11.
《私》(自我)として統合される自己意識は、
意識のなかから浮かび上がってくる。
この意識が発生するのは、
物質体とエーテル体の諸力によって、
物質体とエーテル体自身が解体(分解)され、
精神的なものが人間のなかに入り込むときである。
物質体とエーテル体の解体のなかで、
意識生活が展開されるための土台がつくられるのである。
しかし、生体そのものが破壊されないためには、
この物質体とエーテル体の解体の後に、その再構築が続かなければならない。
それゆえ、意識体験のために解体作用が生じたなら、
まさにそこで解体されたものを再び構築しなければならない。
この構築作用を知覚するとき、そこに自己意識が体験される。
人は、内的直観のなかで、この過程を跡づけることができる。
単に意識されたにすぎないものに対して、
自分自身の内から、その模像をつくりだす。
すると、それによって意識が自己意識へ移行するのを感じることができる。
単に意識されたにすぎないものは、
その像を、生体のなかの、
いわば解体作用によって空虚になった部分に持っている。
その空虚さが、内面から再び満たされたとき、
その意識は自己意識のなかへ引き込まれるのである。
この「満たす」能力をもった本性が
《私》(自我)として体験される。(訳・入間カイ)
11.
Das Selbstbewußtsein, das im «Ich» sich zusammenfaßt,
steigt aus dem Bewußtsein auf.
Dieses entsteht, wenn das Geistige in den Menschen dadurch eintritt,
daß die Kräfte des physischen und des ätherischen Leibes diese abbauen.
Im Abbau dieser Leiber wird der Boden geschaffen,
auf dem das Bewußtsein sein Leben entfaltet.
Dem Abbau muß aber, wenn die Organisation nicht zerstört werden soll,
ein Wiederaufbau folgen.
So wird, wenn für ein Erleben des Bewußtseins ein Abbau erfolgt ist,
genau das Abgebaute wieder aufgebaut werden.
In der Wahrnehmung dieses Aufbaues liegt das Erleben des Selbstbewußtseins.
Man kann in innerer Anschauung diesen Vorgang verfolgen.
Man kann empfinden,
wie das Bewußte in das Selbstbewußte dadurch übergeführt wird,
daß man aus sich ein Nachbild des bloß Bewußten schafft.
Das bloß Bewußte hat sein Bild
in dem durch den Abbau gewissermaßen leer gewordenen des Organismus.
Es ist in das Selbstbewußtsein eingezogen,
wenn die Leerheit von innen wieder erfüllt worden ist.
Das Wesenhafte, das zu dieser Erfüllung fähig ist, wird als «Ich» erlebt.
(Rudolf Steiner)
人間にとって最大の謎のひとつは、
一人ひとりが持っている「私」という意識ではないでしょうか。
人間は、「自我」(私)を持っているために、
私は何者なのか、私はどこから来て、どこへ行くのか?
というつかみどころのない問いに付きまとわれています。
僕がここで非常に重要だと思うのは、
「私」は、今この瞬間に、自分自身の意志によって働くものだ、
ということです。
よく「自分探し」という言い方がなされ、
まるで「本当の私」は、どこか遠い所にあって、
今の日常の自分はそこには簡単には到れないような印象を受けることがあります。
けれども、この第11項以降では、
シュタイナーは、「私」というものをもっぱら意志の作用として捉えています。
そして、それを身体に即して見ていくのです。
生命はエーテル体によって、
意識はアストラル体によってもたらされます。
しかし、意識が発生するためには、
物質体とエーテル体の活動がマイナスにまで落ち込み、
アストラル体が働くための場を用意しなければなりません。
そこでは物質体とエーテル体は部分的に「解体」されているのです。
そして、生体が存続するためには、
いったん解体された部分は、ふたたび構築されなければなりません。
その「再構築」を行うのが、「私」(自我)なのです。
その意味で、自我は「治療の源泉」として捉えられるのです。
シュタイナーは
「単なる意識」から「自己意識」への移行について語ります。
単なる意識というのは、
外から感覚を通して伝わってくるさまざまな刺激に、
受け身で向き合ったときの意識です。
温かさ、冷たさ、光や色彩、音声や騒音など、
さまざまな刺激が意識され、快や不快の感覚を呼び覚まします。
しかし、それだけでは、私たちの物質体も生命体も解体され、
空虚さを抱えたままになってしまうというのです。
動物も、神経系を持ち、アストラル体を持っています。
その意味で、動物たちは、
シュタイナーのいう「単なる意識」を持っているといえるでしょう。
動物たちは、一見、私たち人間以上に「健康」に見えます。
しかし、動物たちも時間の流れのなかで、老化していきます。
動物たちの生体を最終的に解体するのは、
やはり「意識」の作用であるといえるかもしれません。
しかし、動物の場合、
意識によって解体された物質体や生命体をそのつど修復するのは、
自我ではなく、生命体の働きであるように思います。
それに対して、人間の場合には、
意識によって解体された部分をふたたび満たすのは、自我だというのです。
つまり、動物と人間とでは、
治癒や回復がもつ意味、
さらには「病気」がもつ意味が異なるということになります。
人間の場合、
身体に生じた「空虚さ」は、生命体によって埋めることはできず、
自我によって満たされることを必要としているのです。
自分に向かって、外から降りかかる刺激に対して、
受け身に反応するのではなく、
その一つひとつに対して、内側から「摸像」をつくりだすようにして、
能動的に向き合うこと、
そこに自我が働き、
それによって「空虚さ」がふたたび満たされる。
一人ひとりの人間は、
自分が経験した世界を、自分自身の内面において再構築していく。
そこに一人ひとりにとっての「生きる意味」と、
健康と病気の意味がかかわっている。
ここには、
「治療の源泉としての生命体と自我」という
シュタイナーの考え方を理解する一つの手がかりがあると思います。
《私》(自我)として統合される自己意識は、
意識のなかから浮かび上がってくる。
この意識が発生するのは、
物質体とエーテル体の諸力によって、
物質体とエーテル体自身が解体(分解)され、
精神的なものが人間のなかに入り込むときである。
物質体とエーテル体の解体のなかで、
意識生活が展開されるための土台がつくられるのである。
しかし、生体そのものが破壊されないためには、
この物質体とエーテル体の解体の後に、その再構築が続かなければならない。
それゆえ、意識体験のために解体作用が生じたなら、
まさにそこで解体されたものを再び構築しなければならない。
この構築作用を知覚するとき、そこに自己意識が体験される。
人は、内的直観のなかで、この過程を跡づけることができる。
単に意識されたにすぎないものに対して、
自分自身の内から、その模像をつくりだす。
すると、それによって意識が自己意識へ移行するのを感じることができる。
単に意識されたにすぎないものは、
その像を、生体のなかの、
いわば解体作用によって空虚になった部分に持っている。
その空虚さが、内面から再び満たされたとき、
その意識は自己意識のなかへ引き込まれるのである。
この「満たす」能力をもった本性が
《私》(自我)として体験される。(訳・入間カイ)
11.
Das Selbstbewußtsein, das im «Ich» sich zusammenfaßt,
steigt aus dem Bewußtsein auf.
Dieses entsteht, wenn das Geistige in den Menschen dadurch eintritt,
daß die Kräfte des physischen und des ätherischen Leibes diese abbauen.
Im Abbau dieser Leiber wird der Boden geschaffen,
auf dem das Bewußtsein sein Leben entfaltet.
Dem Abbau muß aber, wenn die Organisation nicht zerstört werden soll,
ein Wiederaufbau folgen.
So wird, wenn für ein Erleben des Bewußtseins ein Abbau erfolgt ist,
genau das Abgebaute wieder aufgebaut werden.
In der Wahrnehmung dieses Aufbaues liegt das Erleben des Selbstbewußtseins.
Man kann in innerer Anschauung diesen Vorgang verfolgen.
Man kann empfinden,
wie das Bewußte in das Selbstbewußte dadurch übergeführt wird,
daß man aus sich ein Nachbild des bloß Bewußten schafft.
Das bloß Bewußte hat sein Bild
in dem durch den Abbau gewissermaßen leer gewordenen des Organismus.
Es ist in das Selbstbewußtsein eingezogen,
wenn die Leerheit von innen wieder erfüllt worden ist.
Das Wesenhafte, das zu dieser Erfüllung fähig ist, wird als «Ich» erlebt.
(Rudolf Steiner)
人間にとって最大の謎のひとつは、
一人ひとりが持っている「私」という意識ではないでしょうか。
人間は、「自我」(私)を持っているために、
私は何者なのか、私はどこから来て、どこへ行くのか?
というつかみどころのない問いに付きまとわれています。
僕がここで非常に重要だと思うのは、
「私」は、今この瞬間に、自分自身の意志によって働くものだ、
ということです。
よく「自分探し」という言い方がなされ、
まるで「本当の私」は、どこか遠い所にあって、
今の日常の自分はそこには簡単には到れないような印象を受けることがあります。
けれども、この第11項以降では、
シュタイナーは、「私」というものをもっぱら意志の作用として捉えています。
そして、それを身体に即して見ていくのです。
生命はエーテル体によって、
意識はアストラル体によってもたらされます。
しかし、意識が発生するためには、
物質体とエーテル体の活動がマイナスにまで落ち込み、
アストラル体が働くための場を用意しなければなりません。
そこでは物質体とエーテル体は部分的に「解体」されているのです。
そして、生体が存続するためには、
いったん解体された部分は、ふたたび構築されなければなりません。
その「再構築」を行うのが、「私」(自我)なのです。
その意味で、自我は「治療の源泉」として捉えられるのです。
シュタイナーは
「単なる意識」から「自己意識」への移行について語ります。
単なる意識というのは、
外から感覚を通して伝わってくるさまざまな刺激に、
受け身で向き合ったときの意識です。
温かさ、冷たさ、光や色彩、音声や騒音など、
さまざまな刺激が意識され、快や不快の感覚を呼び覚まします。
しかし、それだけでは、私たちの物質体も生命体も解体され、
空虚さを抱えたままになってしまうというのです。
動物も、神経系を持ち、アストラル体を持っています。
その意味で、動物たちは、
シュタイナーのいう「単なる意識」を持っているといえるでしょう。
動物たちは、一見、私たち人間以上に「健康」に見えます。
しかし、動物たちも時間の流れのなかで、老化していきます。
動物たちの生体を最終的に解体するのは、
やはり「意識」の作用であるといえるかもしれません。
しかし、動物の場合、
意識によって解体された物質体や生命体をそのつど修復するのは、
自我ではなく、生命体の働きであるように思います。
それに対して、人間の場合には、
意識によって解体された部分をふたたび満たすのは、自我だというのです。
つまり、動物と人間とでは、
治癒や回復がもつ意味、
さらには「病気」がもつ意味が異なるということになります。
人間の場合、
身体に生じた「空虚さ」は、生命体によって埋めることはできず、
自我によって満たされることを必要としているのです。
自分に向かって、外から降りかかる刺激に対して、
受け身に反応するのではなく、
その一つひとつに対して、内側から「摸像」をつくりだすようにして、
能動的に向き合うこと、
そこに自我が働き、
それによって「空虚さ」がふたたび満たされる。
一人ひとりの人間は、
自分が経験した世界を、自分自身の内面において再構築していく。
そこに一人ひとりにとっての「生きる意味」と、
健康と病気の意味がかかわっている。
ここには、
「治療の源泉としての生命体と自我」という
シュタイナーの考え方を理解する一つの手がかりがあると思います。