入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

ジェンダー・フリーとシュタイナー

2007-02-11 20:44:12 | フェミニズム
アントロポゾフィーに関して、僕にはこれを言わずには死ねないと思うくらい大事な事柄がいくつかある。その一つが、「アントロポゾフィーはフェミニズムだ」ということである。

フェミニズムというと、ただ女性に親切にしたり、男も家事を率先してやったり、男女平等を説くことのように誤解されることが多い。僕のような「男性」がフェミニズムの重要性を口にすれば、それこそ単に「いい人」になろうとしているように思われてしまう。
でも、僕の理解するフェミニズムは、これまでおそらく何千年もの間、ずっと人々の思考を縛ってきた世界観を覆す、革命的な思想なのだ。
そして、もしアントロポゾフィーがフェミニズムとしての自己認識に到らなければ、アントロポゾフィーが本来持っている革命的な力も塞がれたままに終わるだろうと思っている。

これはただ単なる僕の思いつきではない。
実際、シュタイナーの思想は、フェミニズムとして読み解くことができる。
たとえば、シュタイナーは、「あなたの著作のなかで千年後も価値を失わないものがあるとすれば、それは何だと思うか?」という問いに対して、『自由の哲学』を挙げたと伝えられる。この書の執筆に取り掛かっている頃、つまりシュタイナーが20代、30代の頃に交流していたのが、女権運動の先駆けとして知られるローザ・マイレーダーだった。シュタイナーは、マイレーダーを生涯尊敬し続け、オカルティストになってからもたびたび講演などで彼女の新しい作品を取り上げては肯定的に扱っている。それに対して、マイレーダーのほうは、シュタイナーの訃報に接したとき、「この人は、自分のことを頻繁に取り上げていたようだが、自分には大きな感慨はない。この人の講演に何千人もの聴衆が集まったというのは理解しがたい」というようなことを日記に書いている。僕は、マイレーダーのこの一文を読んだときは、シュタイナーが可哀そうでならなかった。

その『自由の哲学』のなかで、シュタイナーは「類概念」ということばを取り上げ、その典型的な例として「男」と「女」を挙げている。つまり、一人ひとりの人間を「個」としてではなく、男とか、女という「類概念」で一括りにしてしまう捉え方のことだ。そして、現在では、男性よりも女性のほうが、個人として認められず、「女」として一括りにされることで苦しんでいると述べている。
この本が19世紀の終わり、1894年に出版されたことを思えば、どれほどシュタイナーの意識が時代を先取りしていたかが分かる。そして、僕が注目したいのは、シュタイナーがこの「男と女」の問題を「認識」の問題として取り上げているということである。
つまり、男や女という「類」で捉えている限り、一人ひとりの個人は見えてこないのである。

ここでシュタイナーが男と女の「類概念」と言っていたことは、現代では「ジェンダー」として社会学の重要な用語になっている。
ジェンダーというのは、要するに、社会的・文化的に規定された「男らしさ」や「女らしさ」のことで、生物学的な性=「セックス」とは区別される。つまり、男だから力強く逞しくなければならないとか、女だから優しくなければならないとか、家を守り、夫を支えなければならないとかいった「社会からの期待」がジェンダーなのだといえると思う。
そうした社会からの期待は、西洋と東洋とか、先進国といわゆる未開の部族の人たちなど、文化の違いによってさまざまに異なっている。だから、そういった「男らしさ」や「女らしさ」は生物学的に決定された事実ではなく、人間によって文化的につくられたイメージなのだ。
シュタイナーが『自由の哲学』で論じたように、一人ひとりの人間の個性を見ようとすれば、類概念=ジェンダーのイメージに捉われずに、「個」に目を向ける必要がある。
その意味で、最近、日本で言われるようになった「ジェンダー・フリー」という言葉は、「ジェンダー(類概念)から自由な」見方を提唱しているという点で、シュタイナー思想に直結する重要な考え方を示していると思う。

ところが、この数年の間に、このジェンダー・フリーという言葉が猛烈な勢いで攻撃されている。僕個人は、この攻撃には、アントロポゾフィーそのものへの攻撃とも感じられるくらいの痛みを感じている。この攻撃は、ただの男たちの反撥というだけで済まされるものではない。そこで攻撃されているのは、人間の「自由への衝動」なのだ。

というのも、この「男と女」の問題は、若い頃のリベラルな思想家としてシュタイナーが取り上げたというだけではなく、その後の霊学の基本にもつながっていくからである。そのことがもっとも端的に現れているのが、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか?』(原題『いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか』)という本である。
この本をよく読むと、シュタイナーが言っている「神秘修行」とは、実は「ジェンダー・フリー」の視点を獲得することから始まることが分かる。もしシュタイナーが現代の日本に生きていれば、必ずジェンダー・フリーに言及していたに違いないと僕は思う。
つまり、人間は社会生活を営むうちに、ありとあらゆる偏見や先入観を植え付けられる。この人は男か女か、肌の色はどうか、どういう経歴の持ち主か、社会的地位はどうかなどなど。そういった予断を取り払い、目の前の人間をあるがままに見ること。それによってシュタイナーのいう「霊眼」は開かれるのである。新約聖書のイエスの言葉でいえば、「眼のなかの丸太を取り除く」ということになるだろうか。

こういったことは、「よき社会人」の常識としては重要だとしても、「霊的修行」に関係があるとは考えにくいかもしれない。けれども、まさにそこに『自由の哲学』のなかで、「男と女」が「認識の問題」として取り上げられている意味があるのだ。
「男らしさ」「女らしさ」というのは、もっとも根源的な社会的偏見の一つである。そこに他のありとあらゆる偏見や予断が連なっている。そして、もう一つの大きな偏見ないし先入観が、「この世は物質であり、精神という眼にみえないものは私の内面のなかにしか存在しない」という二元論である。『自由の哲学』を出発点として、その後のシュタイナー思想の展開を追っていくとき、「男と女」をめぐる偏見が、人間の精神・物質二元論と深くつながっていることが見えてくる。

ただ、シュタイナーはそのように明確には書かなかった。けれども、たとえば『アカシャ年代記』のなかの「男と女の秘密については、現在はまだそのヴェールを取り払うことが許されていない」という一見思わせぶりな表現のなかに、いかにシュタイナーがこの問題をきわめて重要な、本質的なものと捉えていたかがうかがわれる。僕の考えでは、シュタイナーのこの表現は単なる「思わせぶり」ではなく、時代の制約があったのではないかと思う。つまり、まだ同性愛が違法で、女性参政権も実現していなかった時代なのだ。そもそも霊的な問題を取り上げることだけでも、もはや正統な学者とは見なされず、大変な無理解にさらされるのに、さらに「男と女に関する偏見を取り除くことが、霊的修行の第一歩である」と書いたとすれば、まったく相手にされなくなったのではないか。

しかし、シュタイナーの死後、時代は大きく代わり、人々は公民権運動を経験し、同性愛結婚が合法化されたり、同性愛者の牧師が誕生したりするようになった。性同一性障害についても知られるようになり、「男と女」について様々な角度から議論されている。今はむしろ「男と女の秘密について、そのヴェールを取り払う」努力がなされるべき時に来ていると思う。

エヴリン・フォックス・ケラーという人の『ジェンダーと科学』(工作舎)を読むと、これまで「客観的」で「中立」と考えられてきた近代自然科学が、いかに男性の心性によって営まれてきたかが分かる。近代科学の立役者であるフランシス・ベーコンは、真理を女性と見立て、その後を追い回すというイメージを使っていた。しかし、それ以上に重要なのは、これまでの自然科学においては、主体は常に研究者の「私」の側におかれ、研究対象は「object」(モノ)として、そこからは一切の主体性が奪われるという指摘である。研究対象に感情移入などすれば、その研究は客観的なものではありえない、というのが自然科学の主張だった。しかし、そこには研究の対象となるものもまた「主体」でありうるという認識が欠如していたのである。そこから、環境破壊や殺戮に使用されるような技術の開発につながる、いわば「血の通わない」科学が生じてくる。それは実は客観的なものなどなく、極めて男性的な心性によるバイアス(偏り)を受けているのである。
僕自身が感銘を受けたのは、そのようなバイアスのなかに、対象とじかに関わることへの男性の「恐れ」があると指摘されているところである。

なぜなら、僕には、確かに男性のなかには、そのような「恐れ」があると感じられるからだ。以前、多田富雄さんが「女は存在、男は現象」と書いておられたが、生物学的な存在の基盤は女性であり、男性はそれが変化したものであるということも、男の「寄る辺なさ」の背景にあるのかもしれない。

ただ、これはあくまでも一般論であり、ジェンダー・フリーというからにも、男性性、女性性の明確な定義も必要だろう。僕自身の考えでは、「男性性」と呼ばれているものは、ゲーテに倣って「分けていく心性」(das Trennende)、女性性と呼ばれているものは「結びつけていく心性」(das Verbindende)と言い換えることができるのではないだろうか。
つまり、この二つの心性は、生物学的な男女を問わず、基本的にすべての人に備わっている。しかし、一般に男性のほうが、「分けていく心性」が強く、女性のほうが「結びつけていく心性」が強いといえるのではないだろうか。

僕がこのように考えるようになったのは、三枝和子さんの『女の哲学ことはじめ』(青土社)という本を読んでからのことである。この本のなかで、三枝さんは、一般に、男は他人に打ち勝つことで自分を確認しようとし、女は他人とのつながりのなかで自分を確認しようとする傾向があるようだと書いている。つまり、男は、自分と他人とは違うこと、その差異や優劣を明らかにすることで、自己を確認しようとする。それに対して、女は、自分と他人との共通点や共同作業を通して、自己を確認しようとする、ということではないだろうか。そのような自己意識のあり方が、男性の思考と女性の思考にも影響を及ぼしている。そして、古代ギリシャ以来、哲学はおもに男性の思考によって形成されてきたと三枝さんは言うのである。
これを「分析的思考」と「総合的思考」というように言うこともできるだろう。いずれにしても、本来の科学や哲学にとっては、この二つの思考の働きはどちらも必要である。しかし、近代科学の発展のなかでは、男性的な、つまり分析的な思考、分けていく思考が優位に働いていたといえるだろう。そして、それが競争原理や「弱肉強食」の考え方の背後にあったと思う。

ところで、ゲーテはこの二つの思考のあり方をはっきり意識していた。そして、近代科学の発展を支えたガリレイやニュートンに関して、「彼らは自然を拷問にかけ、無理やり真理を自白させようとしている」という表現で自分の違和感を表明したのである。これは先のエヴリン・フォックス・ケラー氏がフランシス・ベーコンを引用して指摘したことと非常に共通している。さらに言えば、ケラー氏が目指している新しい科学とは、シュタイナーが目指したゲーテ主義的な自然科学、つまりアントロポゾフィー的霊学そのものではないかとさえ思えるのである。

というのも、シュタイナーやゲーテのいう「霊」とは何かといえば、世界のなかに存する「主体」(私)のことに他ならないからである。しかし、自我をもった人間の意識構造ゆえに、世界は「主体」と「客体」に分裂して現れる。この二元論においては、主体はどこまでも「私」の内面のなかに集約され、客体は「私」から切り離されて、単なる「対象」(モノ)に還元されてしまう。
「私」から切り離されたモノは、単なる物質であり、感情や思考をもたない。たしか上野千鶴子氏が『発情装置』という本のなかで、「ある男性は、自分が寝ている相手の女性も、自分と同じように<考えている>ということを思った途端、性欲が減退した」という話を書いておられたと記憶しているが、そのように男性には女性をモノと見なしてしまう傾向があるように思う。もちろん、この傾向は男性だけではなく、女性にもあるわけだが、男性のほうがその傾向を強く持っているのではないかと思うのだ。
しかし、霊的修行という場合には、相手のなかに、目にはみえない感情や思考、すなわち相手の「私」を感じることが第一歩となる。

そして、ゲーテやシュタイナーの思想の基本は、この世界はすべて、ひとつの普遍的な「主体」(それを「自然」と呼んだり、「霊」と呼んだり、「私」と呼んだりするわけだが)が、さまざまな形で現れた(個体化・個別化された)ものであり、人間においては、それが「私」という一人称で自覚されるということである。

すべてのものは、みずからを表そうとする意志を持っている。それは植物であれ、動物であれ、人間であれ、変わらない。そして、すべての存在が自己を表す権利を持っている。しかし、その権利を権利として言語化し、認識できるのは、人間だけである。そこに人間の「責任」があり、シュタイナーが「人間の知恵」としてのアントロポゾフィーを強調した理由もある。

そして、これが『自由の哲学』の一番の主題なのだが、人間の場合には、自分の内側から表出しようとする「意志」と、現在の自分とが初めから一致していない。社会からの規範―その最たるものが「男らしさ」「女らしさ」というジェンダーなのだが―に捉われることなく、自分の意志を感じ取り、自分が「好き」なこと、自分が「愛」を感じられる行為を行って生きていくことで、人間における真の個性化が実現する。つまり、一人ひとり完全に異なる個性の表出のなかに、普遍的な「人間」という概念が現れるのだ。その意味で、人間の使命とは、一人ひとりが自己に忠実に生きることである。そして、そのように生きられることを、シュタイナーは「自由」と呼んだ。シュタイナーのいう自由とは、自己との一致のことである。

したがって、ジェンダー・フリーという言葉には、シュタイナーの『自由の哲学』のエッセンスがこめられているとさえ、僕には思えるのである。

よく「ジェンダー・フリーは和製英語で、ちゃんとした学術用語ではない」という非難が聞かれるが、僕にはそういう実感はない。遺伝子操作をしていない食物をGM-freeといい、テレビを見ない状態をTV-freeと言ったりするように、gender-freeは立派な英語の単語である。もちろん、英語も日本語と同様に、同じ一つの言葉であっても、どのような文脈で、どのような意識のもとに使うかによって、そこにこめられた意味は違ってくる。アメリカのフェミニストに対して、ジェンダー・フリーという言葉を使っても、日本で使われているような意味では理解されないという話もある。しかし、アメリカのフェミニズムの語法がすべてを決めるわけではないだろう。むしろ、日本の文化的・社会的な文脈のなかで、このジェンダー・フリーという語がどのように出現し、どのような議論を生んでいるかということを伝えることのほうが、日本からの発信になるのではないだろうか。僕は英語で、アメリカの知人相手に「シュタイナーの霊学(spiritual science)は、ジェンダー・フリーな科学だと思う」という話をしたことがあるが、とてもよく理解してもらえた記憶がある。むしろ、英語は世界共通語になりつつあるのだから、日本人も、自分自身の言葉として英語を使えばいいと思う。もちろん、あらかじめ自分はこの言葉をどういう文脈でもちいるのかを説明しておく必要はあるけれども。ともかく僕は、このジェンダー・フリーという語に関して、本国アメリカではこういう使い方はしないというような言い方には、とても違和感を覚えるのである。

そして、このジェンダー・フリーに関して、僕が一番言いたいのは次の点である。
ジェンダー・フリーを敵視する男性の政治家の多くは、「男女平等」には反対しないという。以前、鹿児島で上野千鶴子氏の講演を聞いたとき、大いに共感しながらも、ただ一点だけ違和感を覚えたところがあった。それは上野さんが「ジェンダー・フリーと男女平等は同じことなのだから、ジェンダー・フリーという言葉が嫌だったら、男女平等と言えばいい」と言っておられたところである。
僕はどうしても、日本でジェンダー・イクォリティ(平等)ではなく、ジェンダー・フリー(自由)という言葉が使われるようになったことに意味があると思うのだ。なぜなら、「平等」と「自由」とは、明確に区別される必要があると思うからである。男女平等はもちろん大事であり、すべての基本だと思う。しかし、ジェンダー・フリーが攻撃されるのは、それが「革命的」であり、これまでの男性社会の意識構造を根底から覆すものだからだ。ジェンダー・フリーは、一人ひとりに「みんな違って当たり前」と、「自己との一致」をうながす言葉なのだ。
ジェンダー・フリーを攻撃する人たちは、大概、今の憲法に反対し、教育基本法の改変に賛成であった人たちである。
今、日本で何が起こりつつあるかといえば、一人ひとりの「個」の発現、「自由への衝動」がますます抑え込まれてきているということである。
それはアントロポゾフィーの根幹に関わることなのだ。

(上の写真は、シュタイナーと交流のあった女権運動の先駆者ローザ・マイレーダー)