入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

個人、動物、そして民族の「たましい」(2)

2006-03-30 20:32:54 | 霊学って?
シュタイナー思想では、思考、感情、意志をひっくるめて「人間のたましい」と呼ぶ、と書いた。

『愛の礎石』と「人間のたましい」
この「人間のたましい」が、シュタイナー思想の核心といってよいと思う。

なぜなら、シュタイナーは晩年、死に至るまでのもっとも濃縮した1年半の活動を開始する前に、『愛の礎石』というマントラ(瞑想のことば)を唱えたのだが、このことばは「人間のたましいよ!」という呼びかけから始まるからである。

なぜ単に「たましいよ!」ではなく、「人間のたましいよ!」なのか?
それは、今回のテーマでもあるが、この「たましい」は、人間だけではなく、動物や、そして民族のような集団にも見られるものだからである。

人間のたましいは、暗い衝動やエネルギーとしてみなぎる「意志」の領域から、自分の心の動きとして意識できる「感情」の領域、そして明確なことばで捉えられる「思考」の領域にまで及んでいる。

「感情」はどこにあるのか?
以前、「感情」に対応するものとして「ことば」を挙げた。

人間の身体のなかで、もっとも「感情」が集中的に感じられるのは胸の辺りだろう。
確かに、「むかっ腹が立つ」とか、「頭にくる」といった表現もある。
でも、「腹が立つ」というのは、まさに「意志」の領域から怒りとして突き上げてくるものが、「胸」の領域に向かってくるように感じられる。
そして、「頭に来る」のは、本来は「胸」の領域にあるものが、「頭にまで来てしまった」ということではないだろうか?

いずれにしても、「感情の座」というものがあるとすれば、それは頭や腹や手足ではなく、「胸」にあるのではないか。

胸には呼吸器があり、心臓がある。
緊張すれば、呼吸が浅くなったり、心臓の鼓動が速くなったりする。
不安や恐怖で、心臓が縮み上がることもある。
喜びで体中があたたかくなると感じることがあるが、そのとき体中をめぐる血液は、まさに心臓を通っているのである。

そのように、人間は自分の状態を心臓と呼吸を通して感じ取るのではないだろうか?
そのとき、僕たちは「ことば」をもちいて、自分を捉えようとする。
自分が漠然と感じていることをことばにすることで、まだ暗がりの中にある自分の意志や感情を思考によって明らかにする。

「感情」を「ことば」で表現する意味
だから、「ことば」は「感情」から始まる。

「悲しい」「いらいらする」「うれしい」といった感情をことばにすることで、「なぜ悲しいのか?」「なぜいらいらするのか?」「この幸福感はどこから来ているのか?」というように、感情の背後にある理由を探ることができる。

感情が意識できず、ことばもなければ、人間は自分自身を知ることはできないだろう。

この「知る」ということに至るのが、「人間のたましい」の特徴である。
人間の感情は、自分自身だけではなく、自分の周囲の「世界」にも向かう。
このときは、「感情」というより、「感覚」といったほうが正確かもしれない。

「感情」と「感覚」の違い
ドイツ語では、感情も感覚も、同じ「ゲフュール」とか「エンプフィンドゥンク」ということばで言い表している。どちらも、「感じる」ことである。

日本語の「感情」は、自分との関係で何かを感じ取ることだし、「感覚」は、感じることそれ自体だといえるだろう。
ある花を見たり、触ったり、香りを嗅いだりするときは、その花に対して「感覚」を働かせていることになる。
その花を「美しい」と感じたり、感触や匂いを「好ましい」とか「不快だ」と感じるときは、自分との関係における「感情」が働いていることになる。

シュタイナー思想の翻訳では、この感覚と感情の違いが明確になっていない場合があるので、注意が必要である。

しかし、感情もまた、自分の状態に対する「感覚」であることには違いがない。それは身体の状態であったり、自分の個別の「意志」の反応かもしれない。
何かに遭遇したとき、それが自分にとって好ましいものであれば「好感」や「心地よさ」を感じるし、自分の生存を脅かすものであれば「不安」や「恐怖」を感じる。

つまり、感情は、自分の状態の変化を「感覚」しているのである。

だから、シュタイナーにとっては、自分の感覚や感情こそが、「認識の道具」なのである。自分の感覚を研ぎ澄まし、そこで自分が感じ取るものを思考で明らかにしていくこと。それがシュタイナー思想の「認識」の基本である。

すべての存在をつなぐ「意志」について
これと同じことを、以前に、次のような言い方で述べた。

「内と外」という考え方に触れたときのことである。
自分の「外」にあるものを丁寧に観察し(つまり感覚を働かせ)、そのとき自分の「内」に生じるものに注意を向けることが、シュタイナー思想の基本なのだ、と。

なぜ、それが「認識」につながるのか?
自分の「内」に生じるのは、あくまでも「自分のもの」であって、外なる世界を認識することにはならないのではないか?

前回、すべてのものが「意志」をもっていると書いた。
鉱物も、植物も、動物も、この世界に存在するすべてのものが「存在への意志」を持っている。
その意志を自分の内に取り込んで、独自に生成・発展するのが生物である。

べつの言い方をすれば、この世界にあるすべてのものは「存在への意志」を共有している。
イメージで語るなら、こういうことになるだろう。
もし人間が自分の「たましい」の内へ深く、深く沈潜していけば、暗い「意志の領域」の中で、他のすべての存在の「意志」に触れることができる・・・。

シュタイナーにとっての「認識」とは?
人間は、自分以外の存在に向き合い、それに対して感覚を働かせることで、その存在と「意志の領域」においてつながるのである。

そのとき、その存在がもっている「個別の意志」が、人間の「内」に浮かび上がる。その存在が、鉱物であれ、植物であれ、動物であれ、あるいは自分以外の人間であれ、その存在がどのようなものになろうとする「個別の意志」を持っているのかが、ぼんやりと感じられる。
その感覚を、人間はことばで言い表していく。自分が感じ取ったものにふさわしい名前をつけ、その特徴を表現する。そして、その存在の本質(個別の意志)に近づこうとする。

シュタイナーにとって、真の「認識」とは、一つひとつの事物の個別の意志を捉えること、つまり、その事物が何を目指しているのかを把握することだった。

そして、シュタイナーは、古代ギリシャの神殿に刻まれていたという「汝自身を認識せよ」ということばを大切にしていた。
人間に与えられたもっとも重要な課題は、自分自身を認識する、ということなのだ。

「自己認識」は「生きること」
ただし、この「自己認識」は、ただ知識をもつことではない。

「人間が自分自身を認識する」とは、「自分自身を生きる」ということなのだ。

ここでは、「知る」が、「生きる」につながっている。

人間の「個別の意志」は、人生という時間の流れの中でしか現れてこない。
一人ひとりの「個別の意志」、もしくは「自分らしさ」や「個性」といったものは、ことばで定義することはできない。

一生をかけて迷い、右往左往し、自問自答を繰り返しながら、その時々で進むべき道を選びとり、ひたすら生きていく。
そしてある時点で、ふと自分がこれまで生きてきた軌跡をふりかえるとき、そこに「自分はどのような人間で、どのようなことを目指して生きてきたのか」がぼんやりと見えてくる。

「生きる」ことなしに、人間の自己認識はありえない。
そして、生きることと、知ることを結びつけるのが、一人ひとりの「感情」であり、「ことば」なのである。

人間と他の生物との関係
このことは、ある程度は、他の生物にも当てはまる。

先に、生物は、「存在への意志を自分の中に取り込んで、独自に生成・発展する」と書いた。

生命とは、基本的に、時間の流れのなかで、生成、変化、発展するものである。
生物の全体像を捉えようとすれば、どうしても時間を考慮に入れなければならない。

植物は、「存在への意志」を自分の内に取り込み、独自の生を展開するという意味で、ある程度は「たましい」をもっていると言えるかもしれない。

しかし、シュタイナー思想でいう「たましい」とは、感情や感覚が基本である。
なぜなら、感情や感覚によって、個体の内面が確立するからである。

植物は、一般に、一つの場所にとどまりつづける。
同じ場所で、芽を出し、葉を広げ、花を咲かせる。
しかし、「たましい」によって、個体は動きはじめる。

感覚の喜びを求めて、あるいは恐怖や不安に駆られて、動物は動きまわる。
その原動力は、内面に生じてくる感覚や感情である。

「ことば」をもつ人間の責任
しかし、植物や動物には、「ことば」がない。

自分の「個別の意志」が何を目指しているのか、いま感じていることを「ことば」にして自分自身で捉えることも、他者に伝えることもできない。

生まれて間もない赤ちゃんは、自分の状態を「ことば」で伝えることができず、泣き声や音声、全身の動きによって表現することしかできない。
母親ないし父親は、そのような赤ちゃんを感じ取り、ことばにならないことばを聞き取り、赤ちゃんの「個別の意志」がいま必要としていることを与えようとする。
それが親の責任であろう。

同じように、地球上の植物も、動物も、自分がいま必要としていることを「ことば」で伝えることはできない。
自分の「個別の意志」が実現されるために、どのような条件が必要なのか、いまどのような危機に瀕しているのか。それを感じ取り、ことばにして把握し、生態系が持続・発展できるために必要なことを行うのは、「ことば」をもった人間の責任である。

そのとき前提となるのが、人間は、他の存在と「存在への意志」においてつながっているという認識である。

人間は、鉱物や無機物と「存在への意志」を共有している。
人間は、植物と「存在への意志」と「個別化された意志」(生命)を共有している。
人間は、動物と「存在への意志」と「個別化された意志」(生命)と、そして「たましい」(感覚と感情)を共有している。
人間は、他の人々と「存在への意志」と「個別化された意志」(生命)と「たましい」(感覚と感情)と、そして「ことば」(思考)を共有している。

そして、人間の場合は、意志と思考と感情を合わせて、「人間のたましい」と呼ぶのである。

人間は、「ことば」をもたない他の地球上のモノたちが、それぞれ何を目指して存在しているのか、そこに働いている「個別の意志」を感じ取り、認識しようとする。
しかし、それは同時に、自分自身の「意志」を認識することにもつながるのだ。なぜなら、「意志」においてすべてはつながっているからである。

子どもたちが、学校で「世界」について学ぶのも、同じ理由からである。
自分が生きている「世界」に存在する一つひとつの事柄を知っていくことは、自分自身の意志を強めるのである。

「動物のたましい」と人間
僕自身は今、「動物のたましい」について意識的に考える必要を感じている。

人間と動物の間に、優劣や「高い/低い」の差はない。
唯一の違いは、動物が「ことば」を持っていないことである。

シュタイナー思想ではよく、「人間は病気や苦しみを通して成長するが、動物は変化しない」ということを言う。
しかし、動物と人間の関係においては、人間が「ことば」を委ねられているのだ。

動物たちがどこへ向かって進もうとしているのか、それを「ことば」で認識するのは、人間の仕事である。
人間との関係の中で、動物たちはいかようにも変化するのではないか?
最近の鳥インフルエンザや狂牛病といった問題は、人間と動物との関係、そして人間自身の責任を改めて突きつけているように思えるのである。

次回は、すべてにつながる普遍的な「意志」と、一人ひとりの「個別の意志」の違いを、「たましい」との関連でさらに見ていきたいと思う。(つづく)

☆ちなみに、今日はルドルフ・シュタイナーの命日である(1925年3月30日)。

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