入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

アントロポゾフィー指導原理 (11)

2007-09-28 14:30:48 | 霊学って?
11.
《私》(自我)として統合される自己意識は、
意識のなかから浮かび上がってくる。
この意識が発生するのは、
物質体とエーテル体の諸力によって、
物質体とエーテル体自身が解体(分解)され、
精神的なものが人間のなかに入り込むときである。
物質体とエーテル体の解体のなかで、
意識生活が展開されるための土台がつくられるのである。
しかし、生体そのものが破壊されないためには、
この物質体とエーテル体の解体の後に、その再構築が続かなければならない。
それゆえ、意識体験のために解体作用が生じたなら、
まさにそこで解体されたものを再び構築しなければならない。
この構築作用を知覚するとき、そこに自己意識が体験される。
人は、内的直観のなかで、この過程を跡づけることができる。
単に意識されたにすぎないものに対して、
自分自身の内から、その模像をつくりだす。
すると、それによって意識が自己意識へ移行するのを感じることができる。
単に意識されたにすぎないものは、
その像を、生体のなかの、
いわば解体作用によって空虚になった部分に持っている。
その空虚さが、内面から再び満たされたとき、
その意識は自己意識のなかへ引き込まれるのである。
この「満たす」能力をもった本性が
《私》(自我)として体験される。(訳・入間カイ)

11.
Das Selbstbewußtsein, das im «Ich» sich zusammenfaßt,
steigt aus dem Bewußtsein auf.
Dieses entsteht, wenn das Geistige in den Menschen dadurch eintritt,
daß die Kräfte des physischen und des ätherischen Leibes diese abbauen.
Im Abbau dieser Leiber wird der Boden geschaffen,
auf dem das Bewußtsein sein Leben entfaltet.
Dem Abbau muß aber, wenn die Organisation nicht zerstört werden soll,
ein Wiederaufbau folgen.
So wird, wenn für ein Erleben des Bewußtseins ein Abbau erfolgt ist,
genau das Abgebaute wieder aufgebaut werden.
In der Wahrnehmung dieses Aufbaues liegt das Erleben des Selbstbewußtseins.
Man kann in innerer Anschauung diesen Vorgang verfolgen.
Man kann empfinden,
wie das Bewußte in das Selbstbewußte dadurch übergeführt wird,
daß man aus sich ein Nachbild des bloß Bewußten schafft.
Das bloß Bewußte hat sein Bild
in dem durch den Abbau gewissermaßen leer gewordenen des Organismus.
Es ist in das Selbstbewußtsein eingezogen,
wenn die Leerheit von innen wieder erfüllt worden ist.
Das Wesenhafte, das zu dieser Erfüllung fähig ist, wird als «Ich» erlebt.
(Rudolf Steiner)


人間にとって最大の謎のひとつは、
一人ひとりが持っている「私」という意識ではないでしょうか。
人間は、「自我」(私)を持っているために、
私は何者なのか、私はどこから来て、どこへ行くのか?
というつかみどころのない問いに付きまとわれています。

僕がここで非常に重要だと思うのは、
「私」は、今この瞬間に、自分自身の意志によって働くものだ、
ということです。
よく「自分探し」という言い方がなされ、
まるで「本当の私」は、どこか遠い所にあって、
今の日常の自分はそこには簡単には到れないような印象を受けることがあります。
けれども、この第11項以降では、
シュタイナーは、「私」というものをもっぱら意志の作用として捉えています。
そして、それを身体に即して見ていくのです。

生命はエーテル体によって、
意識はアストラル体によってもたらされます。
しかし、意識が発生するためには、
物質体とエーテル体の活動がマイナスにまで落ち込み、
アストラル体が働くための場を用意しなければなりません。
そこでは物質体とエーテル体は部分的に「解体」されているのです。
そして、生体が存続するためには、
いったん解体された部分は、ふたたび構築されなければなりません。
その「再構築」を行うのが、「私」(自我)なのです。
その意味で、自我は「治療の源泉」として捉えられるのです。

シュタイナーは
「単なる意識」から「自己意識」への移行について語ります。
単なる意識というのは、
外から感覚を通して伝わってくるさまざまな刺激に、
受け身で向き合ったときの意識です。
温かさ、冷たさ、光や色彩、音声や騒音など、
さまざまな刺激が意識され、快や不快の感覚を呼び覚まします。
しかし、それだけでは、私たちの物質体も生命体も解体され、
空虚さを抱えたままになってしまうというのです。

動物も、神経系を持ち、アストラル体を持っています。
その意味で、動物たちは、
シュタイナーのいう「単なる意識」を持っているといえるでしょう。
動物たちは、一見、私たち人間以上に「健康」に見えます。
しかし、動物たちも時間の流れのなかで、老化していきます。
動物たちの生体を最終的に解体するのは、
やはり「意識」の作用であるといえるかもしれません。

しかし、動物の場合、
意識によって解体された物質体や生命体をそのつど修復するのは、
自我ではなく、生命体の働きであるように思います。

それに対して、人間の場合には、
意識によって解体された部分をふたたび満たすのは、自我だというのです。
つまり、動物と人間とでは、
治癒や回復がもつ意味、
さらには「病気」がもつ意味が異なるということになります。

人間の場合、
身体に生じた「空虚さ」は、生命体によって埋めることはできず、
自我によって満たされることを必要としているのです。

自分に向かって、外から降りかかる刺激に対して、
受け身に反応するのではなく、
その一つひとつに対して、内側から「摸像」をつくりだすようにして、
能動的に向き合うこと、
そこに自我が働き、
それによって「空虚さ」がふたたび満たされる。

一人ひとりの人間は、
自分が経験した世界を、自分自身の内面において再構築していく。
そこに一人ひとりにとっての「生きる意味」と、
健康と病気の意味がかかわっている。

ここには、
「治療の源泉としての生命体と自我」という
シュタイナーの考え方を理解する一つの手がかりがあると思います。

アントロポゾフィー指導原理 (10)

2007-09-25 14:26:37 | 霊学って?

10.
意識は、物質体とエーテル体がもたらす活動の継続によっては発生しない。
これらの二つの「体」は、その活動を零点にまで、
いやそれ以下にまで下げなければならない。
そのとき初めて、意識が働くための「場が発生」する。
物質体とエーテル体は、意識を生み出すのではなく、
精神のための土台を提供する。
この土台の上で、精神が地球生活における意識を生み出すのである。
地球の人間は、自分が立脚すべき地面を必要とする。
精神もまた、地球では自己を展開するための物質的基盤を必要とする。
しかし、宇宙空間の惑星は、自分の位置を確保するために地面を必要とはしない。
同様に、精神の直観が、感覚を通して物質に向けられるのではなく、
自分自身の力を通して精神的なものに向けられるのであれば、
その精神にとって、物質の基盤は必要ではない。
物質の基盤がなくとも、その精神は自分自身のなかで、
自らの意識活動を活発にすることができる。

10.
Das Bewußtsein entsteht nicht durch ein Fortführen derjenigen Tätigkeit,
die aus dem physischen und dem Ätherleib als Ergebnis kommt,
sondern diese beiden Leiber müssen mit ihrer Tätigkeit auf den Nullpunkt kommen,
ja noch unter denselben, damit „Platz entehe“ für das Walten des Bewußtseins.
Sie sind nicht die Hervorbringer des Bewußtseins,
sondern sie geben nur den Boden ab, auf dem der Geist stehen muß,
um innerhalb des Erdenlebens Bewußtsein hervorzubringen.
Wie der Mensch auf der Erde einen Boden braucht, auf dem er stehen kann,
so braucht das Geistige innerhalb des Irdischen die materielle Grundlage,
auf der es sich entfalten kann.
Und so wie im Weltenraum der Planet den Boden nicht braucht,
um seinen Ort zu behaupten,
so braucht der Geist, dessen Anschauung nicht durch die Sinne auf das Materielle,
sonden durch die Eigentätigkeit auf das Geistige gerichtet ist,
nicht diese materielle Grundlage,
um seine bewußte Tätigkeit in sich rege zu machen.


私たちの多くは、「死」というものについて、
「死んだら、すべてが終わりなのか?」
「この私という意識も、肉体とともに消えうせてしまうのか?」
と考えます。

脳が損傷を受ければ、記憶が失われたり、
性格が変化することもあります。
肉体の疲労とともに、私たちは眠り込み、意識を失います。
結局、私たちの意識は
肉体の状態とともに変化し、
肉体が滅ぶとともに消滅するように感じられます。

私たちの「実感」としては
肉体や生命活動が意識を成立させていると感じられるのです。

しかし、シュタイナーは、
肉体(物質体)や生命活動からは、意識は発生しないと述べています。
物質体と生命体(エーテル体)の活動レベルがゼロ以下に落ち込んだとき、
初めて意識の発生する余地(場)が出てくるというのです。

この「場」とは、「感覚器官」と神経系のことと言ってよいと思います。
神経細胞はいわゆる「非再生系細胞」で、再生されることなく老化していきます。
つまり、生命体の働きである再生作用は、
誕生後、神経細胞においては「抑制」されているといえます。
ただし、胎児期に神経細胞を生み出し、その後もそれを維持するのは生命体です。
また、神経細胞も再生されうるという研究もありますが、
これは言い方を変えれば、
神経細胞の生命体は抑制されているだけであり、
その抑制を外せば、また再生することもありうると言えるかと思います。

そして、眼も、耳も、皮膚も、およそすべての感覚器官は、
自分自身を感じることはありません。
自分を無にして、ひたすら対象を知覚するのが感覚器官です。
神経系と感覚器官があることで、
人間は世界を感じ、そして感じることのなかで「意識」をもつことができます。

もちろん、神経系と感覚器官は、物質体と生命体によって成り立っています。
その意味で、物質体と生命体は、
一人ひとりの意識が展開するための「場」を提供しているのです。

しかし、物質体と生命体が提供する「場」に展開される意識は、
この地球の意識であり、
地球上の「物質界」を知覚する意識でしかありません。
地球では、感覚によって物質界を知覚することが、
大地を踏みしめて立つことにつながるのです。

しかし、宇宙では、
惑星が惑星であるために、大地を踏みしめる必要ありません。

精神は、本来、宇宙における惑星のようなあり方をしています。
精神は、物質の地面に支えられなくても、
自分で自分を支えることができるものなのです。

人間の意識は、
肉体の感覚器官を通して世界を知覚しているために、
肉体が滅び、それとともに感覚器官も滅んでしまえば、
意識までも消滅するかのように感じられます。

しかし、本来の精神は、
肉体の感覚器官がなくても、意識をもつことができるのです。
この第10項では、
精神が本来の自己を体験する可能性が示されています。
感覚を通して、物質を知覚する代わりに、
自分自身の力を通して、精神的なものを知覚するということです。
人間は、自分自身が精神であり、
精神的なものを知覚するとは、
自己を知覚すること、と言い換えてもよいでしょう。

自分自身を知覚する精神は、
物質の基盤なしに、
つまり外界を知覚する感覚器官なしに、
自分で自分を支えつつ活発な意識活動を展開できるというのです。

そのようにして、私たちのまなざしは、
自己というものに向かうことになります。

アントロポゾフィー指導原理 (9)

2007-09-22 05:27:38 | 霊学って?
9.
アストラル体の「現実」は、メディテーションを通して見出される。
すなわち、通常の思考は、外界から感覚を通して刺激を受けているが、
そのような思考から、「内的に見ること」へと
歩みを進めるということである。
そのためには、外界の刺激を受けている思考を内的に掌握し、
魂のなかで、その思考がもつ外界への関係を排除して、
思考そのものを集中的に「体験」しなければならない。
そのような思考の掌握と体験において、「魂の強さ」を身につけたとき、
人はこの「魂の強さ」を通して、次のことに気づくにいたる。
すなわち、内的な知覚器官というものが存在する。
動物と人間においては、「意識」が発生するために
物質体とエーテル体が抑制される場所がある。
内的な知覚器官は、物質体とエーテル体が抑制されるその場所に
「霊的なもの」を見るのである。(訳・入間カイ)

9.
Die Wirklichkeit dieses Astralleibes wird gefunden,
wenn man durch die Meditation von dem Denken,
das durch die Sinne von außen angeregt wird,
zu einem innerlichen Anschauen fortschreitet.
Man muß dazu das von außen angeregte Denken innerlich ergreifen
und es in der Seele als solches, ohne seine Beziehung auf die Außenwelt,
intensiv erleben;
und durch die Seelenstärke, die man in solchem Ergreifen und Erleben
sich angeeignet hat, gewahr werden,
daß es innere Wahrnehmungsorgane gibt, die ein Geistiges schauen da,
wo in Tier und Menschen der physische und ätherische Leib
in ihren schranken gehaltenwerden, damit Bewußtsein entstehe.
(Rudolf Steiner)


アントロポゾフィーでは、
眼にみえる肉体のほかに、エーテル体やアストラル体など、
いくつもの「眼にみえない体」について語ります。
エーテル体は、生命をもたらす体(生命体)であり、
アストラル体は、感覚や意識をもたらす体(感覚体)であるといえます。
人間が自分自身を認識するためには、
自分というものが、眼にみえる体だけではなく、
それらの眼にみえない体によって成り立っていることを知る必要があります。

この第9項では、
自分自身に、はたして本当に「アストラル体」なるものが備わっているのか、
それを自分に即して「実感」するための方法が述べられています。
その方法をシュタイナーは「メディテーション」(瞑想)と呼んでいます。

まず、自分の「思考」(考える)という活動に注目します。
私たちは、つねに外からの刺激によって、いろいろなことを考えます。
おいしそうな食べ物を見かければ、夕食に何を食べようかと考え、
人々の苦しみや悲しみに遭遇すれば、人生の意味について考えたりします。
外から何のきっかけも与えられずに、自分で「今からこれを考えよう」と思って、
何かを考え始めることはあまりないでしょう。
それが通常の思考のあり方です。

シュタイナーは、
人間の思考は通常そのようなものであることを認めることから出発します。
私たちの思考は、外からきっかけを与えられなければ動き出さない。
そこで、まず具体的なきっかけを用意します。
ある本の1行とか、1段落とか、
あるいはメディテーションのためのことば(マントラ)とか、
考えの道筋を跡づけられるような「思考」を自分に与えるのです。
そして、それについて考え始めます。
その際、外界からの刺激をできるだけ排除して、
自分の思考そのものに集中するように努めます。
外の物音など、一切の刺激が心に入り込まないように集中するのです。
そうすることで、
普段は、私たちの思考はつねに外界の刺激にさらされていますが、
ここでは思考が外界に対してもっている関係を断ち切るのです。
すると、心のなかでは、思考そのものが活動し始めます。
その努力の繰り返しによって、「魂の強さ」が身につきます。
アストラル体が「現実」であることを実感するために必要なのは、
この「魂の強さ」なのです。
この強さは、物質的現実や生命活動に対する「強さ」です。

前項で述べられていたように、
物質体と生命体だけでは「意識」は発生しません。
意識が発生するためには、生命活動を「抑制」する必要があるのです。
私たちの身体のなかには、眠りこませようとする力、
すべてを無意識のなかにとどめ、
物質体と生命体の活動だけを展開させようとする力が働いています。
この力は、当然、健康を維持するために必要不可欠な力です。
眠ることができなければ、健康はありえません。
しかし、眠り続けることもまた、本当の健康ではありません。
本当の健康は、眠りと目覚め、創造と破壊のバランスのなかにあるといえます。

魂の強さとは、
普通なら、身体の生命状態ゆえに眠り込んでしまったり、
周囲の物質的現実からのさまざまな刺激によって影響されたりするところを、
あえて明瞭な意識を保ち続ける力です。
それは生命活動を押さえ込む力でもあるのです。

そして、この力が、アストラル体の現実として体験されるのです。
ここで重要なのは、
「思考から、内的に見ることへ歩みを進める」というところです。
考えることは、見ることにつながっています。
思考に集中すると、それは視覚的体験につながるのです。

アントロポゾフィーの観点からいえば、
思考そのものは、エーテル体によって担われています。
なぜなら、生命活動は叡智そのものだからです。
植物も、動物も、すべての生物は、無限の叡智によって担われています。
しかし、生命の叡智は、完全に無意識のままにとどまっています。
たとえば、私たちの体内で、肝臓がどれほど高度な知性によって活動しているか、
それを私たちが意識することはありません。
身体機能は無意識の叡智によって支えられているのです。

人間は、もともとは無意識である生命の叡智を、
「考える力」に変容させて使っています。
人間が考えることができるのは、
自分の生命力の一部が、思考の力に変容しているからなのです。
この力を使って、人間は
自分の身体を含む「世界」を観察し、
そこで何が起こっているのかを考えることができます。
そのとき、世界に存在する無意識の叡智は、
一人ひとりの人間の知識として意識化されるのです。

その意味で、
私の魂のなかの思考活動は、変容した生命活動であり、
自分の思考に集中することは、
アストラル体(感覚体)によって
自分自身の変容したエーテル体(生命体)の活動を「見る」ことだといえます。

そのことに気づくことから、
「内的に見ること」の第一歩が始まるのです。
それは内的な知覚器官の芽生えでもあります。

アントロポゾフィー指導原理 (8)

2007-09-20 22:04:05 | 霊学って?
8.
人間の本性を考察するにあたって、
物質体とエーテル体におけるその現われに目を向けることができる。
すると、人間において、
物質体とエーテル体という側面に由来するすべての現象は、
意識に到ることはなく、無意識にとどまるものであることが分かる。
物質体とエーテル体の活動が昂進するとき、
意識は明るくなるのではなく、暗くなるのである。
気絶状態は、そうした昂進の結果として理解することができる。
このような考え方を辿っていくことによって、
人間の-そして動物の-身体機構のなかには、
物質体とエーテル体とは異なる性質をもった何かが
働きかけていることが認められるようになる。
この何かが働くのは、
物質体とエーテル体に由来する諸力だけが活動しているときではない。
そうではなく、物質体とエーテル体が
その独自の性質のままに活動することを止めたところに、
この何かは働いているのである。
そのようにして、「アストラル体」の概念に到ることになる。(訳・入間カイ)

8.
Man kann die Wesenheit des Menschen betrachten,
insoferne diese aus seinem physischen und seinem ätherischen Leib
sich ergibt.
Man wird finden,
daß alle Erscheinungen am Menschen, die von dieser Seite ausgehen,
nicht zum Bewußtsein führen, sondern im Unbewußten verbleiben.
Das Bewußtsein wird nicht erhellt, sondern verdunkelt,
wenn die Tätigkeit des physischen und des Ätherleibes erhöht wird.
Ohnmachtszustände kann man als Ergebnis einer solchen Erhöhung erkennen.
Durch die Verfolgung einer solchen Urteilsorientierung
gelangt man dazu, anzuerkennen,
daß in die Organisation des Menschen – und auch des Tieres –
etwas eingreift,
das mit dem Physischen und Ätherischen nicht von der gleichen Art ist.
Es ist wirksam nicht,
wenn das Physische und Ätherische aus seinen Kräften heraus tätig ist,
sondern wenn diese aufhören, auf ihre Art wirksam zu sein.
Man kommt so zum Begriffe des Astralleibes. (Rudolf Steiner)


この指導原理第8項に到って、シュタイナーは、
人間におけるさらなる「対立」に話を進めます。
「意識」と「無意識」という対立です。
前項まで考察していた物質体とエーテル体、
つまり「生命なきもの」と「生命あるもの」の対立は、
ここにきて、「無意識」という領域のなかに括られることになります。

物質体も、エーテル体も、
その働きが人間によって意識されることはないのです。
人間が完全に「無意識」であるとき、
つまり「気絶」しているときは、
もっぱら物質体とエーテル体だけが働いているのです。
ところが、人間には「目覚めている」時間があります。
朝、目を覚ましてから、夜、眠りに入るまで、
人間は「意識」をもっています。
この「意識」をもたらしているものが、
人間のなかにはあるに違いないということです。
人間にも、動物にも、この意識があるのです。

人間は生きているかぎり、
物質体とエーテル体が活動を停止することはありません。
しかし、物質体とエーテル体の本来の活動が続いているかぎり、
「意識」が生じる余地はありません。
物質体とエーテル体の活動が「本来」のあり方から外れたところに、
「意識」は生じるのです。
「アストラル体」はそのようなものとして理解されるというのです。

指導原理の最初に語られるエーテル体やアストラル体については、
『神智学』や『神秘学概論』にも詳しく述べられています。
しかし、そこではアストラル体は、
感覚や意識を司るもの、あるいは神経系の働きとして説明されていますが、
物質体やエーテル体の「本来の働き」を妨げるものとまでは述べられていません。

シュタイナーの最晩年に書かれたこの「指導原理」では、
エーテル体とアストラル体は、
身体のなかの幾重もの「対立構造」のなかで捉えられています。
アントロポゾフィー医学では、
生体のなかの形成、産生、再生といった「構築作用」と、
分解や破壊といった「解体作用」の背景に
このエーテル体とアストラル体の対立があるとされています。

人間の活動、そして健康と病気は、
生命と生命なきもの、
意識と無意識を始めとする
幾重もの「対立」とそのバランスのなかで展開されていくのです。

そして、この指導原理では、
そうした理解への道筋が一歩一歩示されていきます。


アントロポゾフィー指導原理(7)

2007-09-19 08:32:44 | 霊学って?
7.
人間における魂とは別の、また霊とも異なる本質は、
地球と地球外という二つの領域からなるこの世界に組み込まれている。
人間は、生命なきものを包括する地球領域に組み込まれている限りにおいて、
「物質体」を有している。
また、人間は自己の内に、
宇宙空間から地球領域へと生命を引き寄せる諸力を発達させる。
その限りにおいて、人間は「エーテル体」もしくは「生命体」を有している。
近代以降の認識の方向性は、
この地球領域と地球外領域の対立にまったく眼を向けていなかった。
そのため、エーテル領域に関して、
ありえないような見解がいくつも展開されてきたのである。
空想のなかに自己を見失うことへの恐れが、
この対立について語ることを妨げてきた。
しかし、それを語ることなしには、
人間と世界への洞察に到ることはありえない。(訳・入間カイ)

7.
Man findet den Menschen mit seinem außerseelischen und außergeistigen Wesen
in diese Welt des Irdischen und Außerirdischen hineingestellt.
Sofern er in das Irdische, das das Leblose umspannt, hineigestellt ist,
trägt er seinen physischen Körper an sich;
sofern er in sich diejenigen Kräfte entwickelt,
welche das Lebendige aus den Weltenweiten in das Irdische hereinzieht,
hat er einen ätherischen oder Lebensleib.
Diesen Gegensatz zwischen dem Irdischen und Ätherischen
hat die Erkenntnisrichtung der neueren Zeit ganz unberücksichtig gelassen.
Sie hat gerade aus diesem Grunde
über das Ätherische die unmöglichsten Anschauungen entwickelt.
Die Furcht davor, sich in das Phantastische zu verlieren,
hat davon abgehalten, von diesem Gegensatz zu sprechen.
Ohne ein solches Sprechen
kommt man aber zu keiner Einsicht in Mensch und Welt. (Rudolf Steiner)


ここでまず目につくのは、
冒頭の「魂とは別の、また霊とも異なる本質」という表現です。
ドイツ語では、außerseelisch とaußergeistig
そのまま訳せば、「魂外」と「霊外」とでもいうのか、
「地球外」(außerirdisch)に対応した表現になっています。
ここでは、シュタイナーが
人間の本質を四つの領域に分けて捉えていることが分かります。
つまり、「地球」、「地球外」、そして「魂」と「霊」の領域です。
シュタイナーの著作によく出てくる
「人間本質の四つの構成要素」という考え方はここから来ています。

僕には、シュタイナーが
「魂とは別の、また霊とも異なる本質」という言い方をすることで、
特に西洋のキリスト教世界では軽んじられてきた「肉体」(物質体)もまた、
「人間の本質」に含まれることを強調しているように感じられます。
西洋では、この肉体軽視に対立するかたちで、
極端な物質主義(唯物論)が出てきました。
しかし、シュタイナーは、
本当に注目すべき「対立」は、
精神と物質の対立ではなく、
「生命」と「生命外」、
もしくは「地球」と「地球外」の対立であるというのです。

地球を「生命なき領域」とすることには、
違和感を覚えられる方もあることでしょう。
しかし、生命に満ちたこの地球は、
宇宙とのつながりなしにはありえないことに意識を向ける必要があるのです。

もし地球が、宇宙とのつながりを絶たれて孤立したとすれば、
そこには生命は存在しえない。
別の言い方をすれば、
現在、地球上に見られるどんなに小さな生命活動のなかにも、
必ず宇宙とのつながりが働いている。
そのように、地球のなかに宇宙の作用を引き込み、
生命を成り立たせている働きを
シュタイナーは「エーテル体」(生命体)と呼んだのです。

ところで、
シュタイナーがこの文章を書いた時点では、
人類はまだ、宇宙には出ていませんでした。
人間が月に降り立ち、
他の惑星と物質的なつながりを持つに到ったことは、
人間の認識活動、とくに「生命科学」における意識のあり方に
大きな変化を及ぼしたに違いないと思います。

アポロの月面着陸は本当だったのか?
という陰謀説もありますが、
人類の視野が宇宙にまで広がり、
宇宙から地球を見るまでに到ったことは、
確実に、人類の意識に大きな影響を与えたと思うのです。

しかし、ここでシュタイナーが指摘している
生命と宇宙との関連から言えば、
もし人類の宇宙研究が物質レベルに終始するなら、
それは「地球領域」を宇宙に広げていくだけであり、
本当に生命の本質や、人間の本質の認識に到ることはないでしょう。

現在の宇宙論のあり方に対して、
それを否定するのではなく、
そこに生命(エーテル)領域、
さらには「魂」や「霊」の領域の認識を付け加えていくこと、
それがシュタイナーの目指した
「現代の自然科学を拡張する」アントロポゾフィーの役割ではないかと思います。

霊能者の見分け方

2007-09-09 08:28:31 | 霊学って?
最近、相談者を叱りつけ、断定的な物言いをする霊能者の話を聞きました。

そこで、改めて「アントロポゾフィー」の観点から、
霊能者の見分け方について書いておきたいと思います。

      ☆  ☆  ☆

一般に、「霊能者」というのは、要するに
普通の人々には見えないものが見えたり、
聞こえないものが聞こえたりする人たちのことです。

それだけで「先生」と祭り上げられ、
他者の人格を平気で貶めるような言動をする霊能者や占い師が、
巷には数多くいるのです。
もちろん、霊的な問題について、相談者の立場になって
真剣に向き合っている人たちもいます。

いわゆる「霊的な体験」は、誰にでも起こりうることです。
ドラッグによっても、
精神的な病気によっても、
あるいは極端なストレス状態にあるときでも、
そしてもちろん「修行」によっても、
普段ないような「超常現象」が体験されます。

そこで体験されることを単なる「幻覚」として片付けるつもりはありません。
いわゆる幻覚であっても、
その幻覚が生じた意味や経緯があるからです。

それを「幻覚」と見るにせよ、「霊的体験」と見るにせよ、
重要なのは、それをどう「読み解く」か、ということです。

霊能者の良し悪しは、この「読み解く」能力にかかっています。
そして、この「読み解く」能力は、
ごく普通の人間の知恵と経験に基づくものなのです。

つまり、人間として生きていくなかで、
おのずと培われていく経験や知恵が、
霊的体験を読み解く基盤になるのです。

その意味で、
霊能者の資質として決定的に重要なのは、
「人間の運命と個人の意志」に対する畏敬の念であるといえるでしょう。

この畏敬の念があれば、
「あんたはこういう人だ」と決めつけたり、
「前世の因縁があるから、あの人とは別れなさい」などど、
他者の運命に介入することはありえません。

自分がどう生きるか、
自分の運命にどう向き合うかは、その当事者が決めることです。
一人ひとりが自分の人生の主人公として生きること、
そのことを最大限に尊重する人でなければ、
「霊」の問題を扱う資格はないでしょう。

       ☆  ☆  ☆

シュタイナーは、
『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』という本のなかで、
「認識の道を一歩進んだなら、道徳の道を三歩進めなければならない」
と述べています。

ここでいう「道徳」は、「かくあるべき」という規範のことではありません。
むしろ、「他者」や「世界」に対する関わり方のことだといえるでしょう。

この「認識の道」と「道徳の道」を理解するうえで、
以下のことも参考になるかと思います。

シュタイナーは「薔薇十字」の道を歩むための二つの条件を挙げています。
(シュタイナーが「薔薇十字」ということばで表現したのは、
「現代人の意識にふさわしい霊学のあり方」と言い換えることができます。)

一つは、「問いを持ちつづけること」。
もう一つは、「他者に対して、その意志にではなく、認識に働きかけること」です。

最初の「問いを持ち続けること」は、
自分自身の「認識の道」であり、
自分自身の生き方に関わる基本姿勢であるといえるでしょう。
人生を通して、自分に降りかかってくる一つひとつのことがらに対して、
つねに「問い」を持ち、その意味を知ろうと努めること。
つまりは、「認識」を求める姿勢のことです。

二番目の「他者に対しては、その意志ではなく、認識に働きかけること」は、
「道徳の道」であり、
霊能者の資質に直接、関わってきます。

つまり、「あなたの前世がこうだから…」とか、
「あなたの守護霊がこう言っているから…」などという
普通の人には知りえないことをそのまま根拠にして、
「こうするのがいい」、「こうしなさい」と
その人の生き方や行動(「意志」)を束縛するのではなく、

それを伝えることで、
相手が自分で考え、
自分の責任で、自分の人生に対する決断が下せるように
「判断の材料」を提供するということです。

つまり、その人の「自由意志」を支えるためには、
相手の「意志」にではなく、「認識」に働きかける必要があるのです。

その意味では、
霊能者が知りえた「前世」や「運命」に関する情報は、
医師が患者の状態に関して持っている専門的知識にも共通しています。
ドクター・ハラスメントということばもあるように、
同じ診断結果を伝えるときも、
それによって患者の生きる意志を支えることも、
患者の生きる希望を打ち砕くこともできるのです。

あるいは、教師が子どもの発達に関する専門的知識をもって、
子どもにどう関わり、
その親とどのように話し合うか、という場面にも共通しているといえるでしょう。

つまり、シュタイナーが「薔薇十字」の2番目の条件として述べた
「他者の意志にではなく、認識に働きかけること」は、
医師、教師、カウンセラーなど、
「専門家」や「指導者」として
他者が抱える問題に向き合う人たちすべてに
共通して求められる基本姿勢なのです。

この薔薇十字の二つの条件においては、
第1の条件が、第2の条件の前提になっています。

第1の条件とは、
自分に降りかかってくることがらに対して、
「問いを持ち続けること」。
それはすなわち、自分の運命に対して
「認識を求める姿勢」で向き合うということです。
自分の運命の意味を知ろうとする態度は、
自分の人生に対する主体性、
自分の人生の主人公として生きようとする意志につながっています。
自分の運命を、自分自身で意味づけることができたとき、
その人は、自分の人生に対して、責任をもって向き合うことができます。

この「意味づけ」は、人生の当事者自身によってしかなされえないことです。
霊的な指導者が、「あんたの人生の意味は…」と言ったとしても、
それは本当の意味づけにはならないのです。

そして、この「自分の人生への態度」が、
第2の条件である、「他者への関わり方」の前提になっているのです。

      ☆  ☆  ☆

錬金術師・魔術師であり、
近代医学の祖ともされるパラケルススが、
「最高の薬は、医師のなかのアルカヌムである」と言っています。

アルカヌムというのは、「秘密奥義」とか「秘薬」と訳され、
その複数形の「アルカナ」は、
タロットの「大アルカナ」と「小アルカナ」につながるのですが、
僕は、パラケルススのいうアルカヌムは、
一人ひとりの「自我」のことだと思っています。

シュタイナーは、医術には二つの源泉があると言っています。
一つは「エーテル(生命力)」。
もう一つは「自我」です。

この意味での「自我」は、シュタイナーにとって
「教育」の源泉でもありました。

ただし、この「自我」は、
「自分の自我を他者に押し付ける」ことによっては、
「秘薬」としては作用しません。
その場合、自我は「破壊」作用しかもたらしえないのです。

自我が治療的に働くためには、
「私」自身が自分の人生に対して、
問いを持ち続け、認識を求め続けなければならない。
つまり、医師であれ、教師であれ、
あるいは霊能者であれ、
およそ人類に対して「治療者」であろうとする人は、
自分自身が問いを持ち、
自分自身の運命に対して、認識を求めて格闘していなければならないのです。
そして、そこに働く「自我」だけが、
シュタイナーのいう「地下の通路」を通って、
教師であれば、子どもたちの自我に、
医師であれば、患者の自我に
治療的な作用を及ぼすのです。

自分が真剣に生きている人は、
他者の人生に対しても真剣に向き合うことができます。
その根底にあるのが、
「人間の運命と個人の意志」に対する畏敬の念なのです。

たとえ口調が厳しかったり乱暴であったりしても、
その人が自分に対して、深いところで敬意をもっているかどうかは、
相談者の側でも感じられます。

霊能者が本物であるかどうか。
それはその人の「見える」ということよりも、
その人自身がどう生きているか、
その人の「自我」のあり方によって決まってくる。

それが、僕がいま考える
「霊能者の見分け方」です。

アントロポゾフィー指導原理(6)

2007-09-08 08:57:48 | 霊学って?
6.
自然のなかの「生命のない領域」に目を向けてみよう。
そこに見出されるのは、法則性をもって相互に関連し合う世界である。
そうした関連性を探求するとき、
それらの関連性は「自然法則の内容」として見えてくる。
しかしまた、それらの自然法則を通して、
自然のなかの「生命のない領域」は、
地球と結びついて一つの全体を成している、ということも見えてくる。
次に、まなざしを
すべて生命なきもののなかに働く「地球との関連性」から、
生命をもった植物界へと移してみよう。
すると、「地球外の世界」が、空間の広がりのなかから力の作用を送り込み、
それらの作用が、生命なきものの内部から、生命を引き出していることが分かる。
生命あるもののなかには、単なる「地球との関連性」には収まらない本性が宿っている。
この本性は、宇宙空間の広がりから地球へと働きかけている力を開示する。
まったく目立たない植物のなかにも、地球外の光の本性が認められる。
それはちょうど、目の前の輝く対象物が、
目のなかに見出されるのと同様である。
そのように考察のまなざしを「上昇」させることによって、
生命なきもののなかに働く「地球・物質」的なものと、
生命をもったもののなかに作用する「地球外・エーテル」的なものとの違いを
見ることができる。(訳・入間カイ)

6.
Wenn man den Blick auf die leblose Natur wendet,
so findet man eine Welt, die sich in gesetzmäßigen Zusammenhängen offenbart.
Man sucht nach diesen Zusammenhängen
und findet sie als den Inhalt der Naturgesetze.
Man findet aber auch, daß durch diese Gesetze
die leblose Natur sich mit der Erde zu einem Ganzen zusammenschließt.
Man kann dann von diesem Erdenzusammenhang, der in allem Leblosen waltet,
zu der Anschauung der lebendigen Pflanzenwelt übergehen.
Man sieht, wie die außerirdische Welt
aus den Weiten des Raumes die Kräfte hereinsendet,
welche das Lebendige aus dem Schoße des Lebenslosen hervorholen.
Man wird in dem Lebendigen das Wesenhafte gewahr,
das sich dem bloß irdischen Zusammenhange entreißt
und sich zum Offenbarer dessen macht,
was aus den Weiten des Weltenraumes auf die Erde herunterwirkt.
In der unscheinbarsten Pflanze
wird man die Wesenheit des außerirdischen Lichtes gewahr,
wie im Auge den Leuchtenden Gegenstand, der vor diesem steht.
In diesem Aufstieg der Betrachtung kann man den Unterschied
des Irdisch-Physischen schauen, das im Leblosen waltet,
und des Außerirdisch-Ätherischen, das im Lebendigen kraftet.
(Rudolf Steiner)


ここから「人間の自己認識」への歩みが始まります。
その第一歩としてシュタイナーが提案しているのが、
「生命なきもの」と「生命あるもの」との違いを明らかにすることです。

生命なきもの、つまり「物質界」は、
「地球とのつながり」のなかで完結している。
しかし、生命あるものは、
「宇宙とのつながり」なしには、存在しえない。
そこに基本的な違いがあるとシュタイナーは言うのです。

もちろん、宇宙のなかを、
あらゆる物質を貫いて飛び交うニュートリノのような素粒子は、
地球につなぎとめられるものではありません。
けれども、およそすべての物質は、
周囲から遮断され、隔離されたとしても、
その本性を失うことなく存在し続けます。
そして、地球の中心から、重力によって引きつけられ、
地球との関連性のなかで、
一つの完結した世界をつくっている。

けれども、植物に目を向けたとき、
その生命活動は、宇宙からの作用なしにはありえない。
生命なき物質のなかから、生命を引き出したのは、
宇宙の働きなのだ、ということです。

生物のからだの素材となる有機物は、
無機物にエネルギーが加わることによって生成されます。
そのエネルギーは、太陽光線を始め、
宇宙から降り注いでくるのです。

もちろん、地球の火山活動のように、
地球自身がもっているエネルギーも重要です。
その意味では、生命のもととなる有機物を用意するために、
地球自身の働きが前提となっていることは確かです。
深い海底のように、光が届かないところにも
生態系は存在します。

しかし、太陽光線のエネルギーがなかったなら、
遠い太古の時代に、
地球上に生命が発生することはなかったでしょう。

そして、光合成を行う植物は、
どんなに小さなものでも、
宇宙からの光の作用を体現している。

ちょうど私たちの眼が、
眼の前にかがやくものを見ているとき、
その眼のなかには、そのかがやく物体そのものが映しだされているように、
すべての植物のなかにも、
宇宙からの光が反映されているというのです。

そのようにして、
まずは「生命のない物質」を見つめ、
次に「生命のある植物」を見つめるとき、
(それをシュタイナーは「まなざしの上昇」というのですが)、
そこに見えてくる一番の違いは、
「地球との関連」と「宇宙との関連」ということです。

生命は、宇宙とのつながりなしには存在しえない。

それが、人間の自己認識の歩みにおける、
最初の一歩なのです。

アントロポゾフィー指導原理(5)

2007-09-03 14:39:37 | 霊学って?
5.
人間は、内的平静のために、
霊性における自己認識を必要とする。
人間は、思考、感情、意志のなかに自己を見出す。
しかし、この思考、感情、意志は、
人間本質における「自然性」に依存している。
人間の思考、感情、意志の働きは、
身体の健康、病気、活力や障害の影響を受けざるをえない。
通常の生活経験においては、
人間の精神活動は身体状態に限りなく依存している。
そのため、
こうした通常の生活経験のなかでは
自己認識が失われてしまうのではないか、
という意識が人間のなかに呼び覚まされる。
まず、次のような問いが痛みとともに生じてくる。
「通常の生活経験を超越した自己認識は存在しうるのか、
また真の自己を確実に知ることなどできるのか?」
アントロポゾフィーは、確実な霊性経験を基盤として、
この問いに答えようとする。
その際、アントロポゾフィーを支えるのは
「思いつき」や「信じること」ではなく、
霊性における体験である。
霊性における体験は、その本性ゆえに、
身体における体験と同様に確実なものである。(訳・入間カイ)

5.
Der Mensch braucht zur inneren Ruhe
die Selbst-Erkenntnis im Geiste.
Er findet sich selbst in seinem Denken, Fühlen und Wollen.
Er sieht, wie Denken, Fühlen und Wollen
von dem natürlichen Menschenwesen abhängig sind.
Sie müssen in ihren Entfaltungen
der Gesundheit, Krankheit, Kräftigung und Schädigung des Körpers folgen.
Jeder Schlaf löscht sie aus.
Die gewöhnliche Lebenserfahrung weist
die denkbar größte Abhängigkeit des menschlichen Geist-Erlebens
vom Körper-Dasein auf.
Da erwacht in dem Menschen das Bewußtsein,
daß in dieser gewöhnlichen Lebenserfahrung
die Selbst-Erkenntnis verloren gegangen sein könne.
Es entsteht zunächst die bange Frage:
ob es eine über die gewöhnliche Lebenserfahrung hinausgehende
Selbst-Erkenntnis und damit die Gewißheit über ein wahres Selbst
geben könne?
Anthroposophie will auf der Grundlage sicherer Geist-Erfahrung
die Antwort auf diese Frage geben.
Sie stützt sich dabei nicht auf ein Meinen oder Glauben,
sondern auf ein Erleben im Geiste,
das in seiner Wesenheit so sicher ist wie das Erleben im Körper.
(Rudolf Steiner)


人間の心は移ろいやすいものです。
自分が考えていたこと、感じていたこと、決意していたことが、
他人の些細なひとことや、
身に降りかかってきた出来事によって、
簡単に変ったり、覆ったりする。
身体の調子が悪ければ、気分も暗くなり、
ぐっすり眠れれば、すっきりした気持ちで目覚めることもある。

人間が自分の「自己」として感じられるのは、
そのような移ろいやすい自分の心の状態ではないでしょうか。

このような自分が「自己」であるなら、
私はこのまま生きていくなかで、
いずれ自分自身を見失ってしまうのではないか。
そもそも「本当の自分」なんていうものを
確実に見出すことなんてできるのだろうか。

おそらく人間は誰しも、
「自分」に関してそうした不安な思いを抱えている。
そのような不安な思いに対して
アントロポゾフィーは答えようとします。

ただ、アントロポゾフィーは
いろいろな理論を繰り出したり、
「信じなさい」と言ったりはしない。

自己というものを
日常の揺れ動く心のありように求めるのではなく、
自己を「霊性」のなかに体験する道を指し示そうとします。

ちょうど、
自分の心が身体状態の影響を大きく受けていることが実感できるように、
人間の自己は、霊性においてこそ実感できる。
それは身体体験と同じように、確かな体験だというのです。

僕にとって印象的なのは、
この第5項の一行目で、シュタイナーが
「自己認識のために内的平静が必要だ」とではなく、
「内的平静のために自己認識が必要だ」と言っていることです。

『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』に述べられているように、
神秘修行者は、「内なる静けさ」(innere Ruhe)のなかで、
「非本質的なものから、本質的なものを区別すること」を学ぶように
促されます。

非本質的なもの、というのは、
まやかしや、人々の噂や、自分のこだわりなど、
すべての「移ろいゆくもの」を指していると思います。
そのなかから、本当に大切なもの、
永遠に自分が抱いていくもの、
死と生を超えて関わりつづけるものを見出すこと。

おそらくそれは、
自分の人生の目標や理念を見据えることにつながるのではないか、
と思います。

つまり、本当に自分の人生の主人公として生きるためには、
内的平静が必要であり、
その内的平静を獲得するためには、
自己というものを「霊性」において認識することが必要である。
そのような「霊性における自己認識」への道を
この「アントロポゾフィー指導原理」は描きだしているように
僕には思えます。