入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

個人、動物、そして民族の「たましい」(3)

2006-03-31 23:08:53 | 霊学って?
このブログには、結局、かなり難解なことを書いている。

特に、この「個人、動物、そして民族のたましい」というテーマは、文章も長いし、内容も複雑だし、もし読んでくださっている方があるとしたら、それだけでありがたい。

文章が難解になってしまっているのは、内容が僕自身のなかでまだ未消化だからだ。それでも、今、一番言いたいことを書いている。そして、今回は、自分にとって非常に大切な部分を書くことになる。
それだけに、道筋が整理されていないことにもお構いなしに、自分の頭の中にあることを記していこうと思っている。
だから、他の人々にとって理解し難いのは当然である。
もし以下の文章を読んでくださる方がいたら、難解に思えるのは僕自身の考えが未整理であるからなので、ただ流し読みして、全体の印象をつかまえていただければと思う。(これは僕の他の文章についても言えることだが・・・。)

では・・・。
これまで、「たましい」ということをめぐって書いてきたが、今回は、現代という時代に対して、シュタイナー思想がどのような意味を持っているのか、私見を述べたいと思う。

前回は、地球上のすべての存在は「意志」においてつながっている、と書いた。
そして、生物は、この「存在への意志」を自分の内に取り込んで、独自に生成・発展していく。生物には、「個別の意志」があるのだ。
しかし、植物や動物の場合、この「個別の意志」は、一つひとつの個体というよりも、むしろ「種」という集合体によって担われているようだ。進化の過程では、一つの種のなかで、環境への適応や突然変異といった変化が起こる。
そこでは、一つひとつの個体の意志は、より大きな「種」という全体の意志に組み込まれているような観がある。もちろん、そこからの「逸脱」もあるわけだが。

人間の場合はどうだろうか?
人間の「種」、つまり人種という概念は、ナチスの時代に強調された。
今日でも、人種や民族の違いによる差別や対立が、依然としてさまざまな葛藤を生んでいる。
シュタイナーは、人間の場合は、一人ひとりの個人が一つの「種」に相当すると述べている。つまり、シュタイナー思想では、個人の意志が飲み込まれてしまうようなより大きな「全体の意志」は、本来は存在しないはずなのである。
しかし、それでも現実には、民族の意志、国家の意志、集団の意志を感じさせるさまざまな状況がある。

オリンピックやサッカー、野球などで、異なる国のチームが戦うとき、そこでは明らかに民族や国家の違いによって、人々の心は高揚している。
実際に、民族や国家に、固有の「意志」があるのだろうか?

僕は、そこでは「意志」というよりも、「感情」と「ことば」が大きな役割を果たしていると思う。
前回も書いたように、「ことば」は「感情」によって発生し、感情を思考へともたらす働きをする。
しかし、感情が思考へと至らなければ、感情は人々を分断するだけである。
なぜなら、感情とは「内と外」を分け、内面性や個別性を生み出す作用を持っているからである。

感情や感覚によって、動物も人間も、固有の内面生活をもつ。
そのとき、個体の内面を集団へ広げるのが「ことば」の働きである。
大概の動物が、言語に近いコミュニケーション手段を持っている。イルカのコミュニケーションは有名だが、多くの動物が、たとえば外敵が近づいたときに仲間に警告するための音声を持っている。
そうしたコミュニケーション手段は、同じ種のなかで通用する。

人間の言語も、民族や共同体によって異なる。
少数民族は、固有の言語を守ることで、自分たちのアイデンティティーを守ろうとする。
同じ言語を共有することによって、民族や共同体への帰属意識が生じるということはあるだろう。

また、民族に限らず、IT業界とか、広告業界とか、芸能界といったいわゆる「業界」にも、「ジャーゴン」と呼ばれる共通言語がある。ジャーゴンというのは、特殊な言葉遣いを共有することで、自分たちが同じ共同体に属していることを内外に知らしめる作用がある。

そうやって「ことば」を通して、何らかの集団意識が生まれるとき、その集団がもっている「意志」も意識されるようになる。
そして、集団として、他の集団に対する敵対心や、排他的な感情が生じることもある。それは、「ことば」というものが、感情に対応していることから来ている。

そのような集団意識は、感情と、それを媒介する「ことば」を有しているという点で、一つの「たましい」であると言えるだろう。

スポーツのチームも、政治の派閥も、企業も、民族や国家も、あらゆるグループは、そのような「たましい」を持つことになる。

しかし、その「たましい」は、人間のたましいとは違って、思考にまで至っていないことが多い。
思考に至らなければ、集団で行動する動物の群れの意識に近い作用が、人間の集団の「たましい」に働くことになる。
いや正確には、動物のたましいとは違う。なぜなら、動物の集団は、それぞれの「種」の英知に満ちた「意志」によって導かれているからである。思考に至っていない人間の集団は、その時々の気分や感情によって、いとも簡単に一つの方向に押し流される。
そういった集団は、まだ自分たちの本当の「意志」を把握できていないのである。

シュタイナーは、民族問題について語ったとき、「民族魂」という言い方をした。それは、多くの民族のたましいが、まだ、思考に至っていないからだろう。
民族のたましいが、思考に至ったとき、初めて「民族霊」という言い方が可能になる。

以前、「霊とは私のことである」と書いた。
ここでは、「霊とは、自覚された意志のことである」と言いたい。あるいは、「《私》とは、自覚された意志のことである」と。

人間は、考えることによって、「自分はこの人生で何を成し遂げたいのか?」「自分はどこから来て、どこへ向かおうとしているのか?」を明らかにしようとする。
そこでは、なかなか答えは得られないが、それでも自分の「たましい」の奥底に潜んでいる意志を明らかにしようと努め、人生の局面、局面で、自分が進みたい方向を選択する。それが「私」の作用なのである。

動物たちは、いわばひとつの「集合魂」を共有している。その「たましい」を、それぞれの種の「霊」が外から導いている。その種に属する動物たちの全体的な意志が、それぞれの個体の生成・発展を「内」から支えるとともに、全体の「種」としての進化の方向を「外」から定めているのである。

それに対して、人間の場合は、一人ひとりが人生における生成・発展だけではなく、いわゆる輪廻転生というかたちで、「進化」そのものの担い手となる。
ただし、ここで強調しておきたいのは、シュタイナーのいう「進化」は、決して「より高まる」ことではない、ということだ。進化には、高い低い、優劣は関係ない。あくまでも自分自身の潜在的な「個別の意志」を十全に展開することが、進化の意味なのである。(英語でも、ドイツ語でも、「進化」ということばは「内から外へと開いていくこと」「展開すること」を意味する。)

さて、人間は、いやおうなく集団のなかに生まれる。民族、国家、地域社会、そして家族も、ひとつの集団である。そこには、共有される言語や習慣といったものがある。
シュタイナーは、そうした集団の「たましい」を否定するわけではない。
しかし、集団の「たましい」は、感情の次元から思考の次元へと至らなければならない。そのとき初めて、その集団が本来持っている「意志」が明確になるのである。

シュタイナーは、第1次世界大戦の直前に行った『民族魂の使命』という講演のなかで、「民族のたましいの課題は、民族としての自己認識である」と語った。これは一見、民族意識の高揚を狙った発言のようにも受け取られるが、ここでの主体はあくまでも「特定の民族の中に生まれた一人ひとりの個人の意識」である。

ある国家のなかのマジョリティを占める民族に生まれた個人もいれば、マイノリティに生まれた個人もいる。自分の民族の言語を母語とする人もいれば、自分の民族の言語ではなく、その国家の共通語を母語として育つ人もいる。「民族の問題」は、一人ひとりにとってまったく個別の問題である。
シュタイナーが促したのは、一人ひとりが自分の民族との関係において、自分自身を問い直すことである。
一人ひとりのそのような意識的な作業によって、感情や気分に押し流されていた「民族魂」は「民族霊」へと変容していく。
民族霊は、一人ひとりが自分の個別の意志を抑圧したり、「全体」のなかに組み入れることによってではなく、自分らしく生きることによって初めて、覚醒する。

「民族霊」と呼ぶにふさわしい「意志」は、他の民族を抑圧したり、自己の成員である個人の意志を抑圧することはないだろう。
また、血縁や土地にこだわることもないだろう。シュタイナーは、「未来における民族は、もはや血ではなく、カルマによって成り立つものとなるだろう」と述べている。
ここでの「カルマ」とは、運命とか、めぐりあわせと言い換えてもいいだろう。つまり、自分が出合った民族、その文化に共感を感じた民族に、自分の意志で帰属することも可能になるだろう、ということだ。

そのように、一人ひとりの個別の「私」が自由に生きることによってこそ、現在、地球上のさまざまな地域で紛争や対立にからめとられている諸民族は、それぞれの固有の文化の中に秘めた本来の可能性を発揮することができるだろう。

そして、ここで述べたことは、大小さまざまなグループにも当てはまる。人々が出会い、共同で何かに取り組むとき、そこには「共有の意志」を働かせる大きな可能性が生じる。それは個人がひとりで行うのとは違う、新しい可能性である。
そのグループの中の一人ひとりが、本当に自分自身の個別の意志を働かせようと努めることで、そのグループの全体の意志も生きてくる。

反対に、個人が自分の意志を「全体の意志」のために抑圧するような状態では、その集団の「たましい」は、感情のレベルにとどまるだろう。お互いに気を遣い、同じ気分の中に浸りながら、画一的な色合いが支配していく。そして、何かのきっかけで、一斉に同じ方向に集団で押し流されていく・・・。

ここで、危険なのは、感情だけからなる集団の「たましい」は、何らかの「意志」や「意図」によって乗っ取られることがある、ということだ。
そういうときは、必ずと言っていいほど人々の「不安」や「恐怖心」を利用する。つまりは、「感情」を刺激するのである。
そのとき、その民族や国家や集団は、本来の意志とは別に、個々人の意志を飲み込みながら、一つの方向へと操られていく。

それを防ぐ手立ては唯一つ、自分自身を生きるということ、自分の個別の意志を働かせていくということだ。(そして、自分を生きることは、考えること、知ることと直結している。)
それは、民族や国家や社会や、その他の共同体を無視することではない。
一人ひとりが真に生きることによってこそ、その個人を取り巻く社会は生きてくる。なぜなら、たましいの深みにおいて、すべての意志はつながっているからである。

ここにおいて、シュタイナー思想はもっとも有効な道具、もしくは武器を提供している、と僕は思っている。

個人、動物、そして民族の「たましい」(2)

2006-03-30 20:32:54 | 霊学って?
シュタイナー思想では、思考、感情、意志をひっくるめて「人間のたましい」と呼ぶ、と書いた。

『愛の礎石』と「人間のたましい」
この「人間のたましい」が、シュタイナー思想の核心といってよいと思う。

なぜなら、シュタイナーは晩年、死に至るまでのもっとも濃縮した1年半の活動を開始する前に、『愛の礎石』というマントラ(瞑想のことば)を唱えたのだが、このことばは「人間のたましいよ!」という呼びかけから始まるからである。

なぜ単に「たましいよ!」ではなく、「人間のたましいよ!」なのか?
それは、今回のテーマでもあるが、この「たましい」は、人間だけではなく、動物や、そして民族のような集団にも見られるものだからである。

人間のたましいは、暗い衝動やエネルギーとしてみなぎる「意志」の領域から、自分の心の動きとして意識できる「感情」の領域、そして明確なことばで捉えられる「思考」の領域にまで及んでいる。

「感情」はどこにあるのか?
以前、「感情」に対応するものとして「ことば」を挙げた。

人間の身体のなかで、もっとも「感情」が集中的に感じられるのは胸の辺りだろう。
確かに、「むかっ腹が立つ」とか、「頭にくる」といった表現もある。
でも、「腹が立つ」というのは、まさに「意志」の領域から怒りとして突き上げてくるものが、「胸」の領域に向かってくるように感じられる。
そして、「頭に来る」のは、本来は「胸」の領域にあるものが、「頭にまで来てしまった」ということではないだろうか?

いずれにしても、「感情の座」というものがあるとすれば、それは頭や腹や手足ではなく、「胸」にあるのではないか。

胸には呼吸器があり、心臓がある。
緊張すれば、呼吸が浅くなったり、心臓の鼓動が速くなったりする。
不安や恐怖で、心臓が縮み上がることもある。
喜びで体中があたたかくなると感じることがあるが、そのとき体中をめぐる血液は、まさに心臓を通っているのである。

そのように、人間は自分の状態を心臓と呼吸を通して感じ取るのではないだろうか?
そのとき、僕たちは「ことば」をもちいて、自分を捉えようとする。
自分が漠然と感じていることをことばにすることで、まだ暗がりの中にある自分の意志や感情を思考によって明らかにする。

「感情」を「ことば」で表現する意味
だから、「ことば」は「感情」から始まる。

「悲しい」「いらいらする」「うれしい」といった感情をことばにすることで、「なぜ悲しいのか?」「なぜいらいらするのか?」「この幸福感はどこから来ているのか?」というように、感情の背後にある理由を探ることができる。

感情が意識できず、ことばもなければ、人間は自分自身を知ることはできないだろう。

この「知る」ということに至るのが、「人間のたましい」の特徴である。
人間の感情は、自分自身だけではなく、自分の周囲の「世界」にも向かう。
このときは、「感情」というより、「感覚」といったほうが正確かもしれない。

「感情」と「感覚」の違い
ドイツ語では、感情も感覚も、同じ「ゲフュール」とか「エンプフィンドゥンク」ということばで言い表している。どちらも、「感じる」ことである。

日本語の「感情」は、自分との関係で何かを感じ取ることだし、「感覚」は、感じることそれ自体だといえるだろう。
ある花を見たり、触ったり、香りを嗅いだりするときは、その花に対して「感覚」を働かせていることになる。
その花を「美しい」と感じたり、感触や匂いを「好ましい」とか「不快だ」と感じるときは、自分との関係における「感情」が働いていることになる。

シュタイナー思想の翻訳では、この感覚と感情の違いが明確になっていない場合があるので、注意が必要である。

しかし、感情もまた、自分の状態に対する「感覚」であることには違いがない。それは身体の状態であったり、自分の個別の「意志」の反応かもしれない。
何かに遭遇したとき、それが自分にとって好ましいものであれば「好感」や「心地よさ」を感じるし、自分の生存を脅かすものであれば「不安」や「恐怖」を感じる。

つまり、感情は、自分の状態の変化を「感覚」しているのである。

だから、シュタイナーにとっては、自分の感覚や感情こそが、「認識の道具」なのである。自分の感覚を研ぎ澄まし、そこで自分が感じ取るものを思考で明らかにしていくこと。それがシュタイナー思想の「認識」の基本である。

すべての存在をつなぐ「意志」について
これと同じことを、以前に、次のような言い方で述べた。

「内と外」という考え方に触れたときのことである。
自分の「外」にあるものを丁寧に観察し(つまり感覚を働かせ)、そのとき自分の「内」に生じるものに注意を向けることが、シュタイナー思想の基本なのだ、と。

なぜ、それが「認識」につながるのか?
自分の「内」に生じるのは、あくまでも「自分のもの」であって、外なる世界を認識することにはならないのではないか?

前回、すべてのものが「意志」をもっていると書いた。
鉱物も、植物も、動物も、この世界に存在するすべてのものが「存在への意志」を持っている。
その意志を自分の内に取り込んで、独自に生成・発展するのが生物である。

べつの言い方をすれば、この世界にあるすべてのものは「存在への意志」を共有している。
イメージで語るなら、こういうことになるだろう。
もし人間が自分の「たましい」の内へ深く、深く沈潜していけば、暗い「意志の領域」の中で、他のすべての存在の「意志」に触れることができる・・・。

シュタイナーにとっての「認識」とは?
人間は、自分以外の存在に向き合い、それに対して感覚を働かせることで、その存在と「意志の領域」においてつながるのである。

そのとき、その存在がもっている「個別の意志」が、人間の「内」に浮かび上がる。その存在が、鉱物であれ、植物であれ、動物であれ、あるいは自分以外の人間であれ、その存在がどのようなものになろうとする「個別の意志」を持っているのかが、ぼんやりと感じられる。
その感覚を、人間はことばで言い表していく。自分が感じ取ったものにふさわしい名前をつけ、その特徴を表現する。そして、その存在の本質(個別の意志)に近づこうとする。

シュタイナーにとって、真の「認識」とは、一つひとつの事物の個別の意志を捉えること、つまり、その事物が何を目指しているのかを把握することだった。

そして、シュタイナーは、古代ギリシャの神殿に刻まれていたという「汝自身を認識せよ」ということばを大切にしていた。
人間に与えられたもっとも重要な課題は、自分自身を認識する、ということなのだ。

「自己認識」は「生きること」
ただし、この「自己認識」は、ただ知識をもつことではない。

「人間が自分自身を認識する」とは、「自分自身を生きる」ということなのだ。

ここでは、「知る」が、「生きる」につながっている。

人間の「個別の意志」は、人生という時間の流れの中でしか現れてこない。
一人ひとりの「個別の意志」、もしくは「自分らしさ」や「個性」といったものは、ことばで定義することはできない。

一生をかけて迷い、右往左往し、自問自答を繰り返しながら、その時々で進むべき道を選びとり、ひたすら生きていく。
そしてある時点で、ふと自分がこれまで生きてきた軌跡をふりかえるとき、そこに「自分はどのような人間で、どのようなことを目指して生きてきたのか」がぼんやりと見えてくる。

「生きる」ことなしに、人間の自己認識はありえない。
そして、生きることと、知ることを結びつけるのが、一人ひとりの「感情」であり、「ことば」なのである。

人間と他の生物との関係
このことは、ある程度は、他の生物にも当てはまる。

先に、生物は、「存在への意志を自分の中に取り込んで、独自に生成・発展する」と書いた。

生命とは、基本的に、時間の流れのなかで、生成、変化、発展するものである。
生物の全体像を捉えようとすれば、どうしても時間を考慮に入れなければならない。

植物は、「存在への意志」を自分の内に取り込み、独自の生を展開するという意味で、ある程度は「たましい」をもっていると言えるかもしれない。

しかし、シュタイナー思想でいう「たましい」とは、感情や感覚が基本である。
なぜなら、感情や感覚によって、個体の内面が確立するからである。

植物は、一般に、一つの場所にとどまりつづける。
同じ場所で、芽を出し、葉を広げ、花を咲かせる。
しかし、「たましい」によって、個体は動きはじめる。

感覚の喜びを求めて、あるいは恐怖や不安に駆られて、動物は動きまわる。
その原動力は、内面に生じてくる感覚や感情である。

「ことば」をもつ人間の責任
しかし、植物や動物には、「ことば」がない。

自分の「個別の意志」が何を目指しているのか、いま感じていることを「ことば」にして自分自身で捉えることも、他者に伝えることもできない。

生まれて間もない赤ちゃんは、自分の状態を「ことば」で伝えることができず、泣き声や音声、全身の動きによって表現することしかできない。
母親ないし父親は、そのような赤ちゃんを感じ取り、ことばにならないことばを聞き取り、赤ちゃんの「個別の意志」がいま必要としていることを与えようとする。
それが親の責任であろう。

同じように、地球上の植物も、動物も、自分がいま必要としていることを「ことば」で伝えることはできない。
自分の「個別の意志」が実現されるために、どのような条件が必要なのか、いまどのような危機に瀕しているのか。それを感じ取り、ことばにして把握し、生態系が持続・発展できるために必要なことを行うのは、「ことば」をもった人間の責任である。

そのとき前提となるのが、人間は、他の存在と「存在への意志」においてつながっているという認識である。

人間は、鉱物や無機物と「存在への意志」を共有している。
人間は、植物と「存在への意志」と「個別化された意志」(生命)を共有している。
人間は、動物と「存在への意志」と「個別化された意志」(生命)と、そして「たましい」(感覚と感情)を共有している。
人間は、他の人々と「存在への意志」と「個別化された意志」(生命)と「たましい」(感覚と感情)と、そして「ことば」(思考)を共有している。

そして、人間の場合は、意志と思考と感情を合わせて、「人間のたましい」と呼ぶのである。

人間は、「ことば」をもたない他の地球上のモノたちが、それぞれ何を目指して存在しているのか、そこに働いている「個別の意志」を感じ取り、認識しようとする。
しかし、それは同時に、自分自身の「意志」を認識することにもつながるのだ。なぜなら、「意志」においてすべてはつながっているからである。

子どもたちが、学校で「世界」について学ぶのも、同じ理由からである。
自分が生きている「世界」に存在する一つひとつの事柄を知っていくことは、自分自身の意志を強めるのである。

「動物のたましい」と人間
僕自身は今、「動物のたましい」について意識的に考える必要を感じている。

人間と動物の間に、優劣や「高い/低い」の差はない。
唯一の違いは、動物が「ことば」を持っていないことである。

シュタイナー思想ではよく、「人間は病気や苦しみを通して成長するが、動物は変化しない」ということを言う。
しかし、動物と人間の関係においては、人間が「ことば」を委ねられているのだ。

動物たちがどこへ向かって進もうとしているのか、それを「ことば」で認識するのは、人間の仕事である。
人間との関係の中で、動物たちはいかようにも変化するのではないか?
最近の鳥インフルエンザや狂牛病といった問題は、人間と動物との関係、そして人間自身の責任を改めて突きつけているように思えるのである。

次回は、すべてにつながる普遍的な「意志」と、一人ひとりの「個別の意志」の違いを、「たましい」との関連でさらに見ていきたいと思う。(つづく)

☆ちなみに、今日はルドルフ・シュタイナーの命日である(1925年3月30日)。

個人、動物、そして民族の「たましい」(1)

2006-03-29 23:58:44 | 霊学って?
これまで、思考、感情、意志について書いてきた。

この三つのなかで、一番よく分からないのが、「意志」だと思う。
というか、シュタイナー思想のなかで「意志」と呼ばれているものが分かりにくいのだ。

ふつう「意志」といえば、それは何かを成し遂げようとする明確な心持ちのことである。
だから、「意志をしっかり持って」とか「強い意志」などというときは、もちろん自分が「何を欲しているか」「何を目指しているか」ははっきり分かっているはずである。

ところが、シュタイナー思想で「意志」というとき、それはもっと暗くて、つかみどころのない力やエネルギーといったものだ。
よく「暗い衝動」とか、「心の闇」とか言うが、それがシュタイナーのいう「意志」の領域である。

この「意志」は、人間だけではなく、動物や植物、さらには鉱物など、この世界に存在するすべてのもののなかに働いている。
それは「この世界に存在しようとする意欲」なのである。
そして、この存在への意欲を自分自身の内に取り込み、自分で生成・発展するのが生物である。

鉱物などの無機物は、存在への意欲によって生み出されたものではあるが、その意欲は常に「外」にある。そして、外からの作用によって変化する。
植物、動物、人間は、この意欲を「生命力」として、自分の内に持っているのである。

植物は植物になろうとする意志を持ち、動物は動物になろうとする意志を持っている。そして、人間も人間になろうとする意志を持っている。
だから、たとえば一個の受精卵が分裂を繰り返すことによって、いくつもの臓器や器官を形成し、人間の身体という全体をつくりあげることになるのだ。
その際、遺伝子は、意志でない。人間になろうとする意志が、遺伝子という全体の設計図に沿って、自分自身をつくりあげるのである。

さて、この「意志」には、植物、動物、人間になろうとする一般的な意志だけでなく、一回限りの「個体」になろうとする個別の意志もある。

人間の場合、この個別の意志によって、さまざまな才能や能力、職業、人々との出会いなどに導かれていく。だから、この個別の意志を「運命」と呼ぶこともある。

一人ひとりの「個別の意志」を実現していくことが、「自分らしさ」を生きることでもある。

しかし、この一人ひとりの「個別の意志」は、なかなか見極めることがむずかしい。

自分がこの人生で何をやりたいのか、はっきりした目的意識をもっている人はそんなに多くはないだろう。
僕自身もそうなのだが、「自分がほんとうに何をやりたいのか、よくわからない」という人は結構、多いのではないだろうか。
意志そのものは、ほとんど無意識的なものなのだ。

しかし、自分ではわからなくても、その意志は明らかに働いていて、表面の意識を揺り動かしたり、苦しめたりする。
「このような生き方は、自分が願っていたものではない」とか、「僕は自分を偽っているのではないか」という思いが、何度も浮上してくるのである。

意識の表面に浮上してくるとき、それは「感情」というかたちをとる。
切迫感とか、不安とか、むなしさとか・・・。
そのような言い知れない感情に出くわしたとき、僕たちはそれを何とか「ことば」で捉え、それがどこから来ているのかを考えようとする。

自分が何に引っかかっていたのか、それを思考で捉えられれば、暗い「意志の領域」から、感情をへて、思考の次元にまで引き上げたことになる。自分の意志に、明るい光が当てられる。
そのとき、自分の人生を突き動かしている「個別の意志」を、動機や目的として、意識的に捉えなおすことになる。

だから、ふつうに「意志」と言ったときは、思考と感情によって貫かれた「意志」ということになる。

自分の「個別の意志」を見極める手がかりは、感情である。
感情は分かりやすい。
心がざわめいたり、いらいらしたり、怒りや悲しみで胸が締め付けられたり、喜びで温かくなったり・・・。

自分は、何をしているとき、いちばん喜びを感じているだろうか?
それが分かれば、一人ひとり異なる「個別の意志」を捉えることができる。
反対に、そんな感情(とくに自分の個別の意志に逆行する生き方をしているために浮上する怒りや悲しみなど)を封じ込めてしまうと、それは「暗がり」に追いやられる。つまりは、「意志」の領域に追いやられて、いつしか攻撃的もしくは暴力的な衝動となって噴き出したりする。

これは、すべての人が抱える複雑な問題であろう。
これは「たましい」の問題なのだ。
シュタイナー思想では、思考、感情、意志をひっくるめて「人間のたましい(魂)」と呼んでいる。

たましいというのは、もっとも人間的な部分であり、一生、個人につきまとうものだ。

次には、人間がこの「たましい」を動物とも共有しているという話を書きたいと思っている。(つづく)

人間と動物の運命

2006-03-28 23:56:53 | 日々の雑感
一人ひとりの人間には、固有の能力や才能、可能性がある。
動物にも、さまざまな潜在能力があって、そこには個体差がある。
猫にしても、犬にしても、ブタにしても、その他さまざまな動物にしても、人間との触れ合いの中で、驚くような個性を発揮する。

人間には、一生をかけて開花させるような可能性がある。たとえば、幼くして生命を失ったときなど、もし生きていれば、その人はどのような花を咲かせたのだろうかと惜しまれる。

それでは、動物はどうだろうか?
今、多くの動物たちが、殺されている。
その一匹、一羽、一頭が、もし殺されずに生き延びていたとしたら、そこにどのような個別の生が展開されたのだろうか?
その個体が生き続けた場合と、殺されてしまった場合とでは、霊的に見て、どのような違いがあるのか?

これは、僕が今考えているテーマのひとつである。



シュタイナーの身体観(3)

2006-03-27 23:56:54 | 霊学って?
人間の三つの大きな特徴として、直立歩行、言語、思考を取り上げてきた。
今回は、三番目の「思考」(考えること)を中心に見ていきたい。

アントロポゾフィー(人智学)は、まず目に見えるものを丁寧に観察し、そこから「目に見えないもの」(つまり「霊的」なもの)を読み解いていく。

人間の「考え」は、目には見えない。
他の人々が何を考えているのかは、外からは分からない。
以前、「内」と「外」という観点を紹介したが、「考え」というものは、まさに人間の「内」に生じるものである。

思考は目に見えないのに、「人間は考える存在である」ことを誰も疑わない。
それは、ひとつには「自分が考えている」ことが実感できるからだろう。
そして、もうひとつには、他の人々が、からだを動かしたり、ことばをしゃべったり、絵を描いたりする「活動」の中に、何らかの考えが表現されていることを感じるからだろう。

たとえば、幼い子どもが絵を描いているところを見ると、クレヨンなどでらくがきを始めたばかりの幼児は、最初は形にならない、グシャグシャした線を描いていたりする。それが次第に丸とか、四角とか、はしごのような形をなしてくる。そして、やがては木とか、お母さんやお父さんの「顔」とか、「おうち」を描くようになるのである。

そのように「顔」とか「家」などの具体的なモノを描くようになった子どもは、絵を描きだす前に、「きょうは、おうちの絵を描く」と言って、初めから「目的」を持っていたりする。それが「考え」なのだ。
実際に出来上がった絵を見ても、その子どもが何を描きたくて描いたのか、その考えが現れている。

ところで、「考え」とまぎらわしいのが、感情である。
感情もやはり、目にはみえない。
しかし、人間は自分自身の「内」に怒りや悲しみや喜びを感じたことがあるから、他の人の感情も読み取ることができる。
絵の中には、その絵を描いた人の「考え」だけではなく、感情も表現されている。

「考え」と「感情」の違いって、何だろうか?
たぶん、それは「自分」との関わりだと思う。
感情は、いつも「私」が当事者である。
怒っていたり、悲しんでいたり、喜んでいたりするのは、いつも「私」である。
だから、感情は、「思考」よりも、ずっと切実なのだ。

思考は、誰にとっても同じである。
太陽は、東から昇って西に沈むとか、
1+1は2であるといったことは、
私が怒っていようが、悲しんでいようが、変わることがない。

でも、太陽は東から昇って西に沈む、というのは、目にはみえない「考え」である。
というのも、かりに朝8時に、家の外に出て、太陽を見上げてみても、そこに見える太陽は、まぶしかったり、暖かったりするかもしれないが、決して「東から昇って西に沈む」なんていう姿をしているわけではない。

「太陽は東から昇って西に沈む」というのは、太陽の動きを何日かかけて観察したうえで読み取った「考え」なのである。

数も目にはみえない。
数を「考える」ことができるのは、人間だけだ。
サルは、2本のバナナとか、3個のオレンジといったことは把握できるが、
2本のバナナと3個のオレンジを足すと5になる、という「5」という数は捉えられないという。
目に見える世界に存在するのは、バナナとか、オレンジとかいう具体的なモノであって、「数」そのものはどこにも存在しない。
「数」は、人間が考えることによって読み取ることしかできない。

感情も目にみえない。
目にみえない他人の感情を読み取るには、自分の感情を働かす必要がある。
痛みを感じたことがある人だけが、他人の痛みを感じ取ることができる。

ところで、「シュタイナーの身体観(1)」で、こんなことを書いた。
幼い子どもが立ち上がるところを観察しながら、それを観察している自分の「内」にどのような感情や思いが生じてくるのかに注意を向ける。すると、そこに生じてくる思いは、たとえば「創造への意志」とでもいえるようなものではないか、と。

もしそのようなことが感じられるとすれば、それは、幼い子どもが初めて立ち上がろうとするときに働いている衝動(意欲や意志といったもの)が、それを見ている大人の中にも働いているからである。

立ち上がろうとする力、手足を動かす力を、かりに「意志」と呼ぶとしよう。

もともと目には見えない「考え」や「感情」が、人間の行為によって目に見えるものになるのは、「意志」の働きがあるからだ。

怒りや悲しみや喜びを表現するために絵を描くためには、手で絵筆を取らなければならない。
何らかの目的を実現するために事業を起こすためにも、人と話し合い、足で歩くなど、からだを動かさなければならない。
自分の感情や考えをことばで言い表すためにも、口を開いて、音声を発するという行為が必要である。

そうした身体の行為があったとき、そこから「目的」(考え)や「感情」という目に見えないものを読み取ることが可能になる。

そのようにして、人間は、目にみえない「内」なるものを、意志の力で「外」に表出し、目に見えるものに変えているのだ。

幼い子どもは、まず「立ち上がること」(直立歩行)を獲得することによって、目にみえない感情や思考を表現するための基盤をつくる。

その基盤のうえに「言語」(ことば)が獲得される。ことばによって、まずは感情が表現される。

そして、言語という基盤のうえに、「思考」が発達する。

そのように、幼い子どもが段階を追って獲得していく「人間の三つの大きな特徴」(直立歩行、言語、思考)は、それを「内」から見ようと試みることで、人間が存在することの大きな意味を示すようになる。

人間は、この目に見える物質世界に、目に見えない感情や思考を実現していく。そして、目にみえる世界から、そこに働いている目にみえないものを読み取っていく。そのすべての基盤が、幼児期に築かれるのである。

以上、シュタイナーの身体観を理解するための前提として、人間の三つの大きな特徴である「直立歩行」「言語」「思考」を手がかりに、それらが人間の心の働きである「意志」「感情」「思考」の基盤であることを明らかにしようと試みた。

シュタイナー思想では、人間の「私」の働きとして、思考、感情、意志を重要視している。
これらの働きは、身体を基盤に生じているのである。(つづく)

シュタイナー医学の通訳

2006-03-26 23:55:27 | 日々の雑感
鹿児島に帰ってきた。

飛行機が、霧でなかなか着陸できず、場合によっては福岡空港へ行くかもという機長のアナウンスに驚かされたが、霧が薄くなって戻ることができた。

疲れで、頭がボーっとしている。

今日は通訳をした。
アントロポゾフィー医学の通訳で、たまたま僕が東京にいて、その講演会に参加させてほしいとお願いしたら、通訳を担当されることになっていた方が体調不良で、僕が引き受けることになった。

準備もできず、講師の人柄も事前に知らないまま、講演の通訳を始めることになった。
話を訳しながら、だんだんにその人の考え方や、感じ方を探っていった。

四つの臓器、肺、肝臓、腎臓、心臓と、精神疾患の関係について。

それぞれの臓器の特徴を語ったうえで、その機能に問題が生じたとき、心の働きにどのような症状が現れるのかを示していく。

その基本となるのが、これらの四つの臓器と地、水、風、火という四元素との対応であり、さらには炭素、酸素、窒素、水素との対応。

講師の人柄によって、これらの問題がどのように語られていくのか、それが通訳をしていて興味深かった。

これについては、また書いてみたい。

那須と祖母と祖父と・・・シュタイナーが目指した社会

2006-03-25 23:42:28 | 日々の雑感
今日は、那須へ行ってきた。
母がやっている幼稚園の理事会に出席するためだ。
この幼稚園は、祖母が建てたものだった。

幼稚園に向かう那須街道をタクシーで通りながら、祖母のことを思い出していた。
那須街道の両側に続く赤松林は、僕が子どもの頃からあった。
当時、幼稚園はまだなく、2万坪もあるという広大な敷地に、ぽつんと(子どもの僕にはそのように見えた)祖母が建てた小さな家が建っていた。

当時は、まだ大学に勤めていた、もしくは辞めたばかりであった父と、母と、妹とこの家に泊まり、近くの畑からトウモロコシをもいできたのを思い出した。
確か夏休みで、父は一日中、推理小説やSF小説を読み、僕は頭が痛くなったり、目が痛くなったり、風をひいたりしていた。
近くの小学校を見学に行ったこともある。おそらく当時の父母は、那須に移住することを真剣に考えていて、子どもたちが通う学校を下見したかったのだろう。
ということは、父はもう大学を辞めた後で、祖母がつくろうという幼稚園を引き受けるかどうかを考えていたのかもしれない。

夕方、赤い空に激しい稲妻が光ったのを鮮明に覚えている。

祖母は幼稚園の初代園長となり、それを母が引き継いだ。そして、この幼稚園は、日本で最初に「シュタイナー」を掲げた園のひとつとなった。

幼稚園の園庭のとなりの「タイヤ遊園」には、祖父の銅像が立っている。
祖父は、代々木学院という予備校をつくった。大学受験のための予備校の、いわば先駆けとなった人である。

以前、祖父の遺稿集を読んだとき、彼が「大学への門戸をできるだけ多くの若者に開く」ために予備校の設立を思い立った、ということを知った。
彼の文章には、国家や、天皇への熱い思いが垣間見られる。

今日の理事会では、母が、祖母は「報国」ということを大事にしていた、と語った。

僕の中で、先日、父と向き合っていたときの思いが、ふたたびよみがえってくる。
僕たちが研究し、実践しようとしているシュタイナー思想は、この国の歴史とどのようにかかわっているのか?

僕は、祖父や祖母は、ただ単に「お国」を振りかざしていたとは思わない。
シュタイナー思想でいえば、「国」もしくは「国家」は、法律の領域である。本来の国家は、民族や血筋とはまったく関係がない。そこで目指される理想は、「法のもとにおける万人の平等」である。
だから、祖父が、できるだけ多くの若者に大学教育の機会を与えようと努力したことは、彼の「国への思い」と合致する。

実際、祖父は、戦後の混乱期に、2級建築士の免許をとり、破損した家を安く買い取っては、自分で修繕して少し高く売り、そうやって自分の願いである学校建設の資金をつくったという。後から、その時期のことを「教育者としては恥ずかしいアルバイトの期間」として、あまり語りたがらなかったらしいが、「国」に仕えようとする思いのために、それだけの努力を払っていたことを知って、僕はむしろ誇らしく思ったものだ。

その熱い思いを「報国」ということばや、「天皇」に託すことは、いわば個人の「自由の領域」に属する。
祖父は、自分の思いを他人に押し付ける人ではなかった。

シュタイナーは、社会のなかに三つの領域を明確に区別していた。
万人の「平等」を法律によって保障するのは、国家(行政)の仕事である。
一人ひとりの個人の「自由」は、教育や文化活動などの「精神生活」のなかに働いていなければならない。
そして、経済とは、人々が社会の中でお互いを認め合い、それぞれの個性に基づく活動を支えあう「友愛」の原理によって動くものでなければならない。

もちろん、これは理想であって、そこに至る道はまだまだ遠いのかもしれない。
けれども、これらの三つの原理を混同しないことは、僕たちの日常生活にとっても有益だろう。

今日では、経済活動が「自由」の原理で動くことが当然とされている。
「平等」を基盤とすべき役人の仕事が、特定の政治家や企業への「友愛」(偏愛)によって歪められている。
本来は多様性があってしかるべき教育・文化の「精神生活」の領域には、自由ではなく、「出る杭は打たれる」とか、個人の内面に干渉してまで全員に同じ理念を強要するといった、間違った平等の原理が働いている。

特に、シュタイナー思想に基づいて活動しようとしている僕たちは、たえずこの三つの原理を自分の身近な現実にひきつけて、問い直していくことが必要だと思う。

シュタイナーのいう「経済の友愛」は、豊かな人が貧しい人にお金を恵むことではない。友愛とは、お互いの異なる立場を認め合うということだ。(ただ単に「許容」するとか、勝手にさせておくということではない。おたがいがどういう人たちで、どういう状況にあるのかを、いわば客観的に認識するということである。)

しかし、何より大事なのは、一人ひとりが精神的に自立していて(つまりシュタイナーのいう意味で「自由」であり)、社会や共同体のなかに「平等」の原理が保障されているということだ。
それがあって初めて、「経済の友愛」という原理が働くことができる。
それなしには、一人の豊かな人に全員が寄りかかったり、一人の力強い指導者が全員を引っ張り、牛耳ったり、あるいは皆が「自由」に自分の責任において考え、発言し、行動すべきところなのに、「平等」であろうとしてお互いに譲り合い、自己を抑圧して身動きがとれなくなる、といった事態が生じるだけだろう。

僕の祖父や祖母が思っていた「報国」は、決して「国の名のもとに個人の自由を抑圧すること」などではなく、一人ひとりが「自分らしく」生きられる社会をつくることではなかったのかと思う。
なぜなら、シュタイナーがいうように、個々人が自分が本当に好きなことを見出し、自分らしく生きられることこそが「社会にとっての資本」であり、国家とは、一人ひとりが自分らしく生きることを「平等」に保障するものだからである。

今日は、久々に訪れた那須の地で、祖母への思いから、そんなことを改めて思った。

シュタイナーの身体観(2)

2006-03-24 23:53:02 | 霊学って?
人間を「外」から見たとき、①直立姿勢で歩くこと、②ことばを話すこと、③考えること、という三つの大きな特徴が見えてくる。

前回は、こうした「人間らしさの特徴」を「内」から見ることができる、ということを書いた。

そして、幼い子どもが「立ち上がる」という現象を見つめているとき、それを見ている私自身の「内」に生じてくる思いを、たとえば「創造への意志」ということばで表現できるのではないか、と述べた。

今回は、人が「ことば」を語るということについて、見ていきたい。

まず、ことばを「外」から見てみよう。
すると、たとえば、人間の身体には肺や気管などの呼吸器、声帯を始めとする「発声器官」があって、そういう身体器官があるからこそ、「話す」という活動が成り立っている、ということが見えてくる。

それでは、「内」から見た場合は、どうだるうか?
子どもに限らず、誰かがしゃべっているところを観察しつつ、そのように観察している自分自身の「内に」生じてくる感情や思いに注目するのである。

僕自身の「内」には、次のような思いが浮かんでくる。

たとえば、自分自身の喉の辺りがむずむずして、相手が言っていることばを繰り返したくなる自分に気づく。
「ことば」には、それを聞いている側にも、発話を呼び起こす力があるようだ。

また、こんなことも思う。
以前、『子ども時代の権利』という小冊子シリーズの中の『テレビと《ことば》の発達』という号を訳していて知ったのだが、人が語りかけるとき、それを聞いている相手の身体はきわめて微細な振動をおこしているという。これはスピーカーなどの機械の音声ではおこらない現象だそうだ。

赤ちゃんが初めて発する音声は、息を吐き出すときの空気の音である。それに唾がからまって、ルルルルというような音声になる。それが次第に、「ブーブー」とか、「ワンワン」とか、「ママ」とか「パパ」といった単語になり、やがてひとつの「文」にまで発達していくわけだ。

つまり、「ことば」は、空気を吸ったり、吐いたりすることから始まる。赤ちゃんが「呼吸」しているからこそ、発声が可能になる。

語りかけることは、自分の考えや感情を息(空気)に乗せて、相手に伝えるということだ。

そして、相手のことばに耳を傾けることは、相手が吐き出した「息」を吸い込むことに似ている。「あうんの呼吸」などというけれど、語り、聞くという関係の基本は、呼吸なのだ。

そして、もし僕が感じたように、人がしゃべっているところをじっと見ているうちに、自分の内からことばが出てくるとすれば、それは「聞く」ことが「息を吸う」ことと同じであり、いったん吸い込んだ息を、こんどは「私の息」として吐き出そうとする欲求が出てくるからだろう。

よく「作品に魂を吹き込む」というが、ギリシャ語で「霊」を意味するプネウマということばは、息吹という意味でもあるらしい。ことばを語り合うことによって、人は「霊」を呼吸していると言えるのかもしれない。

僕がいちばん神秘的に感じるのは、幼い子どもがことばを習得するなかで、「私」ということば(一人称)を発する瞬間が訪れるということだ。
つまり、それまでは周囲の大人たちに呼びかけられるままに、自分のことを「~ちゃん」「~くん」と言っていた子どもが、あるとき急に、「ボク」とか「わたし」というようになる。

前に、「霊とは私のことである」と書いた。
身近な大人に語りかけられる中で、子どもの中に「私」という意識が目覚めていく。こういうことが可能なのは、大人が幼い子どもに語りかけることばの中に、その人の「私」があるからではないのか。その人の「私」の息吹に触れるからこそ、子どもの「私」の息吹も引き出されるのではないか。

このように見てくると、ことばの基盤は「感じる」ことにあるようだ。

相手のことばに耳を傾けることは、その人の存在を感じようとすることだ。相手を感じたとき、その相手に対して、自分は何を語りたいのかが感じられ、ことばが出てくる。

また、沈黙している相手にひたすら耳を傾けることで、その人の中から、ことばを引き出すこともできるだろう。
ただし、これはその人に無理に語らせるということではない。むしろ、その人自身は語らなくても、耳を傾けている者自身の「内」から、その人の思いがことばとなって湧き起こるということもある。

さらには、自分自身に耳を傾けること、自分自身に対して感覚を働かせることも重要である。
自分自身が感じている痛みや悲しみを自分で感じようとしない限り、本当に語るべき「私のことば」が出てこない、というとはありうるのだ。

そのように、「ことば」を「内」から見ようとしたとき、そこには人間の「感情」や「感覚」が、まるで「呼吸」のようなものとして感じられるのではないだろうか。

人々がお互いのことばに耳を傾け、語り合うとき、さまざまな思いや感情が、そして「私」そのものが、呼吸とともに行き交っている。そんなイメージが見えてくる。(つづく)

父との再会

2006-03-23 23:54:26 | 日々の雑感
久しぶりに父と会うために、町田に行った。

喫茶店で、やや緊張しつつ父を待ちながら、僕は考えていた。
この町田に最後に来たのは、いつだったろうか?

日本人智学協会という組織を父が立ち上げたばかりの約20年前、僕は頻繁にここに来ていた。協会のあり方について話し合い、それをサポートするための「世話人会」というのがあって、僕はそれに参加していた。
話し合いは、いつも夜中まで続き、同じ横浜方面の仲間にクルマで送ってもらうとき、父が外に出てきて、僕らを見送ってくれる。なんだか歴史の生成に関与しているような、何か重要な仕事をしているような感じがしたものだ。
あの頃、僕は父の力になりたいとすごく思っていた。

その後、いろんな人が離れていき、僕も遠ざかった。父は自分の歩みを続けていた。僕も自分なりに道を模索した。
ちょうど、今日、届いたばかりの「ダス・ゲーテアヌム」という週刊誌を読んだところだった。スイスのアントロポゾフィー(人智学)協会が発行している会報である。会員への通信のところに、協会の理事会に対して起こされた二つの裁判とその判決、その後の理事会の動きを不服とする人々が、4月の総会と特別総会に提出した「動議」の内容が詳しく紹介されていた。

なんという不信感と怒りがこれらの人々の間に渦巻いていることか。ある人は、理事がいくらの給料をもらっているのか、裁判の費用がいくらについたのかを公開せよと迫る。ある人は、支部やグループの代表の集まりに対して、理事会がそこに招待する人と招待しない人を選別したことは、スイスの社団法人法にも、アントロポゾフィーの精神にも反すると訴える等々。
これらの人たちは、もし理事会が自分たちの動議を取り上げなければ、法的手段に訴えるという。そこで、理事会は争いを避けるために、彼らの動議の内容を会報で紹介し、特別総会を開くことにした。

これらの人たちが問題にしていることを、僕もかつては真剣に論じた。シュタイナーは、アントロポゾフィー協会をどのような組織にしようとしたのか? そこから僕は、シュタイナーの画期的な組織論や社会論の一端を垣間見ることができた。

しかし、今、これらの人々の剥き出しの怒りに触れたとき、彼らはいったい何と戦おうとしているのだろうかと思う。悲しい、行き場のない感情だけが伝わってくる。

僕は、父が最近読んだ小説について聞き、父と母がまだ一緒だった頃の話を聞き、父が体験した母方の祖父母の人柄について聞いた。それから、自分が読んだ「ダス・ゲーテアヌム」の記事の話をした。

そして、心の中で、なぜかやたらと戦争のことを思っていた。父は、戦争の時代を生きた人だ。今日、僕が会った別の人は、陸軍にいた。その人は、戦争には反対だ、憲法も教育基本法も変えるべきではない、と言っていた。

僕が、父から聞きたいのは、戦争のことなのかもしれない。シュタイナー思想と、父が十代の少年として体験した戦争とは、彼のなかでどのようにつながっているのか、あるいはいないのか。

僕が今、アントロポゾフィー協会について思うのはただひとつ、シュタイナーにとっての「協会」は「社会」そのものだったということ。シュタイナーが「協会」のあり方として願ったこと、目指したことを真剣に受け止めようとするなら、僕たちは「社会」そのものを見る必要がある(ドイツ語では、協会も、社会も、同じ「ゲゼルシャフト」ということばである)。

まだうまく言い表せないが、今日は、何かを感じた日だった。
いつか改めて、この感覚をことばにして捉えなおしてみたい。
(上の写真は、町田の喫茶店でお店の人に撮ってもらったものです。)

シュタイナーの身体観(1)

2006-03-22 23:50:09 | 霊学って?
シュタイナー思想の基本は、「からだ」をどう見るか、ということだ。

霊とか、自由とか、教育とか・・・、シュタイナーはどこか浮ついた、人を煙に巻くような話をしているように見えるかもしれないが、実は、すごく具体的である。自分の身体、それも目にみえる身体が、すべての出発点なのだ。

シュタイナーには、『アントロポゾフィー(人智学)断章』という書きかけの著作がある。それはおもに人間の感覚を論じた本なのだが、そこでシュタイナーは、アントロポゾフィーは、「目に見える」次元から出発して、そこに現れている「目に見えない」力の作用を探るのだ、と述べている。

シュタイナー思想では、エーテル体(生命体)とか、アストラル体(感覚体)といった「目に見えない体」を扱う。けれども、初めから、「エーテル体やアストラル体というものがありまして・・・」と決めつけるわけではない。目に見える身体を観察して、そこに現れている現象を読み解くなかで、「目に見えない体」に行き着くということだ。

たとえば、人間を外から眺めてみよう。いろいろな特徴が目につくだろうが、他の動物と較べても、三つのはっきりとした特徴を挙げることができるだろう。
第一は、「直立歩行」である。背骨をもつ動物たちの多くは、その背骨を地面に平行にして移動する。背骨を地面に垂直にして、直立歩行するのは、人間とサルたちだけである。

第二の特徴は、「ことば」である。サルやイルカなどが、言語的なコミュニケーションをもっているとしても、「ことば」を使って恋愛小説を書いたり、難解な議論を繰り広げたりするのは、人間だけだ。

第三の特徴は、「考える」ということである。身近なネコやイヌといった動物たちも、いろいろなことを感じ、考えているように見えることがあるが、「人は何のために生きているのか?」とか、「私はどこから来て、どこへ行くのだろうか?」などということをあれこれ考えるのは、人間だけだろう。
 
この直立歩行、言語(ことば)、思考という三つの特徴が、人間を見たときにもっともはっきりした特徴として目につくことには、異論を唱える人はそれほどいないだろう。

シュタイナーの身体観、もしくは人間観を理解するうえで、まず押さえておくべきところが、この直立歩行、言語、思考ということである。

それでは、人間が直立姿勢で歩き、ことばを話し、考える生き物であるとして、この三つの活動はどこから来るのだろうか?

それを考える前に、シュタイナー思想のもうひとつの基本的な観点である、「内と外」という見方を説明しておきたい。

ここでいう「内」とは、内面のことである。心とか、魂とか、精神と呼ばれるもの。人が自分の「内」に感じるものだ。
それに対して、「外」とは、人間が、眼や耳や皮膚の触覚といった感覚器官を通して、自分の外に知覚するものである。

シュタイナーにとって大事なのは、この「内」と「外」がつながっているという観点である。なぜそれが大事かといえば、現代文明は、もっぱら「外」からの視点によって発達してきたからだ。人間を理解しようとして、身体を解剖し、細部へ細部へと分け入っていく。しかし、たとえ人体の内臓を取り出したところで、それは本当の「内」ではない。どこまで行っても、「外」から見ていることには変わりないのだ。
 
そこで、「内」から見ることが重要になる。すべてのものは、外からだけでなく、内からも見ることができる。そして、内から見たとき初めて、本質が見えてくる。

しかし、先にも述べたように、出発点はあくまでも「外」からの視点である。見たり、聞いたり、触ったりできるもの、つまり感覚で捉えられるものを丁寧に観察することが必要なのだ。そのうえで、外からのまなざしを「内」に転換する。それがアントロポゾフィーのものの見方である。

そのような「外」と「内」という観点から、人間の三つの特徴である直立歩行、言語、思考を見たとしたら、どうなるだろうか?

この三つの特徴が、いちばんはっきり現れるのが「子ども時代」である。はいはいしていた赤ちゃんがおすわりするようになり、やがて立ち上がる。それはすべての親が目撃する最初の大きなドラマのひとつであろう。

それでは、この「外」からも眼でみることができる「立ち上がる」という現象を、「内」から見るというのは、どういうことになるだろうか?

それは具体的にいえば、実際に幼い子どもが立ち上がる場面を丁寧に観察しながら、そのとき自分の内面に立ち現れる考えや感情に気をつけるということだ。
たとえば、こんな思いが生じてくるかもしれない。

人間は、立ち上がることによって両手が自由になる。他の四足歩行をしている動物たちとは違って、人間は手が発達し、器用にものをつかみ、鉛筆を握り、キーボードをたたくことができるようになる。人類が始まって以来、人間がこの地上に創り出してきた善きものも、悪しきものも、すべては、人間が立ち上がり、手を使うことによって可能になった。

人間が「立ち上がる」ことを「内」から見つめたとき、そこに「創造への意志」が見えてくる、ということがあるのではないか。

ただし、このように書いていると、単に理屈を言っているだけに聞こえるかもしれないが、重要なのは、実際にあるがままの現実を観察しつつ、自分自身の感情や思考をも一種の「内なる感覚器官」としてもちいる、ということなのである。(つづく)