シュタイナー思想の基本は、「からだ」をどう見るか、ということだ。
霊とか、自由とか、教育とか・・・、シュタイナーはどこか浮ついた、人を煙に巻くような話をしているように見えるかもしれないが、実は、すごく具体的である。自分の身体、それも目にみえる身体が、すべての出発点なのだ。
シュタイナーには、『アントロポゾフィー(人智学)断章』という書きかけの著作がある。それはおもに人間の感覚を論じた本なのだが、そこでシュタイナーは、アントロポゾフィーは、「目に見える」次元から出発して、そこに現れている「目に見えない」力の作用を探るのだ、と述べている。
シュタイナー思想では、エーテル体(生命体)とか、アストラル体(感覚体)といった「目に見えない体」を扱う。けれども、初めから、「エーテル体やアストラル体というものがありまして・・・」と決めつけるわけではない。目に見える身体を観察して、そこに現れている現象を読み解くなかで、「目に見えない体」に行き着くということだ。
たとえば、人間を外から眺めてみよう。いろいろな特徴が目につくだろうが、他の動物と較べても、三つのはっきりとした特徴を挙げることができるだろう。
第一は、「直立歩行」である。背骨をもつ動物たちの多くは、その背骨を地面に平行にして移動する。背骨を地面に垂直にして、直立歩行するのは、人間とサルたちだけである。
第二の特徴は、「ことば」である。サルやイルカなどが、言語的なコミュニケーションをもっているとしても、「ことば」を使って恋愛小説を書いたり、難解な議論を繰り広げたりするのは、人間だけだ。
第三の特徴は、「考える」ということである。身近なネコやイヌといった動物たちも、いろいろなことを感じ、考えているように見えることがあるが、「人は何のために生きているのか?」とか、「私はどこから来て、どこへ行くのだろうか?」などということをあれこれ考えるのは、人間だけだろう。
この直立歩行、言語(ことば)、思考という三つの特徴が、人間を見たときにもっともはっきりした特徴として目につくことには、異論を唱える人はそれほどいないだろう。
シュタイナーの身体観、もしくは人間観を理解するうえで、まず押さえておくべきところが、この直立歩行、言語、思考ということである。
それでは、人間が直立姿勢で歩き、ことばを話し、考える生き物であるとして、この三つの活動はどこから来るのだろうか?
それを考える前に、シュタイナー思想のもうひとつの基本的な観点である、「内と外」という見方を説明しておきたい。
ここでいう「内」とは、内面のことである。心とか、魂とか、精神と呼ばれるもの。人が自分の「内」に感じるものだ。
それに対して、「外」とは、人間が、眼や耳や皮膚の触覚といった感覚器官を通して、自分の外に知覚するものである。
シュタイナーにとって大事なのは、この「内」と「外」がつながっているという観点である。なぜそれが大事かといえば、現代文明は、もっぱら「外」からの視点によって発達してきたからだ。人間を理解しようとして、身体を解剖し、細部へ細部へと分け入っていく。しかし、たとえ人体の内臓を取り出したところで、それは本当の「内」ではない。どこまで行っても、「外」から見ていることには変わりないのだ。
そこで、「内」から見ることが重要になる。すべてのものは、外からだけでなく、内からも見ることができる。そして、内から見たとき初めて、本質が見えてくる。
しかし、先にも述べたように、出発点はあくまでも「外」からの視点である。見たり、聞いたり、触ったりできるもの、つまり感覚で捉えられるものを丁寧に観察することが必要なのだ。そのうえで、外からのまなざしを「内」に転換する。それがアントロポゾフィーのものの見方である。
そのような「外」と「内」という観点から、人間の三つの特徴である直立歩行、言語、思考を見たとしたら、どうなるだろうか?
この三つの特徴が、いちばんはっきり現れるのが「子ども時代」である。はいはいしていた赤ちゃんがおすわりするようになり、やがて立ち上がる。それはすべての親が目撃する最初の大きなドラマのひとつであろう。
それでは、この「外」からも眼でみることができる「立ち上がる」という現象を、「内」から見るというのは、どういうことになるだろうか?
それは具体的にいえば、実際に幼い子どもが立ち上がる場面を丁寧に観察しながら、そのとき自分の内面に立ち現れる考えや感情に気をつけるということだ。
たとえば、こんな思いが生じてくるかもしれない。
人間は、立ち上がることによって両手が自由になる。他の四足歩行をしている動物たちとは違って、人間は手が発達し、器用にものをつかみ、鉛筆を握り、キーボードをたたくことができるようになる。人類が始まって以来、人間がこの地上に創り出してきた善きものも、悪しきものも、すべては、人間が立ち上がり、手を使うことによって可能になった。
人間が「立ち上がる」ことを「内」から見つめたとき、そこに「創造への意志」が見えてくる、ということがあるのではないか。
ただし、このように書いていると、単に理屈を言っているだけに聞こえるかもしれないが、重要なのは、実際にあるがままの現実を観察しつつ、自分自身の感情や思考をも一種の「内なる感覚器官」としてもちいる、ということなのである。(つづく)
霊とか、自由とか、教育とか・・・、シュタイナーはどこか浮ついた、人を煙に巻くような話をしているように見えるかもしれないが、実は、すごく具体的である。自分の身体、それも目にみえる身体が、すべての出発点なのだ。
シュタイナーには、『アントロポゾフィー(人智学)断章』という書きかけの著作がある。それはおもに人間の感覚を論じた本なのだが、そこでシュタイナーは、アントロポゾフィーは、「目に見える」次元から出発して、そこに現れている「目に見えない」力の作用を探るのだ、と述べている。
シュタイナー思想では、エーテル体(生命体)とか、アストラル体(感覚体)といった「目に見えない体」を扱う。けれども、初めから、「エーテル体やアストラル体というものがありまして・・・」と決めつけるわけではない。目に見える身体を観察して、そこに現れている現象を読み解くなかで、「目に見えない体」に行き着くということだ。
たとえば、人間を外から眺めてみよう。いろいろな特徴が目につくだろうが、他の動物と較べても、三つのはっきりとした特徴を挙げることができるだろう。
第一は、「直立歩行」である。背骨をもつ動物たちの多くは、その背骨を地面に平行にして移動する。背骨を地面に垂直にして、直立歩行するのは、人間とサルたちだけである。
第二の特徴は、「ことば」である。サルやイルカなどが、言語的なコミュニケーションをもっているとしても、「ことば」を使って恋愛小説を書いたり、難解な議論を繰り広げたりするのは、人間だけだ。
第三の特徴は、「考える」ということである。身近なネコやイヌといった動物たちも、いろいろなことを感じ、考えているように見えることがあるが、「人は何のために生きているのか?」とか、「私はどこから来て、どこへ行くのだろうか?」などということをあれこれ考えるのは、人間だけだろう。
この直立歩行、言語(ことば)、思考という三つの特徴が、人間を見たときにもっともはっきりした特徴として目につくことには、異論を唱える人はそれほどいないだろう。
シュタイナーの身体観、もしくは人間観を理解するうえで、まず押さえておくべきところが、この直立歩行、言語、思考ということである。
それでは、人間が直立姿勢で歩き、ことばを話し、考える生き物であるとして、この三つの活動はどこから来るのだろうか?
それを考える前に、シュタイナー思想のもうひとつの基本的な観点である、「内と外」という見方を説明しておきたい。
ここでいう「内」とは、内面のことである。心とか、魂とか、精神と呼ばれるもの。人が自分の「内」に感じるものだ。
それに対して、「外」とは、人間が、眼や耳や皮膚の触覚といった感覚器官を通して、自分の外に知覚するものである。
シュタイナーにとって大事なのは、この「内」と「外」がつながっているという観点である。なぜそれが大事かといえば、現代文明は、もっぱら「外」からの視点によって発達してきたからだ。人間を理解しようとして、身体を解剖し、細部へ細部へと分け入っていく。しかし、たとえ人体の内臓を取り出したところで、それは本当の「内」ではない。どこまで行っても、「外」から見ていることには変わりないのだ。
そこで、「内」から見ることが重要になる。すべてのものは、外からだけでなく、内からも見ることができる。そして、内から見たとき初めて、本質が見えてくる。
しかし、先にも述べたように、出発点はあくまでも「外」からの視点である。見たり、聞いたり、触ったりできるもの、つまり感覚で捉えられるものを丁寧に観察することが必要なのだ。そのうえで、外からのまなざしを「内」に転換する。それがアントロポゾフィーのものの見方である。
そのような「外」と「内」という観点から、人間の三つの特徴である直立歩行、言語、思考を見たとしたら、どうなるだろうか?
この三つの特徴が、いちばんはっきり現れるのが「子ども時代」である。はいはいしていた赤ちゃんがおすわりするようになり、やがて立ち上がる。それはすべての親が目撃する最初の大きなドラマのひとつであろう。
それでは、この「外」からも眼でみることができる「立ち上がる」という現象を、「内」から見るというのは、どういうことになるだろうか?
それは具体的にいえば、実際に幼い子どもが立ち上がる場面を丁寧に観察しながら、そのとき自分の内面に立ち現れる考えや感情に気をつけるということだ。
たとえば、こんな思いが生じてくるかもしれない。
人間は、立ち上がることによって両手が自由になる。他の四足歩行をしている動物たちとは違って、人間は手が発達し、器用にものをつかみ、鉛筆を握り、キーボードをたたくことができるようになる。人類が始まって以来、人間がこの地上に創り出してきた善きものも、悪しきものも、すべては、人間が立ち上がり、手を使うことによって可能になった。
人間が「立ち上がる」ことを「内」から見つめたとき、そこに「創造への意志」が見えてくる、ということがあるのではないか。
ただし、このように書いていると、単に理屈を言っているだけに聞こえるかもしれないが、重要なのは、実際にあるがままの現実を観察しつつ、自分自身の感情や思考をも一種の「内なる感覚器官」としてもちいる、ということなのである。(つづく)