入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

アントロポゾフィー指導原理 (12)

2007-10-26 16:43:25 | 霊学って?
12.
《私》(自我)の現実性は次のようにして見出される。
アストラル体は、内的直観を通して、認識され把握された。
この内的直観をさらに育成していくのである。
そのためにはメディテーションのなかで体験された思考に
意志を浸透させる必要がある。
初め、人はこの思考に意志なきままに身を委ねている。
そうすることで、ちょうど感覚性の知覚において色彩が眼に、
音響が耳に入ってくるように、
精神的なものがこの思考のなかに入ってくる。
もし人が、このような仕方で、受動的に身を委ねることを通して
意識のなかに発生させたものを
意志行為を通して「追形成」(模像をつくる)することができるようになれば、
この意志行為のなかに
おのれの《私》(自我)の知覚が入ってくるのである。(訳・入間カイ)

12.
Die Wirklichkeit des «Ich» wird gefunden,
wenn man die innere Anschauung, durch die der Astralleib erkennend ergriffen wird,
dadurch weiter fortbildet,
daß man das erlebte Denken in der Meditation mit dem Willen durchdringt.
Man hat sich diesem Denken zuerst willenslos hingegeben.
Man hat es dadurch dazu gebracht,
daß ein Geistiges in dieses Denken eintritt,
wie die Farbe bei der sinnlichen Wahrnehmung in das Auge, der Ton in das Ohr eintritt.
Hat man sich in die Lage gebracht, dasjenige, das man auf diese Art,
durch passive Hingabe, im Bewußtsein verlebendigt hat,
durch einen Willensakt nachzubilden,
so tritt in diesen Willensakt die Wahrnehmung des eigenen «Ich» ein.
(Rudolf Steiner)


この第12項は、第9項の「アストラル体の現実」と対応しています。
第9項では、
アストラル体(感覚体)なるものが現実であること、
自分自身のなかで実際の「知覚器官」として作用していることを体験するためには、
メディテーションを通して「思考」を捉える必要があると述べられています。

通常の思考は、
外界からの感覚的な刺激によって動き出します。
しかし、いったん動き出した自分の「考え」の流れに集中し、
そこにまとわりついている一切の外界の刺激を排したとき、
ちょうど私たちの眼や耳が外界の対象物を「知覚」しているように、
自分の内面には精神的なものを「見る」ための知覚器官が存在することに気づく。
つまり、私たちは思考において、
実はすでに精神的なもの(霊的なもの)を見ていることに気づく、
とシュタイナーは述べています。

そして、そのように内的に見るということが「意識」であり、
この「意識」は、エーテル体(生命体)と物質体が抑制されたとき、
初めて発生することができます。
そのような内的に見るための知覚器官、
もしくは意識の働きを自覚したとき、
それはアストラル体(感覚体)の現実性として体験されるというのです。

そして、この12項では、
アストラル体の現実性を捉えた内的直観をさらに育成することによって、
《私》(自我)というものの現実性に到ることが示されています。
そこで重要なことは、
「意志」の働きに気づくことです。

私たちの思考もまた、
外界の色彩がおのずと眼に入り、
音響がおのずと耳に飛び込んでくるように、
外界からの刺激に対して「受動的」に反応しています。
ほとんど意志を働かせることなく、
外から刺激されるままに、次から次へと連想が展開していきます。

前項(11項)では、
外からの感覚性の知覚に対して、
自分の意志で「模像」をつくるということが述べられていました。
この12項では、
思考の模像をつくること、
つまり思考を跡づけ、「追形成」する可能性が述べられています。

たとえば、ある本を手にとり、
そこに展開されている自分とは別の人が考えたこと、
つまり自分の外にある思考を受け止めます。
次に、自分のなかでその思考を跡づけていきます。

なぜこの人はこのように考えたのだろうか、
自分はこの思考の道筋に納得してついていけるだろうか。
もしその思考の道筋を一歩一歩確認して、たどることができたなら、
今度は、その思考を自分のなかで、まるで自分が考えたことのように
再生(もしくは追形成)してみるのです。

(これは他人の思想を自分に無理に納得させて、
自分で自分を洗脳することとはまったく違います。
他人の思考でも、その考えの道筋を一歩一歩確認しながら跡づけていくと、
むしろその思想から完全に「自由」になることが実感できます。
洗脳はむしろ、本当の納得や理解なしに、
他人の思想を鵜呑みにすることによって起こります。)

この作業は、能動的な意志の働きなしにはなされません。
しかし、そのような意識的な思考との取り組みのなかで、
自分自身の《私》(自我)が、
まるで色彩や音響を知覚するように、
自分の意識のなかで知覚されることになるというのです。

この「自我」と「意志」の関係は、
アントロポゾフィーにおけるもっとも重要な認識のひとつではないかと思います。
一人ひとりの「私」は、
この世に自分という人間を表わそうとする意志なのです。

そして、この「私」はすべての人間のなかに存在するからこそ、
私は他人の考えたことをまるで自分の思考のように跡づけ、
それを追形成することができます。
そして、だからこそ、すべての人間の自己を生きようとする意志は、
限りなく絶対的で、神聖なものだということです。

4項に述べられているように、
物質体を分解から食い止め、
一人ひとりの身体を現出させているものが、
この「私」なのです。

マントラの翻訳

2007-10-25 05:05:25 | 霊学って?
ヨーロッパから戻り、
久しぶりに「アントロポゾフィー指導原理」(12)の翻訳に向かおうとしたとき、
ゲーテ自然科学研究者である森章吾さんから、
翻訳について連絡をとりたいというコメントをいただきました。
今年6月に出版した
クリストフ・ヴィーヒェルト著『シュタイナー学校は教師に何を求めるか』という本のなかの、
メディテーションのことば(マントラ)の訳語についてのご指摘でした。

P91~92のメディテーションに関して、
前後半ともに Geistiges Blicken で始まるが、
訳文は「精神のまなざし」および「精神のかがやき」と別な語になっている。
これは
1.意図的に訳し分けた
2.編集上のミス(日本語、あるいはドイツ語に誤植がある)
のどちらだろうか?
というご指摘でした。

森さんが僕の訳文を丁寧に読んでくださったことがありがたく、
自分の翻訳作業を改めて見直す、よい機会となりました。

先ほど、森さんにはお返事を差し上げたのですが、
このブログにコメントをいただいたので、関心をお持ちの方もあるだろうということ、
また、ここで取り上げている「アントロポゾフィー指導原理」も、ある意味で
メディテーションのことばとも捉えられることから、
以下に、僕の翻訳に対する考え方を少し記しておきたいと思います。

まず、森さんのご質問に対するお答えとしては、
1.意図的に訳し分けた
ということになります。

たしかに、原文では、前半と後半の冒頭で
Geistiges Blickenという同じ語が繰り返されているので、
当然、日本語でも双方に同じ訳語を当てるべきではないかという考えもあります。
僕自身もとても迷ったところでした。

関心のある方は、ぜひ本書を手にとって、
該当箇所(この章全体)を読んでいただきたいのですが、

このメディテーションはシュタイナーの人間学、
とくに教育の基礎となる『一般人間学』の内容をマントラとして凝縮させたものといえます。
本書には、シュタイナーの次のようなことばが引用されています。

「教師は人間学を受容する必要があります。
メディテーションを通して人間学を理解すること、
人間学に即して自分自身を想起することが必要です。
そのとき、自己想起は、生きいきとした生命に変わります。」(P.119)

まさに、このメディテーションのことばはそのような「自己想起」に向けて与えられたものです。

今回、森さんからのご指摘を受けて、改めてドイツ語の原文に浸ってみました。

メディテーションとしてこの原文に向かったとき、
Geistiges Blicken(霊的に見る)と
Herzliches Tasten(心性で触れる)という二つの行為に対して、
Du(汝)として、つまり「主体」として呼びかけていることが強く意識されます。

この本を訳した時点での、僕の理解では、
このメディテーションは、
「精神のまなざし」と「心の触覚」という二つの霊的主体が、
前半から後半にかけて「変容」するプロセスを表していると捉えました。

つまり、メディテーションの前半において、
このGeistiges Blickenはまだahnend (予感的)なあり方をしており、
Herzliches Tastenもherzhaftという胸の領域の温かさを感じさせる語で表現されるあり方をしていますが、
それが「人間の霊(精神)と魂(心性)は、意識のなかで
宇宙の輝きを地上の暗闇に結びつけている」という体験によって変容を遂げ、

それによって後半においては、
この二つの働きは、erblicken とertastenという
er-という何かを生み出す力を暗示させる接頭辞とともに表現されるに到ります。
そして、そのふたつの働きによって、
「人間」そのものを形成する「宇宙のかがやき」であり、
同時に私自身の「自己」であるものが「発生」ないし「成立」する。
そういう流れで受け止めたのです。

そのとき、
精神のまなざしが同時に光であること
(ちょうど「眼は太陽である」というゲーテのことばのような意味で)、
そして、見ること(考えること)は内的な光であり、
感じることは触れることであるということが、
このメディテーションのなかで生起する「変容」の手がかりとして
非常に重要であるように感じました。

つまり、この翻訳を行なった今年6月の時点では、
このマントラの後半は
Geistiges Blickenを「精神のまなざしよ」ではなく、
「精神のかがやきよ」という別のことばに置き換えることによって、
そこに「変容」が生じていることを意識化すること、
また、この「精神のまなざし」(精神のかがやき)と
その後に出てくる「宇宙のかがやき」との連なりを明確にすることが、
日本語におけるメディテーションのことばとして
よりドイツ語の働きに近づくものになると捉えたのです。

したがって、翻訳のあり方としては
当然、「精神のまなざしよ」ということばを繰り返すこともありえます。

ここではメディテーションのためのマントラの訳文として、
あえてこのような「意訳」を試みたということです。
こうした翻訳作業は、
つねにその時点での訳者の理解と体験に根ざしたものになります。
そのため、マントラの訳文には
(このブログでの「アントロポゾフィー指導原理」の訳文と同様)
できるだけつねに原文を添えるようにしています。
そうすることで、今回、森さんが気づかれたように、
原文では同じ語が使われていることなどが分かるようにしたいと思っています。

以上は、
このブログだけではなく、
本書のメディテーションの訳文と原文に当たっていただかないと
なかなかご理解いただけない内容になってしまいましたが、

今後、日本でアントロポゾフィーと取り組んでいくなかでも
重要な問題を含んでいると思います。
そのため、このブログでも、
こういう問題があることを知っていただくためにも、
あえてストレートにご紹介することにした次第です。

実のところ、もともとドイツ語で書かれた
(つまり、シュタイナーがドイツ語の中に降ろした)
メディテーションのことばに対して、
日本の人たちとともにどのようにアプローチしていくのか、という問題は、
今、僕のなかでとても大きなテーマになっています。

今回は、森さんの誠意に感謝しつつ、
この機会に、今の僕にとって大切なことを少し述べさせていただきました。

もしこのブログの文章をごらんになった方が、
この問題を意識のなかにとどめておいてくださったなら、
とてもうれしく思います。

フィンランドへ

2007-10-08 02:02:12 | ごあいさつ
ここしばらくブログを書く余裕がまったくありませんでした。
明日からは2週間ほど、フィンランド、スイス、ドイツへ行ってきます。
もし携帯が「圏外」にならなかったら、
那須みふじ幼稚園のブログに、
旅行中の簡単な記録を送信してみようと思います。
ご関心のある方は、どうぞのぞいてみてください。
それではまた。