「私のこだわり人物伝」というNHKの番組。
作家の重松清氏が、開高健氏の「ベトナム戦記」について語っていました。
とても強い印象を受けたところがあります。
開高氏がサイゴンの広場で、
米軍によるベトコン少年兵の公開処刑を目撃したとき、
その場にひしめく「絶対の悪」に触れて、
「自分のなかの何かが粉砕された」というくだりです。
開高氏は、南側の従軍記者として米軍に同行しました。
ジャングルのなかでゲリラの急襲にあって、
九死に一生を得る体験もしたそうです。
そのとき、銃撃されて逃げまどいながら、
開高氏の眼は、一瞬、地を這うアリたちの動きを捉えます。
しかし、サイゴンの広場では、
開高氏は安全な第三者として、
軍用トラックの陰から公開処刑を見ていました。
そこには、動きは一切なく、
すべてが「静止」しているように感じられたといいます。
そして、その場にひしめく
「絶対の悪」のようなもの。
それはいったい何だったのでしょうか?
僕は、
開高氏はそのとき、
「アーリマン」に触れたのではないか、と感じました。
アーリマンとルツィフェル。
シュタイナーは「悪」をふたつのカテゴリーで捉えました。
アーリマンはそのひとつです。
もう一方のルツィフェルは、
人間の自我を肥大させます。
自分の美しさ、偉大さ、優秀さについて
妄想を抱かせるのです。
そして、その「誇大妄想」のなかに、
他者を引きずり込もうとします。
その最大で最悪の例は、
ヒトラーによるナチズムだろうと思います。
あるいは、「神風」や「玉砕」というイメージで
国民を戦争に巻き込んでいった日本の軍部。
ルツィフェルには、
冷静な現状分析よりも、精神論で突っ走る傾向があるのです。
それに対して、アーリマンは、
ひたすら冷徹で、現実に根ざしています。
アーリマンの端的な現われは、
広島・長崎への原爆投下でしょう。
アメリカが、広島だけでなく、長崎にまで原爆を投下したのは、
ウラン型とプルトニウム型の連続実験をしたかったから、
という説があります。
そのような冷たい計算はきわめてアーリマン的です。
アーリマンは、
自分の自我を「権力」で強化し、
他者の自我を「無化」しようとします。
戦争には、
アーリマンとルツィフェルの共同の働きが見られます。
ルツィフェルは
国家や民族の「美しさ」や「優秀さ」の妄想をつくりあげ、
アーリマンは、国家や集団の権力によって
一人ひとりの「個」(自我)を無化していきます。
そのとき、
目に見えない意志が、人々を戦争へと押し流していくのです。
戦争では、国家や宗教や民族主義など、
何らかの「大儀」の名のもとに、
人が人を殺し、人が人に殺されます。
そこでは、
一人ひとりの個人が生きてきた人生、
一人ひとりの複雑な思いや感情、
一人ひとりが抱いている未来への希望は
すべて無化されます。
開高氏が体験した戦場で、
北ベトナムのゲリラと南軍の米兵が戦うとき、
そこには、アリたちの動きに象徴されるように、
傷つき苦しむ者たちの人間性が
わずかでも残っていたのではないか?
しかし、サイゴンの広場で、
米軍が、ベトコンの少年兵を公開処刑するとき、
そこには、処刑する兵士、それを傍観する人々、
すべての個人が抱える複雑な人生を
無化するような何か、
人間の複雑さを否定するような
「単純さ」が働いていた。
その「単純さ」に、
開高氏は「砕かれた」といいます。
僕は、それは純粋な「アーリマン」の体験だったのではないか、
と思うのです。
憲法9条は、
「国権の発動たる戦争」を放棄するといいます。
もはや「国家の名のもとに人を殺す」ことはしない、
という日本人の決意。
すなわち、
もはやアーリマンに自己を委ねない、という決意。
憲法9条は、
一人ひとりのかけがえのない人生、
一人ひとりの人間の複雑さを大切にする、
そんな国家を目指そうという
日本人の決意を表しているのです。
「すべての決意は一つの力である。
たとえ、その力が向けられた場において、
ただちに成功を収めることがなかったとしても、
その力は独自のしかたで作用し続ける。」
「悪しきもの、不完全なものへのもっとも適切な闘い方は、
善なるもの、完全なるものを創造することである。」
(ルドルフ・シュタイナー)
作家の重松清氏が、開高健氏の「ベトナム戦記」について語っていました。
とても強い印象を受けたところがあります。
開高氏がサイゴンの広場で、
米軍によるベトコン少年兵の公開処刑を目撃したとき、
その場にひしめく「絶対の悪」に触れて、
「自分のなかの何かが粉砕された」というくだりです。
開高氏は、南側の従軍記者として米軍に同行しました。
ジャングルのなかでゲリラの急襲にあって、
九死に一生を得る体験もしたそうです。
そのとき、銃撃されて逃げまどいながら、
開高氏の眼は、一瞬、地を這うアリたちの動きを捉えます。
しかし、サイゴンの広場では、
開高氏は安全な第三者として、
軍用トラックの陰から公開処刑を見ていました。
そこには、動きは一切なく、
すべてが「静止」しているように感じられたといいます。
そして、その場にひしめく
「絶対の悪」のようなもの。
それはいったい何だったのでしょうか?
僕は、
開高氏はそのとき、
「アーリマン」に触れたのではないか、と感じました。
アーリマンとルツィフェル。
シュタイナーは「悪」をふたつのカテゴリーで捉えました。
アーリマンはそのひとつです。
もう一方のルツィフェルは、
人間の自我を肥大させます。
自分の美しさ、偉大さ、優秀さについて
妄想を抱かせるのです。
そして、その「誇大妄想」のなかに、
他者を引きずり込もうとします。
その最大で最悪の例は、
ヒトラーによるナチズムだろうと思います。
あるいは、「神風」や「玉砕」というイメージで
国民を戦争に巻き込んでいった日本の軍部。
ルツィフェルには、
冷静な現状分析よりも、精神論で突っ走る傾向があるのです。
それに対して、アーリマンは、
ひたすら冷徹で、現実に根ざしています。
アーリマンの端的な現われは、
広島・長崎への原爆投下でしょう。
アメリカが、広島だけでなく、長崎にまで原爆を投下したのは、
ウラン型とプルトニウム型の連続実験をしたかったから、
という説があります。
そのような冷たい計算はきわめてアーリマン的です。
アーリマンは、
自分の自我を「権力」で強化し、
他者の自我を「無化」しようとします。
戦争には、
アーリマンとルツィフェルの共同の働きが見られます。
ルツィフェルは
国家や民族の「美しさ」や「優秀さ」の妄想をつくりあげ、
アーリマンは、国家や集団の権力によって
一人ひとりの「個」(自我)を無化していきます。
そのとき、
目に見えない意志が、人々を戦争へと押し流していくのです。
戦争では、国家や宗教や民族主義など、
何らかの「大儀」の名のもとに、
人が人を殺し、人が人に殺されます。
そこでは、
一人ひとりの個人が生きてきた人生、
一人ひとりの複雑な思いや感情、
一人ひとりが抱いている未来への希望は
すべて無化されます。
開高氏が体験した戦場で、
北ベトナムのゲリラと南軍の米兵が戦うとき、
そこには、アリたちの動きに象徴されるように、
傷つき苦しむ者たちの人間性が
わずかでも残っていたのではないか?
しかし、サイゴンの広場で、
米軍が、ベトコンの少年兵を公開処刑するとき、
そこには、処刑する兵士、それを傍観する人々、
すべての個人が抱える複雑な人生を
無化するような何か、
人間の複雑さを否定するような
「単純さ」が働いていた。
その「単純さ」に、
開高氏は「砕かれた」といいます。
僕は、それは純粋な「アーリマン」の体験だったのではないか、
と思うのです。
憲法9条は、
「国権の発動たる戦争」を放棄するといいます。
もはや「国家の名のもとに人を殺す」ことはしない、
という日本人の決意。
すなわち、
もはやアーリマンに自己を委ねない、という決意。
憲法9条は、
一人ひとりのかけがえのない人生、
一人ひとりの人間の複雑さを大切にする、
そんな国家を目指そうという
日本人の決意を表しているのです。
「すべての決意は一つの力である。
たとえ、その力が向けられた場において、
ただちに成功を収めることがなかったとしても、
その力は独自のしかたで作用し続ける。」
「悪しきもの、不完全なものへのもっとも適切な闘い方は、
善なるもの、完全なるものを創造することである。」
(ルドルフ・シュタイナー)