12.
《私》(自我)の現実性は次のようにして見出される。
アストラル体は、内的直観を通して、認識され把握された。
この内的直観をさらに育成していくのである。
そのためにはメディテーションのなかで体験された思考に
意志を浸透させる必要がある。
初め、人はこの思考に意志なきままに身を委ねている。
そうすることで、ちょうど感覚性の知覚において色彩が眼に、
音響が耳に入ってくるように、
精神的なものがこの思考のなかに入ってくる。
もし人が、このような仕方で、受動的に身を委ねることを通して
意識のなかに発生させたものを
意志行為を通して「追形成」(模像をつくる)することができるようになれば、
この意志行為のなかに
おのれの《私》(自我)の知覚が入ってくるのである。(訳・入間カイ)
12.
Die Wirklichkeit des «Ich» wird gefunden,
wenn man die innere Anschauung, durch die der Astralleib erkennend ergriffen wird,
dadurch weiter fortbildet,
daß man das erlebte Denken in der Meditation mit dem Willen durchdringt.
Man hat sich diesem Denken zuerst willenslos hingegeben.
Man hat es dadurch dazu gebracht,
daß ein Geistiges in dieses Denken eintritt,
wie die Farbe bei der sinnlichen Wahrnehmung in das Auge, der Ton in das Ohr eintritt.
Hat man sich in die Lage gebracht, dasjenige, das man auf diese Art,
durch passive Hingabe, im Bewußtsein verlebendigt hat,
durch einen Willensakt nachzubilden,
so tritt in diesen Willensakt die Wahrnehmung des eigenen «Ich» ein.
(Rudolf Steiner)
この第12項は、第9項の「アストラル体の現実」と対応しています。
第9項では、
アストラル体(感覚体)なるものが現実であること、
自分自身のなかで実際の「知覚器官」として作用していることを体験するためには、
メディテーションを通して「思考」を捉える必要があると述べられています。
通常の思考は、
外界からの感覚的な刺激によって動き出します。
しかし、いったん動き出した自分の「考え」の流れに集中し、
そこにまとわりついている一切の外界の刺激を排したとき、
ちょうど私たちの眼や耳が外界の対象物を「知覚」しているように、
自分の内面には精神的なものを「見る」ための知覚器官が存在することに気づく。
つまり、私たちは思考において、
実はすでに精神的なもの(霊的なもの)を見ていることに気づく、
とシュタイナーは述べています。
そして、そのように内的に見るということが「意識」であり、
この「意識」は、エーテル体(生命体)と物質体が抑制されたとき、
初めて発生することができます。
そのような内的に見るための知覚器官、
もしくは意識の働きを自覚したとき、
それはアストラル体(感覚体)の現実性として体験されるというのです。
そして、この12項では、
アストラル体の現実性を捉えた内的直観をさらに育成することによって、
《私》(自我)というものの現実性に到ることが示されています。
そこで重要なことは、
「意志」の働きに気づくことです。
私たちの思考もまた、
外界の色彩がおのずと眼に入り、
音響がおのずと耳に飛び込んでくるように、
外界からの刺激に対して「受動的」に反応しています。
ほとんど意志を働かせることなく、
外から刺激されるままに、次から次へと連想が展開していきます。
前項(11項)では、
外からの感覚性の知覚に対して、
自分の意志で「模像」をつくるということが述べられていました。
この12項では、
思考の模像をつくること、
つまり思考を跡づけ、「追形成」する可能性が述べられています。
たとえば、ある本を手にとり、
そこに展開されている自分とは別の人が考えたこと、
つまり自分の外にある思考を受け止めます。
次に、自分のなかでその思考を跡づけていきます。
なぜこの人はこのように考えたのだろうか、
自分はこの思考の道筋に納得してついていけるだろうか。
もしその思考の道筋を一歩一歩確認して、たどることができたなら、
今度は、その思考を自分のなかで、まるで自分が考えたことのように
再生(もしくは追形成)してみるのです。
(これは他人の思想を自分に無理に納得させて、
自分で自分を洗脳することとはまったく違います。
他人の思考でも、その考えの道筋を一歩一歩確認しながら跡づけていくと、
むしろその思想から完全に「自由」になることが実感できます。
洗脳はむしろ、本当の納得や理解なしに、
他人の思想を鵜呑みにすることによって起こります。)
この作業は、能動的な意志の働きなしにはなされません。
しかし、そのような意識的な思考との取り組みのなかで、
自分自身の《私》(自我)が、
まるで色彩や音響を知覚するように、
自分の意識のなかで知覚されることになるというのです。
この「自我」と「意志」の関係は、
アントロポゾフィーにおけるもっとも重要な認識のひとつではないかと思います。
一人ひとりの「私」は、
この世に自分という人間を表わそうとする意志なのです。
そして、この「私」はすべての人間のなかに存在するからこそ、
私は他人の考えたことをまるで自分の思考のように跡づけ、
それを追形成することができます。
そして、だからこそ、すべての人間の自己を生きようとする意志は、
限りなく絶対的で、神聖なものだということです。
4項に述べられているように、
物質体を分解から食い止め、
一人ひとりの身体を現出させているものが、
この「私」なのです。
《私》(自我)の現実性は次のようにして見出される。
アストラル体は、内的直観を通して、認識され把握された。
この内的直観をさらに育成していくのである。
そのためにはメディテーションのなかで体験された思考に
意志を浸透させる必要がある。
初め、人はこの思考に意志なきままに身を委ねている。
そうすることで、ちょうど感覚性の知覚において色彩が眼に、
音響が耳に入ってくるように、
精神的なものがこの思考のなかに入ってくる。
もし人が、このような仕方で、受動的に身を委ねることを通して
意識のなかに発生させたものを
意志行為を通して「追形成」(模像をつくる)することができるようになれば、
この意志行為のなかに
おのれの《私》(自我)の知覚が入ってくるのである。(訳・入間カイ)
12.
Die Wirklichkeit des «Ich» wird gefunden,
wenn man die innere Anschauung, durch die der Astralleib erkennend ergriffen wird,
dadurch weiter fortbildet,
daß man das erlebte Denken in der Meditation mit dem Willen durchdringt.
Man hat sich diesem Denken zuerst willenslos hingegeben.
Man hat es dadurch dazu gebracht,
daß ein Geistiges in dieses Denken eintritt,
wie die Farbe bei der sinnlichen Wahrnehmung in das Auge, der Ton in das Ohr eintritt.
Hat man sich in die Lage gebracht, dasjenige, das man auf diese Art,
durch passive Hingabe, im Bewußtsein verlebendigt hat,
durch einen Willensakt nachzubilden,
so tritt in diesen Willensakt die Wahrnehmung des eigenen «Ich» ein.
(Rudolf Steiner)
この第12項は、第9項の「アストラル体の現実」と対応しています。
第9項では、
アストラル体(感覚体)なるものが現実であること、
自分自身のなかで実際の「知覚器官」として作用していることを体験するためには、
メディテーションを通して「思考」を捉える必要があると述べられています。
通常の思考は、
外界からの感覚的な刺激によって動き出します。
しかし、いったん動き出した自分の「考え」の流れに集中し、
そこにまとわりついている一切の外界の刺激を排したとき、
ちょうど私たちの眼や耳が外界の対象物を「知覚」しているように、
自分の内面には精神的なものを「見る」ための知覚器官が存在することに気づく。
つまり、私たちは思考において、
実はすでに精神的なもの(霊的なもの)を見ていることに気づく、
とシュタイナーは述べています。
そして、そのように内的に見るということが「意識」であり、
この「意識」は、エーテル体(生命体)と物質体が抑制されたとき、
初めて発生することができます。
そのような内的に見るための知覚器官、
もしくは意識の働きを自覚したとき、
それはアストラル体(感覚体)の現実性として体験されるというのです。
そして、この12項では、
アストラル体の現実性を捉えた内的直観をさらに育成することによって、
《私》(自我)というものの現実性に到ることが示されています。
そこで重要なことは、
「意志」の働きに気づくことです。
私たちの思考もまた、
外界の色彩がおのずと眼に入り、
音響がおのずと耳に飛び込んでくるように、
外界からの刺激に対して「受動的」に反応しています。
ほとんど意志を働かせることなく、
外から刺激されるままに、次から次へと連想が展開していきます。
前項(11項)では、
外からの感覚性の知覚に対して、
自分の意志で「模像」をつくるということが述べられていました。
この12項では、
思考の模像をつくること、
つまり思考を跡づけ、「追形成」する可能性が述べられています。
たとえば、ある本を手にとり、
そこに展開されている自分とは別の人が考えたこと、
つまり自分の外にある思考を受け止めます。
次に、自分のなかでその思考を跡づけていきます。
なぜこの人はこのように考えたのだろうか、
自分はこの思考の道筋に納得してついていけるだろうか。
もしその思考の道筋を一歩一歩確認して、たどることができたなら、
今度は、その思考を自分のなかで、まるで自分が考えたことのように
再生(もしくは追形成)してみるのです。
(これは他人の思想を自分に無理に納得させて、
自分で自分を洗脳することとはまったく違います。
他人の思考でも、その考えの道筋を一歩一歩確認しながら跡づけていくと、
むしろその思想から完全に「自由」になることが実感できます。
洗脳はむしろ、本当の納得や理解なしに、
他人の思想を鵜呑みにすることによって起こります。)
この作業は、能動的な意志の働きなしにはなされません。
しかし、そのような意識的な思考との取り組みのなかで、
自分自身の《私》(自我)が、
まるで色彩や音響を知覚するように、
自分の意識のなかで知覚されることになるというのです。
この「自我」と「意志」の関係は、
アントロポゾフィーにおけるもっとも重要な認識のひとつではないかと思います。
一人ひとりの「私」は、
この世に自分という人間を表わそうとする意志なのです。
そして、この「私」はすべての人間のなかに存在するからこそ、
私は他人の考えたことをまるで自分の思考のように跡づけ、
それを追形成することができます。
そして、だからこそ、すべての人間の自己を生きようとする意志は、
限りなく絶対的で、神聖なものだということです。
4項に述べられているように、
物質体を分解から食い止め、
一人ひとりの身体を現出させているものが、
この「私」なのです。