自己満足的電脳空間

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日本で初めて交流戦を提唱した永田雅一氏(東京オリオンズオーナー)と光の球場

2018-06-17 00:05:00 | 野球、その他スポーツの話
2004年のプロ野球再編問題をきっかけに、2005年から開催されているセ・パ交流戦。今年も5月29日から本日6月17日までの日程で開催された(実際は雨天中止による代替試合が組まれたため6月20日まで実施)。

プロ野球再編問題で離れたファンを呼び戻すために開始した交流戦は当初はホーム・アンド・アウェー各3試合ずつの6回総当り(1チーム36試合)で開催されていたが、2007年から24試合(ホームとビジターを2回ずつ)に削減、2015年からは交流戦の試合数が対戦カードごとにどちらか一方のホームスタジアムでの3回戦総当たりの18試合(対戦カードごとにホームとビジターを2年単位で入れ替え)と、ファンの意向を無視して縮小させているのは愚の骨頂。

とは言え、かねてからパ・リーグが交流戦の実施を提案し続けながらも多額のテレビ放映権収入を見込めていた巨人戦の試合数が減少するとしてセ・リーグがそれを拒否するという状況が続いていた時期を考えれば、10年以上に渡って継続して開催されていることはありがたいが、やはり36試合のままでよかった。間延びするために削減したというのなら18試合ずつの2期に分けて開催すればいい。



さて、NPBファンとして今まで知らなかった事自体、恥ずかしい限りだが驚くことにその交流戦を50年以上前から提案していた人物がいたらしい。先日、この記事を読んで初めて知った。以下はその記事を引用。

約50年前、交流戦を日本で最初に提案した永田雅一


東京・永田雅一オーナー(左)中央は山崎裕之


2004年、近鉄とオリックスの合併、さらには1リーグ制移行寸前まで進んだ球界再編問題の後、05年からスタートしたセ・パの交流戦。メジャー・リーグではストライキによるファン離れから1997年にインターリーグが誕生している。それ以前にも導入が叫ばれながら、すべて立ち消えとなったが、要は、既存の常識を崩すのは、大きな危機感しかないという好例かもしれない。

日本で「交流試合」をいち早く提唱した球団オーナーは東京(現千葉ロッテ)の永田雅一オーナーだ。しかも、発表が1967年だったというから驚く。

1967年10月21日、巨人-阪急の日本シリーズ第1戦が行われた日の夜に開かれたオーナー会議で、東京の永田オーナーが記者団を集めた。永田ラッパ(派手なことばかり言っていた)が、また何を言い出すのか、と集まった記者団に配られたのは、真ん中に「新提案」とゴシック体の活字で刷りこまれ、左下には「公式戦には両リーグチームの交流」、右肩には「昭和四十三年度試合に対する」と印刷されているパンフレットだったという。

パンフレットを配った永田オーナーが語ったのがセ・パ交流試合の提案だった。そのパンフレットは以下の文面から始まる。

「わが国プロ野球の現状は、全球団の一、二を除いては、その経営面から見て、誠に憂うべき状態であります。かかる状態が今後も続くと、先に伝わった1リーグ還元論が再びとなえられ、十数年前に逆戻りすることになります。

われわれは今日まで、幾多の辛酸をなめ、日本プロ野球発展のために数多く尊い犠牲を払って2リーグ制を確立しました。この際、もとの1リーグ制に還元するのは実に遺憾のきわみであり、絶対に行ってはならないことと思っています」

永田会長の私案によると、各球団はそれぞれ136試合を行い、引き分け再試合は中止にしない。そして従来の1リーグ内だけの公式戦は100試合とし、残りの36試合は、両チームの交流試合とする、というものだった。

交流試合は6月から7月末のオールスター前の約2カ月で消化。そのうち18試合ずつをフランチャイズ球場で行う。つまり1球団は、他リーグのチームと各6試合ずつ(うち3試合はホームゲーム)を行う。オールスター戦後は、開幕時と同じ同一リーグ内の試合日程を組み、同一リーグ、交流戦とも公式戦として認める、というものである。

交流戦自体は永田のオリジナルではなく、3年ほど前、メジャーのコミッショナー、フリック氏が提案したことがある。ただ、このときは話題にもならなかった。

この永田私案に他球団もおおむね賛成。「永田提案は日の目を見る可能性が高い」と当時の『週刊ベースボール』に書かれていた。

何よりこの案を実現へ向かわせているのは、巨人が原則として賛成の線を打ち出したことだ。「プロ野球がマンネリ化している現在、交流試合案はじゅうぶんに検討する余地がある。新しい方向を見つけるためには、現状を打破する必要がある。巨人としてはプロ野球百年の繁栄が、そのまま巨人の繁栄に結び付くものだと考えている」と正力亨オーナー。

ただ、実際には読売新聞の拡張のためでもあった。大きいのは、九州での西鉄戦だ。読売は九州で九州読売を発行し、この新聞を拡張するためにも、地元で巨人の試合があるのが望ましかった。

なお、この交流試合案は結局、立ち消えとなっている。巨人戦が減ると収益が減るため巨人以外のセ・リーグ5球団が反対したためと言われている。


永田雅一氏は、大映の社長にしてフィクサー。良くも悪くも独裁者。ワンマン経営で大言壮語な語り口から「永田ラッパ」と揶揄され、そのワンマンぶりは試合や球団編成にも現れ、試合中の監督に電話をかけて采配に口を挟むといった現場介入も多く、現場からは疎まれ非難されたが、この人ほど野球を愛した人はいなかったというのも事実。

有名な話では、球団と球場は一体的に運営すべきという信念を掲げて、当時後楽園球場をレンタルして本拠地としていた大映毎日オリオンズのために私財を投じて東京都荒川区南千住の千住製絨所跡地に先駆的なプロ野球専用球場『東京スタジアム』を1962年に建設。東京スタジアムには後楽園球場よりも明るい照明が設置され、二層式のスタンドやスロープを備える革新的な球場だった。







「光の球場」としてファンに愛された。

オレが初めてその「光の球場」が過去に存在していたことをはっきりと認識したのは1992年週刊少年ジャップ誌上で発表された「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の「光の球場!の巻」(集英社ジャンプコミックス82巻掲載)を読んでからである。






球団経営悪化によりスタジアムも1972年に閉鎖、1977年に取り壊された(写真は1974年)


東京スタジアムの跡地は南千住野球場・荒川総合スポーツセンターになっている(写真は1989年)





また永田雅一氏は「チーム名から企業名を外す」という理想があり、1964年に毎日大映オリオンズは東京オリオンズに改名。これは永田雅一氏の「企業がプロ球団を持っているのは、本当のプロとは言えない」「球団単体で黒字経営してこその野球興行」という持論から来るものであり、赤字を親会社が簡単に補填できる状態では球団経営に本気で取り組むことができないという考えがあったからである。

『野球専用球場設置』『球団と球場の一体運営』『チーム名から企業名を外す』…これらはプロ野球球団として実行することが当然ではあるのだが、残念ながらこれらを実行できた球団は数少ない(現在、完全ではないにしろ実行できている球団は広島ぐらいか…)。80年以上の歴史を有するNPBが…情けない…。しかし、短期間とは言え、それらを50年以上も前に完璧に実行した永田雅一氏の実績は光り輝いている。その偉大なる功績に対し、我々は強い敬意を持つべきで、新たな野球ファンに語り継ぐべきでもある。

そして、その時期に既に交流戦実施を提言していたとは…この人の先見の明は驚愕である。しかし、彼が球界に現れるのは早すぎた。彼の理想を具現化するには、まだ時代が追いついていなかった。

現代ではスタンダートな彼の理想ではあるが、当時ではそれがうまく経営とのシナジー効果が発生させることができず、球団の経営状況は悪化。成績も1961年以降7年連続Bクラスと低迷。彼が建てた東京スタジアムの自慢の照明が照らすのは、ガラガラのスタンド…。さらに時代はテレビ放送が娯楽の主役となっていき、映画の人気は急激に下落。永田雅一氏の大映もワンマンな放漫経営の弊害もあり窮地に追い込まれる。球団の経営難、斜陽産業となった映画、そこに球場維持費が重なり、彼の理想は脆くも崩れ去っていく。

打開策として1969年にロッテと業務提携を結び、球団名をロッテ・オリオンズへと改称(但し、これは球団の売却ではなくあくまで業務提携であり、ネーミングライツに近い形だった)。翌1970年、息を吹き返したロッテ・オリオンズはついに10年ぶりのリーグ優勝を果たす。優勝を決めた場所は東京スタジアム。彼は「自ら作った球場で再びの優勝」という夢を実現した。優勝が決まった瞬間、グランドになだれ込んだファンは、監督や選手より先に永田雅一氏を胴上げ。

賛否の分かれるオーナーだったが、永田氏の野球への情熱、オリオンズへの愛情をファンはしっかりと感じ取っていたのだ。

しかしその歓喜の瞬間からわずか3か月後の1971年1月、大映の経営再建に専念するため、球団を正式にロッテへ譲渡。無念のうちに球界を去ることになった。

1985年、79歳で永眠。1988年、野球殿堂入り。誰よりもオリオンズを野球を愛した永田雅一氏は、誰よりもファンから愛されたオーナーであり、誰よりも先見の明があった偉人であった。約50年前に永田氏が「交流戦」を提唱したという記事を目にしたことにより、改めて彼の先見の明、偉大さを認識した。


※当記事のテーマとは異なりますが、東京スタジアム以外の球場も時々言及しています。


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2 Comments

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昭和の山師か…… (ケータイブロガー銭形K)
2018-06-17 05:46:51
私も伝説や伝聞でしか知らないですが、昭和高度成長期の山師的な実業家……、ビジネスマンって言葉が似合わないですねw 二十一世紀の日本には間違っても現れないタイプ。相当オモロイ人だったんでしょうね。


今の時代なら三木谷とかホリエモン?
それはイヤだなあwww
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これぞ、昭和の経営者? (野球好きな2児のパパ。)
2018-06-17 22:05:45
今はコンプライアンスがあーだこーだとうるさいから、こーゆータイプの人が球団経営するってありえないでしょうねぇ~。三木谷さんは独善的なところはありますけど経営に関しては収益が出るようにハンドリングしていますがから合理的に運営しているイメージ。一方永田さんは赤字だろうがなんだろうが愛するオリオンズのために、感情的に運営していたようなイメージ。とはいえ球団名を「東京オリオンズ」に変更した際は今で言う地元密着を押し出したわけでなく、複数東京を本拠地にする球団がある仲、オリオンズだけ東京を名乗るメリットがあると考えての変更だったので、計算して運営もしていたのでしょうが。まぁ、でも、野球をオリオンズを愛する気持ちは本物だったと思います。それだけで敬意に値する方です。少なくても私にとっては。
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