったといえば、スタンドオフ(SO)というポジションのあり方が近年激変したんだね。スクラムハーフ(SH)と二人で一体のハーフ団、フィフティーンの司令塔にして心臓部。ラグビー選手には例外的(バレーボールのセッターのよう)に小柄なSHからボールを供給され、多彩なキックとバックスへの展開など、オプションを駆使してゲームを作っていくのがSO。地元出身の巨人達の潜在力を見事に引き出し新日鉄釜石を七連覇に導いた、明大出身の天才・松尾を格好の象徴として、ラグビーと言えばSOという図式が僕などにはあったが。
 帝京大のSO中村亮土が、前夜のNHKテレビ「スゴすぎ」のコーナーで紹介されたらしい。まるでマンガみたいな逆三角の筋肉標本でパワフルかつ俊敏、「司令塔」というより驚異的な突破力で自ら前進し得点する、何でもこれが最近の世界的なトレンドなんだそうだ。
 今日の試合では中村がセンター(バックス)に入り、1年生の松田がSOをつとめたが(これなども昔ならば考えられない、フォワードやバックスの駒を入れ替えるならともかく、アタマのSOを大事な一戦で入れ替えるというのは)、この松田がまた中村ばりの攻撃的なプレーで。
 そういえば花園決勝の東海大仰星・桐蔭学園戦でも、SOがハーフとしてハイライトを浴びる場面が少なかったな。SOというポジションの意義が、確かに大きく変わったのだ。

 こじつけのようだけれど、僕にはこれが最近の世界的な囲碁の流れに重なって見える。じっくりした布石から本格的な戦闘を経てヨセで締めくくる、古風で奥ゆかしい起承転結は今は流行らない。いきなり戦いが始まり、それが盤全体に波及して、戦いの終わりは碁の終わりというのが現在の世界標準。
 新しい流れを素直に楽しめば良いのだろうが、ちょっと待ったと頭の片隅で頑固オヤジが口をへの字に結んでいる。
 古くっちゃあ、いけませんか。

***

 才能って、何だろう。
 何につけても飲み込みがよく、何でもできてしまうので、人から重宝に使われたり、自分でもいろいろなことに手を出したりし、それで悔いを残すことがある。(業績のことを言ってるのではない。)
 何をやってもヘタクソで我流に落ち、ものにならないので、自分でもいろいろ手を出すことは諦め一穴主義で通す。それが幸いすることもあり、災いすることもある。
 何を言ってるのかって?
 何を言ってるんだろう?
 たぶん、あのことかな。

修論審査/日も月も同胞(はらから)

2014-01-12 08:33:55 | 日記
2014年1月12日(日)

 修論審査、年間スケジュールの中でいちばん朝が早い。
 未明の道を離れ家から戻ってくると、歩く人に何人も出会って驚いた。皆、早起きだなあ。
 次第に明ける街は、まるで別の惑星のように見える。以前ある学生が口にした表現である。
 別の惑星、どこだろう?

***

 この惑星のこの地域は、のどかな連休中日。午前7時過ぎの電車内には、試合に出かけるらしい中高生の大小の群れがちらほら見える。新木場からの京葉線は、いつも通りディズニーランド派と幕張メッセ派、ときどき僕のような休日出勤組。
 海浜公園の空気が冷たく緑色に澄みわたり、その上で太陽が気持ちよさそうに輝いている。

 『ブラザー・サン シスター・ムーン』は1972年の伊・英合作映画。御存じ、フランコ・ゼフィレッリの監督作品。邦題は英語の "Brother Sun, Sister Moon" そのまま。イタリア語では "Fratello Sole, Sorella Luna" というんだそうだ。Sole と Sorella が頭韻を結んで、弾むような語感がある。
 アッシジのフランチェスコの生涯を描いたものだが、「宗教映画的説教臭さを薄め、万人にも見やすい内容に仕上がっている」と Wiki の御託宣。何をもって「宗教臭い」というか知らないが、アレック・ギネス扮する教皇インノケンティウス3世謁見の場面は、相当「宗教的に」考えさせる内容を含んでいたし、全編通して考えることはたくさんあった。あれを非宗教的に見られるというのがおめでたい。
 「キリストの清貧」という単純な主張が、西方教会史上最大の革命思想を可能性として秘めていたことは、『薔薇の名前』の背景として活写されたところでもある。

 今はそのことではなくて。
 太陽を「父」と崇め「母」と慕うことは自然である。天照大神もその一型だ。しかし、これを「兄弟」と呼んで親しむことは、視座の決定的な転換があって初めて可能になる。太陽の向こうに太陽をすら創造した超・超越的な存在をイメージし、その存在の前には太陽と人との「天と地ほどの」隔たりも誤差範囲にまで矮小化され、被造物として両者一括される、そのような視座の転換である。それが旧約の啓示の意味なのだ。
 妙な言葉遣いだけれど、太陽信仰はいわば physical な信仰、対する超越的な創造主への信仰は metaphysical な信仰、いわばそういうことである。

 fratello sole, sorella luna

 ここにあるのは驚くべき思想。単なる naturalism (自然への回帰)などではない。