入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

アントロポゾフィー指導原理 (18)

2008-02-07 21:22:38 | 霊学って?
18.
霊(精神)はこれら三つの世界領域のなかで創造的に存在している。
自然に霊がないわけではない。
人は、自然のなかの霊に気づかないかぎり、
認識のなかで自然を見失うことになるだろう。
ただし、自然存在のなかでは、霊はいわば眠ったものとして見いだされる。
人間の生活のなかでは、眠りには果たすべき役割がある。
《私》(自我)は、ある時間帯に目覚めているために、
一定時間の睡眠を必要とする。
同様に、宇宙の霊もまた、別の場所で目覚めるために、
《自然という場》では眠っていなければならないのである。(訳・入間カイ)

18. Der Geist ist in diesen drei Weltgebieten schaffend. Die Natur ist nicht geistlos. Man verliert erkennend auch die Natur, wenn man in ihr den Geist nicht gewahr wird. Aber man wird allerdings innerhalb des Naturdaseins den Geist wie schlafend finden. So wie aber der Schlaf im Menschenleben seine Aufgabe hat und das «Ich» eine gewisse Zeit schlafen muß, um zu einer andern recht wach zu sein, so muß die Weltengeist an der «Natur-Stelle» schlafen, um an einer andern recht wach zu sein. (Rudolf Steiner)


この第18項は、日本人やアジアの人々には理解しにくいかもしれません。
「自然に霊がないわけではない」などというのは、
西洋の人間でないかぎり、わざわざ口にすることばではないかもしれません。
ただ、ここでいう「自然」は、「自然科学」が研究対象とする自然です。
つまり、モノ、物質の世界です。
前項(第17項)の、体、魂、霊との関連で、自然に言及しているわけです。

現代の自然科学や医学が「モノ」と見なしている、私たちの身体。
そこにも「霊」(精神)は創造的に働いているのです。
ただ、物質のなかにある霊は「眠って」います。

私たち人間が夜、眠っている間も、生命活動は続いています。
同様に、物質のなかでも、霊の創造活動は続いているのです。

私たち人間のなかでは、「霊」(精神)は、「私」として意識されます。
たとえば、ひとつの石ころを手にとってながめるとき、
「私」が手のなかの「石」(モノ)を見ています。
私はここにいて、モノがそこにあります。
私のなかの霊(精神)は目覚めていて、
石のなかの霊(精神)は眠っています。

ここにも、個別と普遍の謎があります。
「霊」(精神)は普遍であり、すべての次元を貫いて存在しています。
しかし、その普遍の霊は、一人ひとりの個別の「私」のなかで、
「私」として目覚めているのです。
そして、人間の「私」という「場所」のなかで目覚めるために、
普遍の霊は、物質のなかでは眠っていなければならない、というのです。

この普遍の霊を、シュタイナーは「宇宙の霊」(世界精神)と呼んでいます。
ドイツ語のWeltengeistは、宇宙の霊とも、世界の霊とも訳すことができます。

「霊=Geist」(ガイストと発音します)ということばは、「精神」とも訳されます。
重要なのは、これまでも何度も述べてきたように、
このことばが、一人ひとりの人間、もしくは一つひとつの物事の「本質」を表すと同時に、
すべてを貫く「普遍性」を表してもいるということです。
シュタイナーは、「個」と「普遍」を包括する概念として、
この「ガイスト」ということばを使っているのです。

人間の外に、地球上のすべてのものに浸透し、
宇宙の果てまで広がる普遍の精神、
その広大な精神が、一人ひとりの人間のなかで、
「私」として目覚めるのです。

この第18項では、「眠り」ということばを鍵として、
一見、何の意識や意志ももたずにころがっているモノも、
そのモノをながめている一人ひとりの「私」の目覚めた精神も、
宇宙に広がる普遍の精神においてつながっている、
すべての存在のなかに、「霊」(精神)が創造しつつ働いている、
という視点が示されています。

アントロポゾフィー指導原理 (17)

2008-02-06 10:06:00 | 霊学って?
17.
人間は、二つの世界領域の真ん中で、その生命を展開する存在である。
人間は、その「体的進化」によって《下方世界》に組み込まれている。
また、その「魂的本性」によって《中心世界》を形成し、
その「霊的諸力」によって《上方世界》を目指している。
人間は、自然が与えてくれたものによって《体的進化》を得ている。
また、その《魂的本性》を、自分自身の領分として、自己のなかに担っている。
そして、自分自身を超えて、
神的世界への参加へと導いてくれる「贈り物」として、
自らの内に《霊的諸力》を見いだすのである。(訳・入間カイ)

17. Der Mensch ist ein Wesen, das in der Mitte zwischen zwei Weltgebieten sein Leben entfaltet. Er ist mit seiner Leibes-Entwickelung in eine «untere Welt» eingegliedert; er bildet mit seiner Seelen-Wesenheit eine «mittlere Welt», und er strebt mit seinen Geisteskräften nach einer «oberen Welt » hin. Seine Leibes-Entwickelung hat er von dem, was ihm die Natur gegeben hat; seine Seelen-Wesenheit trägt er als seinen eigenen Anteil in sich; die Geisteskräfte findet er in sich als die Gaben, die ihn über sich selbst hinausführen zur Anteilnahme an einer göttlichen Welt. (Rudolf Steiner)


この第17項から、人間の「霊・魂・体」の三重性を踏まえて、
具体的な「霊学」の内容に踏み込んでいくことになります。

ここでいう「二つの世界領域」は、
簡単にいえば、「地球」と「宇宙」ということです。
「下方」には地球があり、「上方」には宇宙の広がりがあります。
人間の「体」は、地球に根ざしています。
ここで注目したいのは、
シュタイナーがただ「体」とか「身体」といわずに、
「体的進化」という言い方をしていることです。
ドイツ語では、「進化」=Entwicklungということばは、
ちょうど「巻き物」のようなイメージで、
内にあるものが外へめくれて広がるという意味です。
「発達」「発展」と訳すこともできます。
英語のdevelopmentにも同じイメージがあります。

現在の「私」がもっている身体は、
この地球上で、遺伝の流れを通じて受け継がれてきた素材から
つくられています。
人間の身体は、地球上の生命進化の流れに組み込まれているのです。

次に、人間は、
「魂的本性」によって「中心世界」を形成します。
ここで重要なのは、
魂の次元では、人間は「組み込まれている」のではなく、
みずから「形成する」ということです。
以前にも触れたように、
魂は、一人ひとりの個人にかかわる領域です。
一人ひとりが自分だけの「魂の世界」をもっています。
魂においては、人間は完全に孤独なのです。
自分だけの「中心世界」を形成し、
自分だけの内面を抱いて生きているわけです。

そして、「霊的諸力」ということば。
「諸力」というのは聞き慣れない日本語ですが、
「力」が複数であることを示すために「諸」を付けたものです。
人間には、宇宙につながるいくつもの「力」が備わっています。
それらは、神々が人間に与えた「贈り物」です。
一人ひとりの人間は、自分自身のなかに、それらの贈り物を見つけだすのです。
そして、それらの力を使って、
自分の「個人性」(魂の次元)を超えて、
普遍的な宇宙を「目指す」のです。
ここで「目指す」と訳したことばは、ドイツ語ではstreben、
「努力する」という意味です。

人間にとって、もっとも大切と感じられるのは、
自分自身が内面につくりあげてきた個人性や感性です。
だれにでも自分だけの「こだわり」があります。
自分の感性にこだわり、自分の生き方をつらぬいていくことで、
自分の人生を生きたという実感も湧いてきます。
けれども、自分の「こだわり」にとらわれてしまうと、
宇宙とのつながり、
普遍性とのつながりを失ってしまいます。
それは実は「他者」とのつながりでもあるのです。

人間は実は、一人ひとりの「魂」によってではなく、
「宇宙」とのつながりによって、他者とつながるのです。
なぜなら、すべての人間は、宇宙から、
普遍性のなかから生まれてきたからです。
ここで大切なのは、
人間は、これらの三つの次元、
体、魂、霊の三重性をもって「私」であるということです。

いちばん直接的に「私」と感じられるのは、
「魂」の部分ですが、
それだけでは本当には「私」は満たされないのです。
地球上の全生命とのつながり(体の次元)、
そして宇宙とのつながり(霊の次元)があって初めて、
一人ひとりの「私」の生命は充実するのです。

そのような前提を踏まえて、
「霊学」の内容に踏み入ることをシュタイナーは求めています。
なぜなら、シュタイナーが初めて霊学の内容を語り始めた頃は、
「神智学」(テオゾフィー)という語を使っていたように、
(theo=神、sophie=知恵)
霊学を学ぶことは、神々の領域に参入することになるからです。

しかし、その前提として、
シュタイナーは、「人間」であることを重要視しました。
一人ひとりが自分だけの「こだわり」をもち、
人生のいろいろな場面で悩んだり、悲しんだり、喜んだりしながら、
自分だけの「私」の人生を生きようとあがいている人間が、
「中心世界」を形成するのです。

ただ単に、自分の身体や魂を克服して、神々の世界に到るのではなく、
この地球上の一人ひとりの「私」の生活を充実させるために、
「私」を地球の全生命に向かって、
また同時に、宇宙の普遍性に向かって開いていくこと、
そのために「神々の知恵」=「霊学」にあずかろうと願うこと、
そのような態度をシュタイナーはみずからの思想的立場として
アントロポゾフィー(人智学/ anthropos=人間、sophie=知恵)と呼んだのです。

アントロポゾフィー指導原理 (16)

2008-02-01 12:06:59 | 霊学って?

16.
《私》(自我)の第三の「かたち」(ゲシュタルト)によって、
人間の霊界における自立性が洞察されるようになる。
この洞察は、次のような感覚を呼び覚ます。
「人間の地上的・感覚的な本性は、
人間が現実には何であるか、ということを開示するものにすぎない。」
これによって真の自己認識の出発点が与えられる。
なぜなら、人間をその真実において形成する自己が
認識に対してみずからを開示するのは、
人間が「私」の思念からその形象へ、
その形象からその形象を生み出す力の作用へ、
そしてそこからそれらの力の作用を担う存在たちへと歩みを進めたときだからである。
(訳・入間カイ)

16. Die dritte Gestalt des «Ich» gibt die Einsicht in die selbständige Wesenheit des Menschen innerhalb einer geistigen Welt. Sie regt die Empfindung davon an, daß der Mensch mit seiner irdisch-sinnlichen Natur nur als die Offenbarung dessen vor sich selber steht, was er in Wirklichkeit ist. Damit ist der Ausgangspunkt wahrer Selbsterkenntnis gegeben. Denn jenes Selbst, das den Menschen in seiner Wahrheit gestaltet, wird sich der Erkenntnis erst offenbaren, wenn er vom Gedanken des Ich zu dessen Bilde, von dem Bilde zu den schöpfenden Kräften dieses Bildes, und von da zu den geitigen Trägern dieser Kräfte fortschreitet. (Rudolf Steiner)


この第16項にいたって、
「真の自己認識の出発点」が示されます。

これまでに見てきたように、
私たちは普段の生活のなかで、なんとなく「自分」という意識をもっています。
この「自分という意識」は、
私たちが日常生活のなかで、鏡に映った自分の姿をみたり、
せっかちだったり、のんびりしていたり、
怒りっぽかったり、落ち込みやすかったりする自分をみて、
なんとなく「自分はこういう人間だ」と思っているものです。
それがシュタイナーのいうところの「《私》の思念」です。
そこに見えているのは、「地上的・感覚的な本性」です。
つまり、この「地上」(地球上)を、「感覚」を働かせながら
(いろいろな感じ方をしながら)生きている自分のことです。

ここで重要なのは、この「地上的・感覚的本性」は
「本当の自分」ではないと言っているのではない、ということです。
この日常の自分のあり方は、
自分という「人間は現実には何であるか」ということを「開示」するものなのです。
シュタイナーの「開示するものにすぎない」という言い方は、
自分の普段のあり方をみて、自分は所詮この程度のものだと決めつけたり、
あるいは反対に、普段の自分のあり方を否定したりするのではなく、
普段の自分のあり方を手がかりに、真実の自己へと到ることができる、と示唆しています。

そして、シュタイナーは、
私たち一人ひとりが普段、何気なく感じている「自分」は、
「生命体」(エーテル体)のなかに働く《私》の反映にすぎない、と述べています。
本当の「自己」なるもの、もしくは人間の「真の《私》」は、
生命体のなかで人間の「形象」をつくりだしています。
人間が今あるような姿形をしていること、
一人ひとりがそれぞれの個性をあらわす体型をしていて、
その「かたち」が時間とともに成長したり、衰えたりして変化しながらも、
ひとつの原型をずっととどめているのは、
そこに《私》が働いているからです。

この《私》の働きが、
「アストラル体」(感覚体)における《私》の作用です。
つまり、この第16項で「形象を生み出す力の作用」と呼ばれるところです。
アストラル体は、惑星領域とつながっています。
ちょうど占星術で、黄道十二宮のなかの星々の位置によって、
一人ひとりの個人の運命が読み解かれていくように、
アストラル体における《私》は、
自分はこの地上でどのような「運命」を担い、
未来に向けて何を目指して生きるか、その「意志」を働かせます。
つまり、私たち一人ひとりの姿形や体型、
さらには私たちの「体質」や「気質」といったもの、
身体のなかに刻み込まれたさまざまな傾向や素質、
病気や健康とかかわる一切のもの、
―それをシュタイナーは「形象」として表現するのですが―
そこには、《私》の運命や、未来に向けての意志がかかわっているのです。
それが、「形象を生み出す力の作用」です。

しかし、シュタイナーはそこではとどまらずに、
「それらの力の作用を担う存在たち」に目を向けます。
ここで重要なのは、
「存在たち」というように複数形になっていることです。
健康や病気を含め、自分に「運命」として向かってくるものは、
単一ではなく、無数に存在します。
そのなかには、「これは明らかに自分が招いたことだ」と感じられるものもあれば、
「なぜ自分がこのような目にあうのだろうか」と
どうしても納得がいかないものもあるでしょう。
それらをすべて「自分の修行のため」と自分に言い聞かせることもできますが、
すべてを「自己」として括るだけでは、
運命を正確に理解することにはなりません。
シュタイナーは、そこでそれらの運命の作用を担っている
「存在たち」を意識するように示唆しています。
それらの存在たちは、「自分」ではありません。
しかし、自分もまた、それらの存在たちと同じ、ひとつの独立した存在なのです。
それが「霊界における《私》の自立性」です。

もちろん、何よりも大切なのは、
自分自身が主人公であることを自覚することです。
そして、すべてが「ひとつにつながっている」ことも確かです。
しかし、シュタイナーが提示したアントロポゾフィーのひとつの特徴は、
「すべてはいずれ一なる全体のなかに還る」とするのではなく、
すべては「一」でありながら、
私たち一人ひとりの《私》は、どこまでも「個別の私」でもありつづける、
と点をつらぬいているところにあります。
つまり、ゲーテのいう「一にして全」ということ、
一人ひとりの「私」はどこまでも「個」でありながら、
同時に、すべての人間は「普遍の私」を共有しているということ、
つまり、「個別の私」と「普遍の私」という
人間の最大の「謎」を抱きつづけているということです。

そして、このことが、
一人ひとりの《私》が、一個の自立した霊的存在としての自覚をもちながら、
霊界において、他の霊的存在たちに向き合う可能性につながります。
そのとき、私は「運命」に翻弄されたり、ただそれを受け入れるのではなく、
一個の霊的存在として、
それらの運命の作用のなかに働くさまざまな霊的存在に
「対等」に向き合うことになります。

そのとき、
ちょうど芸術行為のなかで、
人間が素材に向き合い、その素材に働きかけることによって、
まだこの世に存在していなかった、まったく新しいものを作品として生み出すように、
一人ひとりの《私》は、
自分に向かってくるさまざまな運命の作用に向き合い、
それを素材として、そのなかから、この地球上にまだ存在したことのない、
まったく新しいものを生み出すことができます。
それをシュタイナーは「人生芸術」と呼びました。
そして、そこに神々が一人ひとりの人間に託した可能性があるのです。

シュタイナーのいう「自己認識」への道は、
そのような可能性に向かって一歩一歩近づいていく道であろうと思います。