入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

開高健氏の「絶対の悪」ということば

2007-08-22 10:38:35 | 社会問題
「私のこだわり人物伝」というNHKの番組。
作家の重松清氏が、開高健氏の「ベトナム戦記」について語っていました。
とても強い印象を受けたところがあります。

開高氏がサイゴンの広場で、
米軍によるベトコン少年兵の公開処刑を目撃したとき、
その場にひしめく「絶対の悪」に触れて、
「自分のなかの何かが粉砕された」というくだりです。

開高氏は、南側の従軍記者として米軍に同行しました。
ジャングルのなかでゲリラの急襲にあって、
九死に一生を得る体験もしたそうです。
そのとき、銃撃されて逃げまどいながら、
開高氏の眼は、一瞬、地を這うアリたちの動きを捉えます。

しかし、サイゴンの広場では、
開高氏は安全な第三者として、
軍用トラックの陰から公開処刑を見ていました。
そこには、動きは一切なく、
すべてが「静止」しているように感じられたといいます。
そして、その場にひしめく
「絶対の悪」のようなもの。

それはいったい何だったのでしょうか?

僕は、
開高氏はそのとき、
「アーリマン」に触れたのではないか、と感じました。

アーリマンとルツィフェル。
シュタイナーは「悪」をふたつのカテゴリーで捉えました。
アーリマンはそのひとつです。

もう一方のルツィフェルは、
人間の自我を肥大させます。
自分の美しさ、偉大さ、優秀さについて
妄想を抱かせるのです。
そして、その「誇大妄想」のなかに、
他者を引きずり込もうとします。

その最大で最悪の例は、
ヒトラーによるナチズムだろうと思います。
あるいは、「神風」や「玉砕」というイメージで
国民を戦争に巻き込んでいった日本の軍部。

ルツィフェルには、
冷静な現状分析よりも、精神論で突っ走る傾向があるのです。
それに対して、アーリマンは、
ひたすら冷徹で、現実に根ざしています。

アーリマンの端的な現われは、
広島・長崎への原爆投下でしょう。
アメリカが、広島だけでなく、長崎にまで原爆を投下したのは、
ウラン型とプルトニウム型の連続実験をしたかったから、
という説があります。
そのような冷たい計算はきわめてアーリマン的です。

アーリマンは、
自分の自我を「権力」で強化し、
他者の自我を「無化」しようとします。

戦争には、
アーリマンとルツィフェルの共同の働きが見られます。
ルツィフェルは
国家や民族の「美しさ」や「優秀さ」の妄想をつくりあげ、
アーリマンは、国家や集団の権力によって
一人ひとりの「個」(自我)を無化していきます。
そのとき、
目に見えない意志が、人々を戦争へと押し流していくのです。

戦争では、国家や宗教や民族主義など、
何らかの「大儀」の名のもとに、
人が人を殺し、人が人に殺されます。
そこでは、
一人ひとりの個人が生きてきた人生、
一人ひとりの複雑な思いや感情、
一人ひとりが抱いている未来への希望は
すべて無化されます。

開高氏が体験した戦場で、
北ベトナムのゲリラと南軍の米兵が戦うとき、
そこには、アリたちの動きに象徴されるように、
傷つき苦しむ者たちの人間性が
わずかでも残っていたのではないか?

しかし、サイゴンの広場で、
米軍が、ベトコンの少年兵を公開処刑するとき、
そこには、処刑する兵士、それを傍観する人々、
すべての個人が抱える複雑な人生を
無化するような何か、
人間の複雑さを否定するような
「単純さ」が働いていた。

その「単純さ」に、
開高氏は「砕かれた」といいます。

僕は、それは純粋な「アーリマン」の体験だったのではないか、
と思うのです。

憲法9条は、
「国権の発動たる戦争」を放棄するといいます。
もはや「国家の名のもとに人を殺す」ことはしない、
という日本人の決意。
すなわち、
もはやアーリマンに自己を委ねない、という決意。

憲法9条は、
一人ひとりのかけがえのない人生、
一人ひとりの人間の複雑さを大切にする、
そんな国家を目指そうという
日本人の決意を表しているのです。


「すべての決意は一つの力である。
たとえ、その力が向けられた場において、
ただちに成功を収めることがなかったとしても、
その力は独自のしかたで作用し続ける。」

「悪しきもの、不完全なものへのもっとも適切な闘い方は、
善なるもの、完全なるものを創造することである。」
                (ルドルフ・シュタイナー)

周辺事態法

2007-08-19 08:51:08 | 社会問題
この写真のステッカーは、1998年、僕が初めて参加した市民運動、
「かごしま平和ネットワーク」がつくったものです。

この年の3月、たまたま新聞で、
「周辺事態法案」(日米新ガイドライン)を考える集いの案内を見かけました。
この法案は、いわゆる「周辺事態」に際して、
アメリカが軍事行動を起こした場合、
日本の自衛隊がそれを支援することを定めたものでした。
直観的に、この法案が通ったら本当に危ない、
と感じていました。

その集まりには、主婦から、詩人から、大学教員まで、
いろんな人たちが参加していました。
そのなかの有志が、この「かごしま平和ネットワーク」をつくったのです。

「かごしま平和ネットワーク」では、当時の鹿児島県知事に対して、
「県民の平和と安全のために、国にこの法案の撤回を求めてください」
という署名運動を展開しました。

鹿児島市の繁華街で、
他の市民グループの人たちといっしょにビラを配ったり、
マイクを握って、「この法案の本質は戦争協力法案なんです」と訴えて、
署名を集めました。

5000名以上の署名が集まり、みんなで県庁に行って、
―知事には会ってもらえませんでしたが―
防災課の人たちに署名を渡しました。

その後も、県庁の人たちと継続して話し合いを持ったり、
県内の政党を訪ねたり、いろいろな活動をしましたが、
結局、翌年1999年に、この法案は可決。
周辺事態法は成立しました。

参議院で採決が行われる日、
参議院に電話をかけて、
電話に出てくれた議員たちに一生懸命訴えたときのこと、
そしてその後のむなしさと敗北感は今でも印象に残っています。

「ノストラダムスの大予言は当たったのか、当たらなかったのか?」
少なくとも、僕にとっては、
この1999年は、
「恐怖の王が降ってきた」と言っても過言ではない、
戦後の日本にとっての大きな転換点でした。

この周辺事態法の成立から、国家国旗法や、
住民票にコード番号をつけて一元的に管理する「改正住民基本台帳法」などが
次々に成立。
昨年末にはついに「教育基本法」が改変され、
いよいよ「憲法」そのものの改変が現実味を帯びてきています。

そんな時代のなかで、僕たちはアントロポゾフィーと取り組んでいるのです。

敗戦記念日に

2007-08-15 12:11:14 | 社会問題
前回、「この次は民族魂と民族霊について書きたい」と記しました。
けれど、これはあまりに膨大な―それこそ一冊の本になるような―テーマであること。
そしてこのブログに中途半端なかたちで書いてしまうと、余計な誤解を招きかねないと思い直しました。
このテーマについて、できるだけ明確にわかりやすく伝えるにはどうすればいいのか、もう少し考えてみたいと思います。

その代わり、今日は最近出版した本をご紹介します。

これは僕個人にとっては、非常に思い入れの強い一冊です。
今年5月末、ドイツのハノーヴァーで、ゲーテアヌム教育セクション代表のクリストフ・ヴィーヒェルト氏と話をして、彼のいくつかの論文を日本語に訳すことで合意した後、帰国してすぐに翻訳に取り掛かりました。

佐藤雅史さんがとても好意的な書評を書いてくださって、フォーラム・スリーのホームページにも掲載されていますので、ぜひご覧ください。
(「4日間夜っぴで仕上げた」とありますが、実は昼間はzzz…)。

8月は、テレビでも新聞でも、戦争をめぐる特集が続いています。
お盆とも重なって、死者たちがとても身近になるこの時期、僕は特にこの本のテーマを思うのです。

『シュタイナー学校は教師に何を求めるか』というのは、一人ひとりの教師のあり方を取り上げた論文集です。
子どもをめぐる会議について、思春期の子どもたちとの向き合い方について、教師のメディテーションについて…。

ヴァルドルフ(シュタイナー)学校では、一人ひとりの教師が自分の授業に全責任を持ちます。
シュタイナー自身が願った学校のかたちは、本来は、校長のいない学校でした。
一人ひとりの教師が、自分よりも上の権威に責任を委ねず、自分自身の責任で自分の授業をつくっていくことを求めたのです。
現在でも、組織運営上は「校長」や「教頭」を置いたりしますが、精神的には一人ひとりの教師が自立して自分の授業に向かうことが求められます。

これは実際には、かなりの責任と覚悟が求められることです。

だからこそシュタイナーは、「教員養成」を非常に重視しました。
「社会問題のなかでもっとも重要なのは教育問題であり、教育問題のなかでもっとも重要なのが教員養成の問題である」と述べているほどです。

シュタイナー学校の教師は(もちろんシュタイナー学校に限られませんが)、しっかりとした教員養成を受けるだけではなく、一生涯、研修を続けることになります。

もう一つ重要なのは、一人ひとりの教師が自分の授業に全責任をもつといっても、その教師が「孤立」するのではない、ということです。

教師は自立するだけではなく、学校が一つのコミュニティ(共同体)になるのです。
そのあり方をシュタイナーは「共和制」と呼びました。

自立した教師たちは教師会をつくり、そこで知恵を出し合い、学びを共有します。

この本の最初に取り上げられている「子どもをめぐる会議」は、教師会全体で、一人の教師が受け持っている生徒についてイメージを共有し、新しい方向性を見出していく過程が描かれています。
そこでは単により経験と力のある教師が、べつの教師の授業に口を出すのではなく、一人ひとりの個を尊重しつつ、全体でそれを支えるという「個と全体」の生きた関係が実践されています。

この本を一読されると、シュタイナー学校の教師にとって、いかに教育が神聖で真剣な仕事であるか、またいかにメディテーションというものが、決して単なる現実逃避などではなく、困難な現実に向き合うために、一人ひとりの「個」を強めていくための大切な手段であるか、ということが感じ取られると思います。

シュタイナーが、最初のヴァルドルフ学校をつくったのは、第一次世界大戦の終結直後のことです。
いたるところで、多種多様な民族主義が台頭し、社会全体が混乱のなかにあったとき、シュタイナーは独自の社会運動(「社会三層化」)を展開し、その一環として「ヴァルドルフ学校」が設立されたのです。

シュタイナーが掲げた「自由への教育」は、みんなが好き勝手に行動するような自由ではなく、「自己との一致」のことです。
一人ひとりが自分はこの人生で何をなしたいのかを見出し、自分らしく生きられるようになることを目指した教育です。

そのような教育の現場において、まず一人ひとりの教師が精神的に自立していることは、もっとも重要な前提条件でした。

ちなみに、著者であるヴィーヒェルトさん自身も強調していたのですが、ここでいう「シュタイナー学校の教師」には、「シュタイナー幼稚園の教師」も含まれます。

僕には、今の日本の状況において、シュタイナー学校や幼稚園の教師が、どのような精神的態度をもって教育に取り組んでいるのかを伝えることが非常に重要であると思えたのです。

日本ではまだ、教師の精神的自立の重要性は十分には認識されていないように思います。
教育の自由が侵害される出来事はいたるところで起こっています。

ここで冒頭の問題に戻るのですが、僕は戦争というのは、一人ひとりが自分の考え方、感じ方、つまりは「自己」を放棄してしまったとき、起こるものだと思っています。そのとき、全体が個を呑み込み、押し流すのです。

日本は、敗戦にあたって、もはや「自己」を放棄するのではなく、「戦争」そのものを放棄することを選びました。

今、人類にとってかけがえのない財産である憲法9条が危機的状況にありますが、僕はこの9条の精神を守り抜くためにもっとも有効な手段の一つが、一人ひとりの教育者のなかに生きるアントロポゾフィーだと思っています。

その意味で、僕個人にとっては、この『シュタイナー学校は教師に何を求めるか』という本は、現在の日本の社会状況に直結する一冊なのです。


『シュタイナー学校は教師に何を求めるか』
クリストフ・ヴィーヒェルト著、入間カイ訳、水声社、定価2000円+税
一般の書店でも入手できますが、直接版元の水声社にご注文いただくこともできます。
特に10冊以上のご注文の場合は、割引のご相談にも応じるとのことなので、お問い合わせください。

「感覚フォーラム」

2007-03-29 23:48:05 | 社会問題
このブログも一向に更新できないまま、時間だけが過ぎていく。

この1~2年、僕の人生も急にあわただしくなった。
先日は、ある事情で、ついに幼稚園の園長になってしまった(この話はいつか改めて書きたいと思う)。

きょうは、フォーラム・スリーの佐藤雅史さんが呼びかけている「感覚フォーラム」のことをちょっと書いておきたい。

3月31日(土)に、第1回目の「感覚フォーラム」が行われる。

現代社会で、いたるところで人間を取り巻いているBGMや騒音の問題を、タバコの受動喫煙の問題と同じように、「静寂をもつ権利」や「感覚の尊厳」といった観点から訴えていこうとする最初の試みである。

本当は、僕も参加するつもりだったのだが、急に予定が入って行けなくなってしまった。でも、一人でも多くの人に参加してもらえればと思っている。

感覚は、アントロポゾフィー(人智学)の基本である。
シュタイナーに『アントロポゾフィー断章』という本があるが、その主要部分は感覚論である。シュタイナー自身にとって、アントロポゾフィー(人智学)の核心が感覚論であることが分かる。この本が書かれた時点では、シュタイナーはまだ「10の感覚」しか考えていなかった。それが最終的に「12の感覚」になり、黄道十二宮と照応するものとして捉え直され、音楽療法をはじめ、さまざまな治療法の基盤をなすようになる。

シュタイナーにとっては、「考える」ことさえも、一つの感覚活動である。
考えるということは、自分の頭のなかで堂々巡りをすることではなく、心を開いて、さまざまな概念を「知覚」することなのだ。
人間は、宇宙に向かって12の扉を開いて立っている。

真の自律とは、自分を開くこと、他者を感じることによって可能になる。
だから、シュタイナーは、幼い子どもたちが豊かな感覚体験をもつことを非常に重視したのである。
幼児期の感覚体験こそ、自由、平等、友愛の基盤なのだ。

しかし、今、子どもたちの周囲には自然の音や静寂などではなく、ありとあらゆる人工的な騒音やイメージが満ちている。

少し前、サブリミナルという言葉がよく取り上げられていた。映画のなかに、ストーリーとは関係のない商品の映像が一コマだけ挿入されるとか、ロックの歌詞に悪魔崇拝のことばが逆さに入っているといったことが話題になった。
しかし、今はそういう話もあまり聞かなくなった。サブリミナル効果が使用されていないわけではないだろう。
人々は、ますます無防備になっているような気がする。
憲法改変の話もそうだが、あまりにも危険な社会の動きに対して、僕たちの感覚はますます鈍らされているように感じるのだ。

そんなとき、佐藤さんからこの「感覚フォーラム」の話を聞いた。
人間の精神の自由の基盤にある「感覚の尊厳」を守ろうという彼のイニシアティヴにとても共感している。
この「感覚フォーラム」に多くの人が関心を寄せてくれることを願っている。

■□■ 第1回感覚フォーラム

感覚の大切さを社会と共有するために「第1回感覚フォーラム」
Forum “Save our Senses” S.O.S.
3月31日(土)14:00~17:30
オープンフォーラム早稲田
藤井喬梓(作曲家)/竹田喜代子(音楽療法士)/
佐藤雅史(フォーラム・スリー)
参加費:500円
http://www.forum3.com/pdf/2007/20070331sos.pdf
問い合わせ先:フォーラム・スリー
tel.03-5287-4770 / fax.03-5287-4771

シュタイナーの「社会三層化」と市民運動(2)

2007-02-15 16:29:13 | 社会問題
シュタイナーが『社会問題の核心』を書いたのは、ドイツが戦争に敗れた直後である。
新しい国家の枠組みが模索される状況だったからこそ、たとえば私有財産に関しても、著作権と同様に、所有者の死後一定期間が過ぎた後は適切な後継者、もしくは公共の「精神生活」領域の機関の所有とすべきだといったラディカルな提案をもりこむことができた。
この本は、あくまでも当時の敗戦国ドイツの混沌とした社会状況に向けて書かれたのである。その内容をそのまま現代に応用することはできないし、そうする意味もないだろう。

しかし、シュタイナーの当時から状況は大きく変わったとしても、問題の本質は依然として変わっていないのではないかと思う。
シュタイナーは、プロレタリア運動の問題の本質は、「精神生活」(Geistesleben)の問題だと述べている。精神生活というと分かりにくいが、要するに一人ひとりの個人がもつ才能や能力、個性などの「人的資源」のことである。
シュタイナーにとって、「精神・霊」(Geist)という言葉は、いわば現実を生み出す「可能態」を意味するので、精神生活という語は、単に教育や研究といった精神活動を意味するだけではなく、すべての人間が潜在的にもっている可能性を指している。
だから、もしかすると現代では、「精神生活」というよりも、「人的資源」(human resources)という言葉を使ったほうが通じやすいかもしれない。ただ、シュタイナーにおいては、人的資源とは「精神・霊の働き」(Geistesleben)のことだという意味も含意されているのである。
これは、シュタイナーの社会論において、人間の「精神生活」が「天然資源」(Naturgrundlage)に対応していることからも理解できる。

そのような意味での「精神生活」についてシュタイナーが指摘していることのなかで、僕自身が特に重要だと思うのは次の2点である。
一つは、「労働力」は「商品」ではない、ということである。なぜなら労働力とは、人的資源、すなわち「精神生活」だからである。賃金労働者がもっとも痛みを感じているのは、実は自分の「精神生活」が切り売りされていることだというのである。

すべての人間は、自分自身を実現するためにこの世に生まれてくる。そのために携えているのが人的資源なのである。この資源は本来、自分自身を表すために使われなければならない。それを他人に売り渡すということは、人間の尊厳を非常に傷つけることである。

ここでシュタイナーは、社会の三領域を明確に分けること、つまり三分節化する必要を説く。ちょうど人間の身体が神経・感覚系(頭部領域)、呼吸・循環系(胸部領域)、代謝系(四肢・腹部領域)に分かれていて、それぞれが独立して働きつつ身体という全体をなしているように、社会においても「精神生活」、「経済生活」、「法・国家生活」は相互に介入することなく、自律的に働かなければならないという。

今回、この本を再読していて、これらの言葉がやたらと「生活」という語が付いた複合語になっているのは、実際ドイツ語にそういう表現があるというだけではなく、シュタイナーにとって精神生活のみならず、経済や法律の働きもまた「社会の生命」に関わっているという含意があったのではないかという気がした。

シュタイナーがこれらの三領域を区別する際に強調しているのは、それぞれの領域が独自の仕方で外界との関係をつくっているということである。
たとえば、神経系は眼や耳や触覚などの感覚器官を通して外界と関わっている。呼吸・循環系は呼吸を通して、そして代謝系は栄養摂取や排泄を通して、外界と内界をつないでいる。同様に、精神生活、経済生活、法律生活とは、個人が他者に関わるときの三様の関わり方なのである。社会は、その三通りの関係性によってつくられていく。

経済生活は、もっぱら「商品」の生産、流通、消費に関わる領域である。いわば自己表現として商品=作品を創造すること、それを人々の手に渡るようにして、それを気に入ったり、必要としたりする人が受け取るという関係性である。そこに働く原理は「連合」(association)である。生産者、商人、消費者が商品を介してつながっていく。その原理をシュタイナーは「友愛」という言葉でも表現している。

ただし、商品を生産する力、つまり労働力や生産力は、一人ひとりの個人の資源、あるいは雇用者が所有している天然資源や財力などの生産手段から発生する。その二つが合わさって、商品が生み出される。シュタイナーは、そこでは雇う側と雇われる側が共同して一つの商品を生み出しているという理解が必要だといっている。労働力は売り買いはできない。賃金労働者は、自分の人的資源(精神生活)を資本家に売り渡しているのではなく、資本家とともに、資本家ひとりでは生み出せない商品を共同でつくりだしているのだ。そして、雇う側と雇われる側との関係においては、その商品を生み出すためにどちらの力がどれだけの割合で関わっているかを明らかにすることが重要だという。
この精神生活の領域に働く原理は「自発性」(initiative)である。人間には自分の能力を生かして、何かを生み出したいという欲求が備わっている。そうした創造や自己表現への欲求に基づいて、自発的に生産活動に関われることが、人間の可能性を引き出していくうえでも重要である。そのためにも、労働力は売り買いできないこと、商品は雇用・被雇用者が共同でつくりだしているという共通理解が必要なのである。また、シュタイナーは「生活するためには働かなくてはならない」という考え方ではなく、「働き手がいなければ経済活動は成り立たない」という認識が必要であるとも述べている。「経済生活」は「精神生活」に依存して成り立っているのだ。この原理をシュタイナーは「精神生活における自由」とも呼んでいる。

シュタイナーは、当時盛んに叫ばれていたように、私有財産を廃し、すべての生産手段を社会化、もしくは国有とすることには反対だった。シュタイナーは、それがどのような経緯で所有されるに到ったにせよ、現在の所有物に対する権利を認めることから出発しようとする。人間には、自分の才能や能力といった人的資源に対する権利があるとともに、自分が獲得してきた土地や財産に対する権利もある。それらはともに「資源=精神生活」であり、それは社会活動へと生かされるべきものである。それをどのように活用するかは一人ひとりの自発性に任されている。しかし、この権利関係においては、「法のもとの万人の平等」が前提となる。財力をもち、自分が作りたい商品をつくるために人を雇える資本家も、そこで雇われる労働者も、権利関係においては完全に平等である。この平等を保障するのが「国家」の役割であり、国家は人間対人間の関係、すなわち法律・権利関係だけを担当するのである。

シュタイナーは、「社会的理解」ということを言う。ある商品に関して、その作り手(生産者)がそこにどれだけの力を注いだか、それにどれだけの価値があるのかを認めるのは、社会の側である。その社会の側の理解があって初めて、正当な賃金も、商品の価格も、雇用者と被雇用者の対等な関係も成り立つことになる。その「社会的理解」は、自由な「精神生活」から生じる。その意味で、精神生活は、すべての社会生活の基盤なのである。

以上が、シュタイナーが「精神生活」に関して指摘していることで僕が重要だと思う2点の一つである。もう一つは、プロレタリアの人々が根拠とした「科学性」に関する指摘である。
シュタイナーは、当時のプロレタリアの人々にとって、近代科学がほとんど宗教的な拠り所になっていると考えた。しかし、その近代科学は、プロレタリアの人たちが「ブルジョア」と呼んでいる階級の人たちが用意したものだった。近代科学を生み出した人々は、宗教性や精神というものを思想から排除し、唯物的な世界観をつくりあげたが、自分たち自身の生活のなかにはまだ旧来の宗教性が残っていた。ブルジョアの学者たちは、生活においては旧来の慣習や宗教性に支えられながらも、頭では精神性を取り去った思想をつくりあげた。ところが、プロレタリアの人々は、生活のなかからも、近代社会によって精神性や宗教性を奪われている。そして、彼らが拠り所にした科学的思想は精神的内容をもっていないために、魂を支えるものになっていないというのである。
シュタイナーは、プロレタリアの人たちが真に求めているものは、世界理解であり、精神に満たされた思想であるという。同時に、もしそういうことを言えば、プロレタリアの人々は反撥して、自分たちにとって思想は経済的現実の反映にすぎず、自分たちは経済状況の改善や、生産手段の社会化を求めているということも十分に理解していた。ただ、プロレタリアのいう「階級闘争」は、社会において精神生活が真に自律し、人々の間に社会的理解というものが浸透することによって必要なくなるだろうと考えたのである。

ここにシュタイナーが社会運動の一環として、最初に学校づくりに着手した理由も見えてくる。学校や教育の課題は、一人ひとりの個人の「人的資源」を引きだすことである。この人的資源は、子どものなかの生きる意欲として、自分自身を表そうとする欲求として備わっている。この意欲こそが、シュタイナーのいう精神・霊(Geist)なのである。

今の日本では、この「意欲」が完全に押さえ込まれているのではないだろうか。そして、今、僕は霊的、精神的なものの重要性を思うのである。
先に、シュタイナーに関心をもつ人々は、霊的な方向と実際的な方向の二つの極のどちらかに偏る傾向があると書いた。僕自身は、おそらく霊的な方向が身近であったために、それに反撥し、実際的(というか哲学的)な方向を目指していた。
巷では「スピリチュアル・ブーム」とも言われるけれど、その「スピリチュアル」はえてして「前世」や「守護霊」のことであって、そこから実際の社会の現実への関わり方は見えてこない。
また、社会の現実としては、「戦争ができる国」となり、ついに教育基本法に手をつけ、弱い立場の人々を追い詰め、憲法までも変えようとする政治の状況がある。そこに危機感を募らせ、さまざまな運動が展開されているけれども、そこに「霊的なもの」へのまなざしはあまり感じられない。

かつてシュタイナーが社会三層化運動を展開したとき以上に、今の時代は、霊的なものが背後に押しやられているのではないか。
ここで「霊的なもの」というとき、多くの人が「現実から遊離したもの」を思う。それは根拠のない自己満足の世界であって、現実の力にはなりえない、なりえたとしてもせいぜい宗教のような、特定政党の政治活動や票集めにつながる程度のことのように思えるのだろう。
しかし、『社会問題の核心』のなかで、シュタイナーが一番言いたかったことは、社会の現実こそが霊的な現実の現われであり、抑圧された人々の訴えとは、つねに「霊的なものを求める魂の叫び」であるということではなかっただろうか。

前回、僕が「アントロポゾフィーはフェミニズム」であると書いたのは、どちらも「背後に押しやられたもの」「目に見えないもの」の権利を取り戻そうとしているからである。
たとえば元従軍慰安婦だった女性たちの証言に対して、「資料がない」という言い方で否定するのは物質主義である。それに対して、あくまでも物的証拠で戦うことは重要だけれども、その戦いへの意欲というものは、抑圧された側、虐げられた側がもつ目にみえない思いへの共感や想像力があるからではないのか。
人間の尊厳も、平和も、幸福も、目にはみえない。子どもがどのような大人になるのか、この人生をどのように生きたいのか、そういった意欲も目にはみえない。
自分がこの人生に期待していること、なぜ自分はこういう状況、こういう運命のもとに生まれたのか、そこで自分は何を表していきたいのか、そういった自分自身の意欲も目にはみえない。
そのとき、前世に目を向けたり、占いをしたりするのもよいだろう。でも「生まれ変わり」があるとして、それを知りたいと思うのはなぜだろうか? それは自分が何らかの意志をもってこの世に生まれてきたはずであり、おそらく何度生まれ変わりを繰り返しても、自分には生と死を超えて追い続けている目標があるという予感があるからではないだろうか。
以前、『バシャール』という宇宙人の話をぱらぱらと読んでいたとき、唯一共感できたところがあった。それは、質問者が「前世について知りたい」と言ったときに、「あなたの前世についての情報はすべて今生にある」と答えたところである。
自分のその時々の感じ方、どういったことに自分の意欲が向うのか、どういうことを達成したときに自分は幸せに感じるのか、そういったことを繊細に見ていけば、自分がどんなことをしたくてこの世に生まれてきたのかも見えてくるだろう。
どんな霊能者に言われることよりも、自分自身で感じたことのほうが遙かに力強い。

僕は、今、生き難さを抱えている人々は「霊的なもの」を求めていると思う。それは宗教に入信したり、自分以外の指導者にすがることではないだろう。生きる意味とか、納得とか、そういうものだ。それを「霊的」と呼ぶことに抵抗を示す人は大勢いるだろう。
でも、本来、霊的なものとはそういうものなのだ。人間自身が「霊」なのだから。自分自身に到ろうとしている人は、霊的なものを求めていることになる。
むしろ問題は、「霊的なもの」に目を向けることが、主体性や自律性の放棄であるかのように見られる今の状況である。

このブログの最初に書いたけれども、シュタイナーの時代に、霊的なものについて語ることは、学者としての生命を葬り去ることを意味していた。今だって、その状況は基本的に変わらないだろう。霊的なものはキワモノであり、たとえいくら持ち上げられ、騒がれることがあったとしても、やはり少数者の領域である。

今回、久しぶりに『社会問題の核心』を読み返して思ったことは、そのような霊的な視点をもって、市民運動を展開できないだろうか、ということである。これまで僕は、市民運動に関しては、そうした霊的な視点のようなものはできるだけ出さないようにしていた。
しかし、アントロポゾフィーの現代性とは、霊的なことがらを普通の理解力で理解できるかたちで扱うことにあるはずだ。だったら、僕も自分にとって身近なことをストレートに表現していくべきではないのか。
要するに、僕なりのカミングアウトが必要なのではないかと。
なぜなら、人間の尊厳を、あるいは生命の尊厳を本当に復権することは、霊的なものへのまなざしなくしては可能ではないと思うからである。

シュタイナーの「社会三層化」と市民運動(1)

2007-02-14 22:13:09 | 社会問題
久々にシュタイナーの『社会問題の核心』を原書で読み返した。

先日、鹿児島で川田龍平さんの講演を聞いた。本来なら仕事で鹿児島を離れているはずの日だったが、体調を崩してしまったため、かえって参加することができたのだ。川田さんは12年前、19歳の時に、薬害エイズの被害者として実名を公表し、「東京HIV訴訟」の原告団に加わった。3500人もの人々が厚生省を取り囲み、当時の厚生大臣管直人氏が謝罪したときの映像はいまだに記憶に残っている。僕もあの時、薬害エイズ裁判をたたかう人々につながろうと、厚生省前へ出かけたひとりだった。

講演では、初め、10歳の少年として母親からHIV感染を告知されたときの心境や、辛かった中学時代、感染のことを話してもそれまでと変わりなく付き合い続けてくれた彼女や友人のことなど、薬害エイズの裁判にいたるまでの経過を、本人の言葉で聞くことができた。どうしても責任の所在を明らかにし、製薬会社と国に謝罪してほしかったという言葉からは、改めてその当時の川田さんや母親の思いが伝わってきた。

その川田さんが、今7月の参院選への出馬を決めたという。彼のように否応なく「生と死」を意識しつつ生きている人にとって、大変な決意だったに違いない。講演の後半では、現在の日本の危機的な状況についての彼の考えが語られた。その真摯な姿勢には心から共感しながらも、僕には何かどうしても気になることが残った。それが気になって、結局、夜の交流会にまで出かけて、川田さんに話かけてしまったほどだ。

僕は今も、自分のあのときの感覚が十分に理解できないでいる。その感覚を理解しようとして、また、自分自身はどのように日本の現実の社会に関わっていくのかを問い直そうとして、ふと、シュタイナーが社会運動を始めたときの著作『社会問題の核心』をもう一度読み直してみようかと思ったのである。以下につづるのは、その際に僕が改めて読み取ったこと、そして僕の心に去来したことのノートのようなものである。

『社会問題の核心』は、社会運動の本である。今でいえば「市民運動」の本とも言えるかもしれない。なぜなら、この本では「社会に変化を起こすのは、一人ひとりの個人であり、各人が自分のいる場所で自分にできることを始める」ことが強調されているからだ。

この本が出版されたのは、第一世界大戦後の1919年、日本でいえば大正8年のことである。もちろん、その頃からさまざまな「民主化」の運動はあったけれども、シュタイナーほど一貫して「個」を基盤にしていた人は珍しかったのではないかと思う。「個人主義的アナキスト」を自称していた若い頃の姿勢は、神秘学者・オカルティストになってからも決して変わらなかった。むしろ、徹底した個人主義、アナキズムの基盤のうえに、シュタイナーの人智学(アントロポゾフィー)は展開されていったのである。

今、シュタイナーが大切にしていた「個」の感覚がもっとも生きているのが、さまざまな市民運動なのではないかと僕は思っている。実際、ヨーロッパでは、学校、医療、農業、銀行といった領域でのシュタイナー派の人々の活動は、市民運動として展開されている。そこでは自分たちの活動内容の告知の仕方から、説明会や資金集め、行政とのやり取りに到るまで、一人ひとりの参加者の自発的な参加、対等な話し合いを基盤にして行われている。

これは市民運動としては当たり前のことだ。僕がいま考えたいのは、アントロポゾフィー霊学は、実際に社会を変革する「知恵」となりうるのかということである。そこに、シュタイナーがリベラルな評論家という堅実な立場を捨てて、オカルティズムに到った理由もあるはずである。実際、現在、僕たちが眼にすることのできるアントロポゾフィーの成果は、学校も病院も、治療教育施設も、農場も、銀行も、すべて40歳を過ぎてからのシュタイナーの示唆から発展してきたものだ。コリン・ウィルソンはシュタイナーについての評伝のなかで、「もしシュタイナーが自由の哲学などの初期の著作だけを遺して死んでいたなら、リベラルな思想家としてベルグソンなどと並んで記憶されていたことだろう」というようなことを書いている。確かにそうかもしれないが、その代わり、その思想は実際の社会のなかに実を結ぶこともなかっただろうと思うのだ。

日本でも、シュタイナーに共感する人々は大きく二つのグループに分かれている。シュタイナー教育などの実践面に重点をおき、その背後の世界観、ましてや霊界云々にはあえて触れようとしない人々。そして、逆に霊的側面や世界観・宇宙論に重点をおき、教育や社会実践にはそれほど関心のない人々である。もちろん、自分はどちらにも関心があるとか、全体としてのアントロポゾフィー(人智学)を学んでいるという人もあるだろうけれど、傾向としては、この二つの極のどちらかに傾いているのではないだろうか。

『社会問題の核心』では、霊的世界観や宗教性といったものを現実社会と結びつける試みがなされている。シュタイナーは、「荒廃した社会にあって、今こそ《霊性》が必要だと説く人々と、ひたすら《現実》だけに関わろうとする人々がいるが、その二つが結びつかなければならない」と述べている。なぜなら、シュタイナーにとって、すべての社会現実は霊性の現れに他ならないからである。この本は、眼にみえる実際の社会現象を見据えつつ、そのなかに隠されている《根源的な思想》(霊性)を捉えようとする。すべての現実は、《根源的な思想》が不完全な、もしくは歪められた形で表出したものなのである。

この本は、若い頃のリベラルな評論家シュタイナーではなく、50代のオカルティスト・シュタイナーが、戦後の混乱のなかでやむにやまれぬ思いから書き表したものである。その文体は、オカルティズムの用語などは一切用いず、ひたすら一般の人々に理解されることを目指している。しかし、その内容は、オカルティズムの研究を進めてきたシュタイナーが、社会の現実のなかから読み取った《根源的な思想》を踏まえている。それが「社会有機体の三層化」(三分節)というものである。

シュタイナーの社会論は、当時のプロレタリアの人々と向き合うところから始まる。つまり、資本主義社会のなかで生産力を持たず、自分たちの労働力を資本家に売って生活している賃金労働者たちである。ちょうどロシアでは1917年の10月革命が起こり、ドイツでも社会主義的な政府の樹立を目指してさまざまな運動が起きていた。
今改めて『社会問題の核心』を読み返してみて、シュタイナーが最初の1章をまるごと、このプロレタリアの人々が何を求めているのかという考察に当てていることに気づいた。シュタイナーにとって、「社会問題」の核心とは、そのままプロレタリア運動の本質とは何かということにつながっていたのだ。なぜなら、プロレタリアの人々こそ、人間にふさわしい社会のあり方を問い、時代に対して魂の叫びを発していたからである。

たとえば、今の日本で、そのような魂の叫びを挙げているのは、どういう人々だろうか。格差社会といわれ、いくら働いても貧困から抜け出せないワーキング・プアと呼ばれる人々の存在も指摘されるようになった。年間の自殺者は毎年、3万人を超えている。あまりにも多くの人々が苦しんでいる。でも、そのなかで、「魂の叫び」といえるような意思表示を行っているのは、子どもたちなのではないだろうか。
特に、不登校の子どもたち、そして「ひきこもり」や「ニート」と呼ばれる人々の存在は、現在の日本の社会の現実を考えるうえで非常に重要だと思う。彼らはしばしば「経済問題」と結びつけて論じられることがあるが、実際、彼らは日本の社会に参加することを意識的・無意識的に拒んでいるともいえると思う。もちろん、僕自身も不登校の経験があるので、学校に行きたくても行けない、社会参加をしたくてもできないという葛藤は身をもって知っている。積極的に登校「拒否」や社会参加の「拒否」をしているという実感はないだろう。しかし、いくら自分では学校に行こうと思っても、頭やおなかが痛くなったり、どうしてもだるかったりして、「身体がいうことをきかない」という状態があるのではないか。だとすれば、少なくとも彼らの身体は、現在の日本社会への参加を「拒否」しているといえるのではないだろうか。

そして、この「身体感覚」が重要なのである。なぜシュタイナーが人間の「身体の三層構造」に即して「社会の三層構造」を解き明かしていったかといえば、すべての社会的現実は、人間自身の表出にほかならないからだ。そして、シュタイナーが社会の現実のなかに読み取ろうとした《根源的思想》とは、人間自身の本質なのである。
今、日本の子どもたちの身体が「社会参加」を拒むとすれば、それは社会という身体(有機体)のありようが、人間の身体にふさわしいあり方をしていないからである。

シュタイナーは自分の立場は決して、単に「社会」を「身体」になぞらえるアナロジーではないと強調している。シュタイナーにとって重要なのは、人間の身体を考察することで、「人間の生命が成立するために必要な条件」(das Lebensmögliche)を読み取り、それを参考にして「人間が生きられる社会」、つまり「生きた社会」のありようを考えることだった。そして、シュタイナーが辿りついた「生きた社会の必要条件」が、「社会が三分節されていること」であった。

僕たちが、現在の日本社会に対して、アントロポゾフィーの立場から働きかけていくときは、この「三分節」が基本になるだろう。現在の子どもたちのいじめ、自殺、不登校といった問題に対しては、社会という身体を適切に「分節化」していく努力が必要になるだろう。社会そのものへの働きかけがなければ、いかに「理想的な学校」をつくったとしても、それだけでは解決にならない。なぜなら、子どもたちの身体が拒絶しているのは、学校の先に待ち構えている「社会」なのだから。大人のなかにその社会へのまなざしがなければ、子どもたちの不安は拭い去られることはないだろう。[つづく]

(写真は第一次世界大戦勃発後の1916年のシュタイナー)