散日拾遺

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年の初めの健康問題/ガルシア=マルケスの不思議

2014-01-20 21:40:34 | 日記
2014年1月20日(月)

 今日は自分の健康を手当てする日。中年と青年の違いは、健康維持に金と手間暇かけることが常態であるかないかに依るのかもな。昨年暮れから医者通いの連続で、受診カードばっかりむやみに増えて財布がごろごろしている。現実を否応なく突きつけられつつ、健康保険制度のありがたさを人並みに感じるのでもある。

 診療は午後だが、受付に時間のかかることを見込んで、午前中遅めに出かける。大寒、晴天無風で昨日よりはよほど快適だが、夜から冷えるらしい。
 新宿駅のホームから線路に雪を見た。停車している「あずさ」の車輪脇、信州から屋根に積まれてきた雪の名残が、ここで滑り落ちたものか。

 信濃路に幸降り積むや融けざるや

 

 母校の付属病院をことさら選んだわけではない、この件に関してはA先生がイチオシと推薦があったからだ。よく似た経緯から母をI先生につないだ20年近く前のことを思い出す。僕がここに勤めたのはさらに数年前のことで、その後に全面改築されたうえ仲間もあらかた大学を出たから、橋の向こうに屹立する高層ビルを見上げてアウェイ感が胸中を浸している。
 受付で当院受診歴を訊かれ「ずっと前に・・・」と答えると、彼女のキーボード操作に応じてPCが即座に答えを返した。
 「そうですね、かなり前ですね、カルテをあらためて作成します。」
 「いつ頃でしたか?」
 「昭和です、昭和63年。」
 そうか、そうだったよな、研修医二年目だ。整形外科で手術三回受け、終診まで小一年かかったっけ。

 受付は意外にすんなりと、20分ほどで通過。1時間半の空き時間ができた。
 そんなこともあろうかと、ヒマに読む本を出がけに選ぼうとして、手が伸びたのは『予告された殺人の記録』(ガルシア=マルケス)。何度も読み返した好みの作品だが、電車に乗ってから、さて何でだろうと考えた。実話に取材したものだそうだが、その事件というのは凄惨で野蛮な救いのない事件である。それなのにどうしてだろう、喜劇的なほど痛ましいいちいちの場面が活写されるにつれ、苦悩の庭の片隅に置き去られたような人々が、一様にほんのりと燐光を放って見えるのは。
 注視され書きとめられた犬死には、既に犬死にであることを止めているようだ。こういう営みに強く憧れる。良き文学が「生きるための実学」に他ならぬ所以である。

 とりあえず、ここまででいいかな。
 A先生はとても丁寧に診てくださったが、今日は作業の開始に過ぎない。三月末の検査を予約し(そこまで空きがないのだ)、採血を受けて本日終了。大病院としてはスムーズに流れているのだろうが、各ステップに時間がかかるので、病院を出たのは午後3時前。あの頃よりはスタッフがずいぶん愛想良く親切になった。
 そうでなければウソだけれど。

 僕は本当に機械音痴で、ただ受付の順番をプリントしてよこすだけの装置の前で立ち往生する。帰りは会計の機械に何度お札を押し込んでも受けとってくれないので、泣こうか怒ろうかと絶望的な気持ちになり、よく見たら小銭を入れるでっかい洞穴に一万円札を押し込もうとしているのだった。
 病院玄関の向かい側で、日に焼けた男が「放射能汚染地域で遺棄された犬やネコの救援」を張りのあるテノールで訴えている。何気なく通り過ぎようとして、朝、反対方向に通り過ぎたときも、彼は同じ調子で同じことを訴えていたのを思い出した。このところ毎週、木曜日に見かけているような気がする。
 驚くべきことだが、何に驚こうか、彼の熱意か、声の良さか、体力か、それとも至極まっとうに見えながら、どこか怪しげな行動の真の狙いを忖度すべきか、駅に向かいながら考え込んだことだった。