入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

アントロポゾフィー指導原理 (15)

2008-01-30 08:17:06 | 霊学って?

15.
《私》(自我)はアストラル体のなかにも生きている。
そこでの《私》の「かたち」(ゲシュタルト)を洞察することによって、
人間の霊界への関係が正しく感じられるようになる。
通常の体験にとって、この「《私》のかたち」は無意識の暗い深みのなかに沈んでいる。
この深みのなかで、人間は霊的な宇宙本性とインスピレーションを通してつながっている。
魂の深みには、そのような霊界の広がりからのインスピレーションが働いているが、
通常の意識のまえには、そのきわめておぼろげな感情のような反射が映るだけである。
(訳・入間カイ)

15. Die Einsicht in die Gestalt, in der das «Ich» im Astralleibe lebt, führt zu einer rechten Empfindung von dem Verhältnisse des Menschen zu der geistigen Welt. Diese Ich-Gestalt ist für das gewöhnliche Erleben in die dunklen Tiefen des Unbewußten getaucht. In diesen Tiefen tritt der Mensch mit der geistigen Weltwesenheit durch Inspiration in Verbindung. Nur ein ganz schwacher gefühlsmäßiger Abglanz von dieser in den Seelentiefen waltenden Inspiration aus den Weiten der geistigen Welt steht vor dem gewöhnlichen Bewußtsein.(Rudolf Steiner)


この第15項では、
《私》(自我)の第二の「かたち」(ゲシュタルト)として、
「アストラル体」における《私》のかたちが取り上げられています。
(第13項で、《私》には、通常の意識にとっての《私》のほかに、
三つの「かたち」があると述べられていますが、その二番目です。)

まず、「かたち」(ゲシュタルト)ということばは、ドイツ語特有の語ですが、
ここでは「全体性をもったかたち」というようなニュアンスで理解できると思います。
つまり、たとえば身体や植物の一部というような個別の形態よりも、
全身の姿や、植物全体というように、ひとつの生命の単位として、全体として生きているような「かたち」のことです。
つまり、ここでシュタイナーは、人間の《私》というものは、
アストラル体のなかでも、そのような全体性をもって「生きている」と述べています。

アストラル体ということばは、ラテン語のastrum(星)から来ています。
つまり、人間には、目にみえる身体のほかに、目にみえない「体」があり、
そのひとつが、惑星の世界につながる「アストラル体」なのです。

人間が通常、何気なく《私》と思っているものは、
実は、二重、三重の「生命」をもっていて、
そのひとつとして、惑星領域とのつながりのなかに生きる《私》があるということです。

また、「霊界」ということばも出てきますが、
シュタイナーが「霊」や「魂」という言い方をするときに、
それを正しく理解するためにきわめて重要なのが、
『神智学』という本のなかで述べられている
霊と魂の違いを意識しておくことです。

つまり、「魂」はどこまでも「個人の感じ方」(個人性)にかかわるものであり、
「霊」は、個人性を超えて、普遍とつながるものであるということです。
一人ひとりの感じ方は、個々人でまったく違い、その感性を他者と共有することはできません。
個人の「たましい」においては、人間は完全に「孤独」なのです。
霊的なものは、個々人がそれをどう感じようとも、客観的な事実として、いわば「法則」のようなものとして存在しています。
ですから、人々は、「たましい」においては孤独でも、
「霊」においては、「考える」ことを通して相互に理解しあうこと、つながることができます。

そして、人間の《私》においては、個と普遍が同時に存在しているのです。
人間には、一人ひとりの「私」という感じ方がある一方で、
すべての人が「私」をもっているという普遍性があるわけです。

そして、この「普遍性」が霊界なのです。
「霊界につながる」ということは、
個人的な思いや感じ方を超えて、普遍的な世界につながるということです。

アストラル体は、通常の意識においては、
神経や感覚の働きを担うものです。
つまり、まさに個々人の感じ方、考え方を担っています。
しかし、そこで「私」というものがどのように働いているかを「洞察」するとき、
「人間の霊界」との関係が正しく感じられる、と書かれています。

簡単な言い方をすれば、
私には私の感じ方、考え方があるけれど、
すべての人間が、私と同じように、
「私」として感じ、「私」として考えながら生きている。
「私」は私のなかに生きていると同時に、
すべての人のなかにも生きている。
私のなかには、「個と普遍」が同時に働いているということです。

霊界は、惑星や黄道十二宮として、
私たちの「外」に広がる宇宙として意識されることもあれば、
私たちの「内」に、感情や思考として意識されることもあります。

私たち一人ひとりは、それぞれの「私」において、
「宇宙の広がり」を内面に宿しているのです。

この霊界や宇宙とのつながりを
シュタイナーは「インスピレーション」ということばで表現しました。
インスピレーションは、inspire、
つまり、「息吹」を吸い込んだり、送りこんだりすることです。
それは、通常の意識には、「感じる」こと、「聞く」こととして意識されます。
そして、そこには人間の胸の領域、
呼吸器としての肺や、全身の循環をつかさどる心臓との関連があります。

そのようにして、人間は、一人ひとりが何気なく「私」として生きているけれど、
その一人ひとりの感じ方や考え方のなかには、
実は、広大な宇宙、霊界とのつながりがおぼろげに反映されている。

それが「アストラル体」(感覚体)における《私》のかたちなのです。


アントロポゾフィー指導原理 (14)

2008-01-14 14:48:52 | 霊学って?
14.
第13項で触れた《私》(自我)の第二の「かたち」は、
この《私》の《形象》として現れる。
この「形象としての性格」に気づくことによって、
なぜ《私》が通常の意識のまえに思念のようなものとして映るのかということ、
つまり、《私》がもつ「思念としての本性」にも光が投ぜられる。
人は、ありとあらゆる考察を通じて、
通常の意識のなかに《真の私》を探し求める。
しかし、この通常の意識における体験を真摯に洞察するなら、
そこに現れているのは思念のような反映でしかないこと、
そしてそれは形象にも満たないものであることがわかる。
このことが真実であると本当に納得できるのは、
人が形象としての《私》へと歩みを進めたときだけである。
この形象としての《私》はエーテル体(生命体)のなかに生きている。
そのとき、人は初めて、
人間の真の本性としての《私》の「探求」に向けて促されるのである。
(訳・入間カイ)

14. Die zweite Gestalt des «Ich», die in der Darstellung des dritten Leitsatzes* angedeutet worden ist, tritt als «Bild» dieses Ich auf. Durch das Gewahrwerden dieses Bildcharakters wird auch ein Licht geworfen auf die Gedankenwesenheit, in der das «Ich» vor dem gewöhnlichen Bewußtsein erscheint. Man sucht durch allerlei Betrachtungen in dem gewöhnlichen Bewußtsein das «wahre Ich». Doch eine ernstliche Einsicht in die Erlebnisse dieses Bewußtseins zeigt, daß man in demselben dieses «wahre Ich» nicht finden kann; sondern daß da nur der gedankenhafte Abglanz, der weniger als ein Bild ist, aufzutreten vermag. Man wird von der Wahrheit dieses Tatbestandes erst recht erfaßt, wenn man fortschreitet zu dem «Ich» als Bild, das in dem Ätherleibe lebt. Und dadurch wird man erst richtig zu dem Suchen des Ich als der wahren Wesenheit des Menschen angeregt. (Rudolf Steiner)
*Gemeint ist der dritte der vorangehenden Gruppe: der 13. Leitsatz.


またまた久々の再開です。
この第14項から16項までは、
第13項で示された「《私》の三つのかたち」を説明しています。
本項の冒頭に「第二のかたち」とあるのは、
通常の意識のなかに現れる《私》のあり方を第一とした場合の数え方です。
通常の意識で「自分とは何か」と考えた場合、
それは記憶像の連なりや、その時々の感覚のなかで
おぼろげに感じられる「自分」というもので、
実体というよりは、思念のようなあり方をしているのではないでしょうか。

通常意識される「私」という思念は、
「エーテル体」のなかに生きる「私」の反映にすぎない、
とここでは書かれています。
「私」の第一の実在は、通常の意識のなかにではなく、
エーテル体(生命体)のなかにあるというのです。

ここでいうエーテル体とは、第13項にあるように、
人体のかたち、成長、形成力をもたらすものです。
「自分とは何か?」という問いに対して、
それは「自分という意識」ではなく、
この私のからだにかたちを与え、成長をもたらしているもの、
そこに「私」の第一の実体があると答えています。

そして、私たちの通常の「自分」という意識が
「思念」のようなあり方をしているのは、
エーテル体が本来、思考としての本性をもっているからです。
シュタイナーの人間学の基本には、
思考の力と生命力は同一のものであるという考え方があります。
私たちは、自分のからだを形成するという仕事を終了し、
解放されたエーテル体の一部を使って「思考」しているのです。
だから、私たちは自分の思考のなかに、
「私」の反映を感じるのです。

また逆に、いくら通常の意識のなかで「自分」を探し求め、
自分の考え方や感じ方のなかで「自分」を確認しようとしても、
本当の自分には到れないということになります。
なぜなら、「私」の基盤は身体のなかに、
より正確にいえば、自分の身体にかたちや成長や
生命維持の作用をもたらしているもののなかにあるからです。

この考え方からすれば、
東洋医学で「気」と呼ばれるものは、
からだのなかを12の経絡を通じてくまなく流れることによって、
「私」を担っていることになります。
そこにはエーテル体(生命力)の働きだけではなく、
その流れ方、位置関係のなかに「私」が実在しているのです。

シュタイナーの人間学に関してしばしば見受けられる誤解は、
「シュタイナーは所詮西洋人だから、個人の自我にこだわっている」
というものです。
しかし、そこでの「個人の自我」は、
通常の意識のなかの「エーテル的自我の反映」にすぎません。
ただ、現代人が自分のちっぽけな自我にこだわり、
そこで悩んだり苦しんだりせざるをえない背景にも、
この自我の問題があることは確かです。

通常の意識における自我へのこだわりを否定したり抑圧したりするのではなく、
それを手がかりにして、
その背後にある「形象」(かたち/イメージ)としての「私」に目を向けること、
そのように視界を広げていく可能性をアントロポゾフィーは示しています。
「私」というものは、日常の喜怒哀楽のなかにあると同時に、
この私の身体のなかにつねに存在しているのです。