入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

ブログ再開

2006-09-23 01:29:34 | 日々の雑感
今日、ようやく自分の何かに触れたような気がした。
もっと言えば、13歳か14歳の頃の自分を感じたのである。
きっかけはCDだった。友人である原善伸というギタリストが、3人のドイツ留学仲間といっしょに「ケルン・ギター・カルテット」と名乗って作ったアルバムで、彼らの世代のためか、妙に昭和の懐かしい感じがあって好きなのだ。
父親にも、先日、深刻な話をする前に、原さんに頼んで、このCDを彼に送ってもらった。父もこのCDが気に入ったようで、彼は特にピアソラの曲が良かったと言った。僕は、最後のクルト・ワイルの曲が好きだった。
それで、先ほど、その二つの曲を続けて聴いていた。そうしたら、思春期の頃の自分がよみがえってきた。
思うに、その頃の父は、大学を辞めて、まだ迷っていた時期ではなかったか。僕は、中学に入ってすぐに不登校になり、しばらくして家族4人でドイツへ渡った。母としては「日本脱出」という覚悟を決めていたらしい。シュトゥットガルトのレバノン街に部屋を借り、僕と妹はウーランツヘーエにあるヴァルドルフ学校(最初のシュタイナー学校)に転入した。だが、半年もすると、父は日本に戻ることにしたらしい。僕たちはふたたび鎌倉の家に戻り、僕は地元の公立校に入って、すぐにまた不登校になった。

ドイツに行く前に、僕は東京駅の大丸デパートの手品売り場でテンヨーのディーラーをしていた人と仲良くなり、真剣にマジックを練習していた。ターベルコースというアメリカの手品の本が日本語訳で出版されたばかりで、その最初の3巻くらいを買って、ドイツに持って行ったのを覚えている。
ドイツでは、『夜中出歩くものたち』という児童文学を夢中になって読んだ。魔女とか黒猫とかが出てくる話で、その影響で、僕は自分で独自の「魔法文字」をつくり、それで日記を書いたりした。たぶん、その流れなのだと思うが、日本に帰ってから、僕はショートショートのような短い物語を書いたり、詩を書いたりするようになった。
同世代の友人はなく、僕に付き合ってくれるのは、父の研究会に集まってくる大人たちで、彼らから子ども扱いされるのが、僕はつらかった。どうすれば、大人に見られるのかといつも思っていた。
そして、学校。やはり学校は苦痛だった。というよりも、なぜ学校へ行かなければいけないのか、どうしてもわからなかった。このまま学校に行かなければ、社会から受け入れられないことはわかっていた。ただ、家にいて、手品を練習して人に見せたり、詩を書いたりしているだけではだめなのだ。

父が、シュタイナーの『神智学』、次いで『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』を出版するにつれて、いくつかの研究会ができた。鎌倉にもサロン的な集まりがあって、そこから何人かの人が、ヨーロッパに留学に旅立っていった。そのたびに送別会が開かれて、みんなが暖かいことばを投げかけ、おいしい食事やお菓子や飲み物がふるまわれた。僕はいつしか、自分も留学すれば、あんなふうに送り出してもらえるのだ、と考えるようになった。そして、実際にイギリスとアメリカのシュタイナー学校に留学したのである。

今の僕が、通訳だの、翻訳だのをしながら、かろうじて社会的な体裁をとりつくろうことができているのは、あの時留学して、帰国子女という枠で日本の大学に入ったからだ。ただ、留学した時点で、僕はそれまでの前髪をだらっと垂らして、青白い顔をした、たまに学校に行くとクラスの女の子たちから「気持ち悪い」と言われた、手品と詩を書くことのほかに好きなことがない、あの少年を置き去りにしたのだ。

イギリスから一時帰国したとき、僕は周囲の大人たちの反応があまりにも違うのでびっくりした。僕は一気に華やかな、あこがれられる存在になっていた。留学する前は、大人たちは僕の話に付き合うのがいかにも面倒臭そうだったのに(実際、ぐだぐだと面倒ではあったと思うが)、こんどは好んで僕と話したがる人たちがいた。そして、僕はその位置取りを楽しんだ。僕はまるで英語ができる優等生のようにふるまい、以前の、英語もできなければ、いかにも内向的な自分を軽蔑したのだ。

こういうことは、これまでも言ったり、書いたりしてきた。自分の原点が「不登校」にあると、何度も口にした。けれども、それさえも「嘘」だったような気がする。
さっき、僕は13歳の頃の自分に触れたと思った。あの当時の自分が、何度も問いかけていたこと、なんで学校に行かなければならないのか、なんで自分は今ここにいて、これからどこに向かって行くのか、といった問いかけに、今の自分自身が答えなければならないと強く思ったのである。

そうしたら、僕は自然と父のことを思い、またゲーテのことを思っていた。
思い出したのは、いつか父が話してくれたことだ。父が最初にドイツのミュンヘンに留学していたとき、夜中、雪の降るなかを外へ出て行って、道路のうえに大の字に寝て、自分は今あこがれのドイツにいるのだと強く感じたそうだ。そのときの彼のあこがれは、今も生きつづけているのだろうか?

僕は13歳の頃、一時期、夜、風の音が聞こえてくると、無性になつかしいような、不思議な感覚にとらわれていた。その感情がいったいどこから来るのか、幼少期に過ごしたドイツでの思い出なのか、あるいは霊的な故郷のようなものなのか、ともかく「何か」が風の音の向こうにあって、僕はそれを何とか思い出そうとしていた。そのような話をしたとき、父だけは「わかるよ」と言ってくれた。

今思うと、父が「わかるよ」と言ったのは、僕と同じ感情を持っているということではなかっただろう。当時の僕が感じていた「何か」は、やはり僕だけのことがらに違いない。ただ、父には、何か名状しがたいものへのあこがれを持つ、ということが理解できたのだと思う。彼の場合、それは彼をドイツへ、そしてシュタイナーへと導いたノヴァーリスや、ドイツ・ロマン主義へのあこがれだったのかもしれない。いずれにしても、他人とは共有できない「あこがれ」をもっているというところで、僕は父によって理解されていると感じていた。

僕はさっき、自分が長いこと、本当に長いこと、この「あこがれ」を捨て去っていたことに気づいたのだ。僕のあこがれが向かう先は、父のそれが向かう先とは違うだろう。おそらく、すべての人の魂のなかに、そのようなあこがれが潜んでいるのではないか。それは自分はいったい何者で、どこから来て、どこへ行くのか、といったことばで表現されるところのものだ。人間は誰しも、それを知りたいと願っているのではないか。

そして、なぜゲーテを思ったかというと、彼の「死して成れ、この意を知らぬかぎり、お前はこの地上において、悲しい客でしかない」というようなことばを思い出したからだ。多くの人が、自分は何者なのか、なぜこの時代に、この土地に、このような境遇のもとに生まれてきたのかを知らず、ただ地上をさまようようにして去って行く。僕のなかで、ゲーテの「死して成れ」という思想が、僕が置き去りにしていたあこがれとつながったのだ。

そのとき、僕は、ゲーテという人も、かつてはこの地上を生きていたのだと感じたのである。ニュートンも、パラケルススも、ライプニッツも、自分自身の霊的起源のようなものを探りながら、この地上を生きていた。そして、今、ひきこもりとか、ニートとか言われている人たちも、いや本来はすべての人間が、自分自身の霊的起源を思い出そうという欲求をもっているのではないか。

僕は、この一点においてであれば、アントロポゾフィーを嘘のないかたちで求められると思った。それは僕にとって、13歳、14歳の頃の自分につながって、その頃の自分自身の問いかけに答えていく試みなのだ。この思いを、これからの自分の活動の根本にすえたいと思う。僕がなぜ、今の時代に日本に、あのような親のもとに生まれたのか。それはそこで出会ったアントロポゾフィーをもって、自分自身の憧れを追い求めていくためなのだと思う。
この日本のあまりにもひどい社会状況に対して、僕は発言したり、戦いを挑んだりすると思う。それはしかし目的ではない。僕の目的はあくまでも自分のあこがれを追求すること、自分の人生を生きることだ。でも、そのためには、それが可能な社会でなければならない。僕は自分のために、よりよい社会を願うのである。

ちなみに、このCDに興味をもたれた方への情報:
「耳に残るは君の歌声」~日本の歌からタンゴまで/ノスタルジックな音の絵葉書
演奏:ケルン・ギターカルテット(中根康美、原善伸、田代城治、佐藤達男)
注文先:ALM RECORDS


お金と景観とシュタイナー―鹿児島県庁隣接地購入をめぐって―

2006-04-06 02:52:39 | 日々の雑感
先日(3月21日)、TV朝日の「スーパーモーニング」という番組を見た。
僕が住んでいる鹿児島県が、県庁に隣接する土地を10億円以上かけて購入するという問題を取り上げていた。

この番組を見て、何かもやもやした感想をもったのだが、うまくことばにできなかった。
そして、この2~3日、シュタイナー思想との関連など、いくつか見えてきたこともあって、ずっと考えている。ただ、どうしてもまとまった文章として表現することができずにいる。それでも、この問題について僕が考えていることを鹿児島以外の人たちにも知ってほしくて、まとまらない文章ではあるが、見えてきたことだけをメモのようにして書いておくことにする。いずれこれを手がかりに、もう少し考えを発展させたいと思っている。

鹿児島県には、錦江湾に浮かぶ「桜島」というシンボルがある。
鹿児島の県庁ビルには、18階に「展望ロビー」があって、そこからこの桜島の眺めを楽しむことができる。
ところが、その県庁の隣の土地に、24階建てのマンションの建設計画がある、というのだ。
そんな建物が建ってしまうと、展望ロビーから桜島が見えなくなる。
しかし、そのような高いビルの建設を規制するには、県や市の「景観条例」が必要だ。そういった条例は、鹿児島ではまだ整備されていないという。
だから、鹿児島県は、県庁からの「景観」を守るために、公金を使って、隣の土地を買い取ることにしたというわけだ。

でも、いまの鹿児島県は1兆6千億円もの借金を抱えていて、大変な財政危機にある。
だから、県民からは多数の反対意見が寄せられた。
そのうえ、県の説明にはよく分からないことが多かった。
「24階建てのマンションの建設計画」という話が、どこから出てきたのかも分からない。
県は、市から聞いたといい、市はそんな計画は把握していないという。
そのうち、県の説明は、「24階建て」ではなく、「45階建て」のマンションが建つという話にすり替わっていった。

結局、たくさんの反対意見が寄せられたのにもかかわらず、先週、鹿児島県は、11億4千万円でこの隣接地を購入した。

ところで、「購入する」というのは、ひとつの「意志」に基づく行為である。
この意志は、誰の意志なのだろうか?

この土地購入には、県の知事が熱心だったことは明らかだ。
18階の展望ロビーより先に、もっと下の階にある知事室の窓からの眺めが、台無しになってしまった。
現在、建設中の別のマンションによって、桜島が半分しか見えなくなっている。
これが、知事はよほど腹に据えかねたようだ。
これでは「要人が来たときに困るので、カーテンで窓をさえぎっている」というコメントが、「スーパーモーニング」の番組では紹介されていた。
そのうえ、県庁のすぐ隣の土地に別のマンションが建つようなことは、なんとしても食い止めたいと思ったのかもしれない。
3月29日付朝日新聞鹿児島版によると、
知事は、「むしろ積極的に買いなさいという声が出るのが当然だと思った」
「もう少し景観に対する感受性を皆さんに持ってほしい」と語ったという。

そういうわけで、このたび鹿児島県が、県庁の隣の土地を購入したのは、おもに知事の「意志」だったと言ってよいと思う。
そうした知事の「景観」への思いを否定するつもりはない。

ただ問題は、知事という「個人の意志」と「行政の意志」の関係である。

今回の知事のように、故郷の風景について、さまざまな思いをもっている人はたくさんいる。最近の潮見橋の撤去は、本当に多くの住民の心を痛めた。6年前から強引に進められている人工島の建設にも、たくさんの人が反対した。それでも「公共事業」は、住民の実際の思いとは切り離されたところで、「行政の意志」によって押し進められる。
故郷の景観への感受性は、知事だけではなく、多くの人が持っている。
でも、知事の思いだけは、そのまま「行政の意志」となって、土地の購入という「行為」へとつながった。その行為を支えるのは、住民から集められた税金である。

行政の意志って、何なのだろうか?
行政の意志は、「公の意志」と言い換えることができるだろう。
公の意志に対して、一人ひとりの「私」の意志がある。

僕は今、シュタイナー思想を手がかりに、「公と私」について改めて考えたいと思っている。
公は、官や行政、国家だけのものではない。
すべての人が、公の部分をもっている。それが「市民」ということなのだと思う。
市民というのは、社会を構成する一人ひとりという部分である。
それとは別に、「私」の部分は、一人ひとりの「内面」に関わる領域である。

シュタイナーは、「社会有機体」(社会のからだ)という言い方をした。
彼は「生きた社会」を目指したので、人間の身体を始め、「生命が生じる条件」を探って、そこから社会を「生きた」ものにする道を見出そうとしたのだ。

人間の身体は、頭部(神経・感覚系)、胸部(呼吸・循環系)、下腹部+四肢(代謝系)という三領域に大きく分けられる。
以前、「シュタイナーの身体観」との関連でも書いたが、人間の身体を「内」から見たとき、そこに「思考」「感情」「意志」の働きを見ることができる。

そして、「社会のからだ」は、精神生活(文化)、法生活、経済生活という三領域に分けられる。

一見、精神生活は、人間の頭部や思考に対応しているように思われるが、実はそこには逆転がある。
社会における精神生活(文化)は、身体における代謝系に対応しているのだ(ただし、これはあくまでも一つの見方にすぎない。シュタイナー自身が警告しているように、人間の身体も、「社会のからだ」も静的な固定されたものではなく、つねに流動するダイナミックなものである。)
そして、人間の「たましい」の働きとしては、この領域は「意志」に対応している。
なぜなら、一人ひとりが精神的に自由になり、独自の創造活動を行うことで、「社会のからだ」は栄養やエネルギーを受け取るからである。自由な人々の多様な生き方(意志)がなければ、社会は貧困になる。

社会における法生活(国家や行政の領域)は、身体の胸の領域(呼吸・循環系)に対応している。「たましい」においては「感情」に対応している。これについては「公と私」との関連で後述する。

そして、社会における経済生活は、身体の頭部領域(神経・感覚系)に対応している。「たましい」においては「思考」に対応している。
シュタイナーは、経済の原理として「友愛」を挙げた。このことばは、ややもすると豊かな人が貧しい人に施しをするといった「慈善」的な意味に誤解されてしまう。しかし、シュタイナーのいう「友愛」はただの原理であって、倫理や道徳とは無関係である。僕なりの表現でいえば、友愛とは、「ネットワーク」や「交流」、「触れ合い」といったことである。
そして、友愛の原理は、神経細胞が次々につながっていくイメージである。神経系によって伝達されるのは「情報」である。
シュタイナーのいう「友愛」は、情報伝達の原理なのである。

そして、「公と私」が関連するのは、法生活、胸部領域、感情である。
公と私は、「私」の二つの側面であるといえる。
私ということばは、個別性と普遍性を併せ持つ。
私ということばの「個別性」は次のように説明できるだろう。たとえば、「ケンちゃん」という固有名詞(名前)であれば、ケンちゃん自身が自分のことを「ケンちゃん」と呼ぶこともできるし、別の誰かが「ケンちゃん」と呼びかけることもできる。しかし、ケンちゃんが「私」という一人称を使う場合は、「私」ということばでケンちゃん自身を示せるのはケンちゃんだけである。別の人(たとえばタローくん)が「私」と言った場合は、それはケンちゃんではなく、タローくん自身のことになってしまう。そのように「私」ということばを使って自分のことを指し示せるのは、その人自身だけである。
その一方で、「私」ということばには「普遍性」がある。それは、すべての人が自分を指すのに「私」ということばを使えるからである。「私」というのは、すべての人によって共有される名前とも言える。
シュタイナーは、「私」ということばにおいて「普遍性」と「個別性」が一致していることを「キリスト原理」と呼んでいた。まあ、それをどんな名称で呼ぶにせよ、この「私」というものが「個人」と「すべての人」に同時につながるということが、「公と私」を理解する手がかりになると僕は思っている。

この「私」の二重性は、身体では心臓と呼吸によって表される。それが法生活に対応する胸部領域が、「呼吸・循環系」と呼ばれるゆえんである。
「個別の私」は、呼吸によって支えられている。それに対して、「普遍の私」を支えているのが、心臓であり、心臓から全身をめぐる血液である。
心臓と呼吸の関係は、4:1といわれる。つまり、呼吸を1回する間に、心臓は4回鼓動する。それが安定した状態(熟睡しているときなど)のリズムだそうだ。
しかし、その時々の心の状態によって、呼吸が浅くなったり、速くなったりする。呼吸は、個人の意識状態によって、著しく変化する。それが心臓に影響を及ぼすのだ。
いま訳している『時間生物学』の本では、この心拍と呼吸の関係が詳しく論じられているのだが、僕はこの身体における胸の領域のあり方を、社会の法領域における「公と私」の理解につなげられるのではないかと思っている。

心臓は、本来、その時々の好き嫌いや共感・反感に左右されずに、淡々と一定のリズムを打ち続ける。それによって全身に酸素と栄養を運び、老廃物を取り除き、新陳代謝を支えている。しかし、あまりにも「個別の私」の意識状態が偏ったものになると、呼吸が心拍に影響をおよぼし、鼓動が速まったり、不整脈になったりする。
「社会のからだ」における「公と私」の関係も、そのようなものといえるのではないか。

社会のからだにおいては、一人ひとりの人間が、「市民」として「公」を支えている。市民としての自覚や、大人としての子どもたちへの責任感が、今の社会にとって何が必要か、という意識を生む。それによって、選挙に行って、自分たちの「公の意志」を代表させる政治家を選んだり、行政のやり方に対して意見を表明したりする。

しかし、一人ひとりの個人が「市民」(公)としての自覚をもたなければ、「公の意志」を行政や政治家に委ねてしまうことになる。そして、実際の住民の願いとは別のところで、住民を苦しめるような「公共事業」が押し進められることになる。

行政や政治家の仕事は、まず第一に「感じる」ことだ。人々のことばにならない「意志」を感じ取り、それを「ことば」にする。その意味で、政治とは「ことば」の仕事である。議会での質問や議論は、住民の「意志」や「感情」を、すべての人が共有できる「ことば」として捉えなおすことである。それが「条例」や「法律」の本来の姿ではないのか。

グリム兄弟のひとり、ヤーコブ・グリムが昔話や言語の大家であると同時に、偉大な法律学者であったのは、法律というものが本来、「詩」的な作業、つまり繊細に感じ取り、ことばにするという作業であることを示しているように思う。法律とは、民衆のなかに生きる習慣や意志を汲み上げるものなのではないか。

以上のようなことを、今回の鹿児島県の土地購入問題に接して考えたのだった。
知事は、どこまで県民の思いを感じ取っていたのか。知事の土地購入への強い意志は、果たして本当の「公の意志」になっていたのか?

僕たち一人ひとりの「市民」としての自覚が強まっていかなければ、国家や行政の「公の意志」のなかに、べつの人々の(たとえば企業や利権集団の)きわめて「私」的な意志が入り込むことになる。
住民が誰も願ってもいないような「公共事業」は、「公」の皮をかぶった特定の人々の私利私欲による行為である。その最たるものが「戦争」だと思う。戦争でも、得をする人たちがいる。

「公」を、社会を構成する一人ひとりの手に取り戻すこと。それがこれからの課題ではないか。
実は、これは晩年のシュタイナーが願っていたことでもあった。彼は自分が地上に実現しようとした社会のあり方を「アントロポゾフィー(人智学)協会」(「人知のはたらく社会」という意味になる)に託した。そして、この協会の課題を次のことばで表現した。
「私たちの課題は、最大限の公共性を、考えうる限りの秘教性と結びつけることなのです。」
この「秘教性」は、一人ひとりの内面性である。秘密に満ちた「たましい」の深み。そこから個人が人生で実現しようとする「意志」が湧き起こってくる。
だから、僕たちは現代の文脈ではこのように言えるだろう。
僕たちの課題は、一人ひとりが思いきり自分らしく生きると同時に、社会を構成する市民としての公の責任感をもって、ともに私たちの社会をつくっていくことなのだ、と。

人間と動物の運命

2006-03-28 23:56:53 | 日々の雑感
一人ひとりの人間には、固有の能力や才能、可能性がある。
動物にも、さまざまな潜在能力があって、そこには個体差がある。
猫にしても、犬にしても、ブタにしても、その他さまざまな動物にしても、人間との触れ合いの中で、驚くような個性を発揮する。

人間には、一生をかけて開花させるような可能性がある。たとえば、幼くして生命を失ったときなど、もし生きていれば、その人はどのような花を咲かせたのだろうかと惜しまれる。

それでは、動物はどうだろうか?
今、多くの動物たちが、殺されている。
その一匹、一羽、一頭が、もし殺されずに生き延びていたとしたら、そこにどのような個別の生が展開されたのだろうか?
その個体が生き続けた場合と、殺されてしまった場合とでは、霊的に見て、どのような違いがあるのか?

これは、僕が今考えているテーマのひとつである。



シュタイナー医学の通訳

2006-03-26 23:55:27 | 日々の雑感
鹿児島に帰ってきた。

飛行機が、霧でなかなか着陸できず、場合によっては福岡空港へ行くかもという機長のアナウンスに驚かされたが、霧が薄くなって戻ることができた。

疲れで、頭がボーっとしている。

今日は通訳をした。
アントロポゾフィー医学の通訳で、たまたま僕が東京にいて、その講演会に参加させてほしいとお願いしたら、通訳を担当されることになっていた方が体調不良で、僕が引き受けることになった。

準備もできず、講師の人柄も事前に知らないまま、講演の通訳を始めることになった。
話を訳しながら、だんだんにその人の考え方や、感じ方を探っていった。

四つの臓器、肺、肝臓、腎臓、心臓と、精神疾患の関係について。

それぞれの臓器の特徴を語ったうえで、その機能に問題が生じたとき、心の働きにどのような症状が現れるのかを示していく。

その基本となるのが、これらの四つの臓器と地、水、風、火という四元素との対応であり、さらには炭素、酸素、窒素、水素との対応。

講師の人柄によって、これらの問題がどのように語られていくのか、それが通訳をしていて興味深かった。

これについては、また書いてみたい。

那須と祖母と祖父と・・・シュタイナーが目指した社会

2006-03-25 23:42:28 | 日々の雑感
今日は、那須へ行ってきた。
母がやっている幼稚園の理事会に出席するためだ。
この幼稚園は、祖母が建てたものだった。

幼稚園に向かう那須街道をタクシーで通りながら、祖母のことを思い出していた。
那須街道の両側に続く赤松林は、僕が子どもの頃からあった。
当時、幼稚園はまだなく、2万坪もあるという広大な敷地に、ぽつんと(子どもの僕にはそのように見えた)祖母が建てた小さな家が建っていた。

当時は、まだ大学に勤めていた、もしくは辞めたばかりであった父と、母と、妹とこの家に泊まり、近くの畑からトウモロコシをもいできたのを思い出した。
確か夏休みで、父は一日中、推理小説やSF小説を読み、僕は頭が痛くなったり、目が痛くなったり、風をひいたりしていた。
近くの小学校を見学に行ったこともある。おそらく当時の父母は、那須に移住することを真剣に考えていて、子どもたちが通う学校を下見したかったのだろう。
ということは、父はもう大学を辞めた後で、祖母がつくろうという幼稚園を引き受けるかどうかを考えていたのかもしれない。

夕方、赤い空に激しい稲妻が光ったのを鮮明に覚えている。

祖母は幼稚園の初代園長となり、それを母が引き継いだ。そして、この幼稚園は、日本で最初に「シュタイナー」を掲げた園のひとつとなった。

幼稚園の園庭のとなりの「タイヤ遊園」には、祖父の銅像が立っている。
祖父は、代々木学院という予備校をつくった。大学受験のための予備校の、いわば先駆けとなった人である。

以前、祖父の遺稿集を読んだとき、彼が「大学への門戸をできるだけ多くの若者に開く」ために予備校の設立を思い立った、ということを知った。
彼の文章には、国家や、天皇への熱い思いが垣間見られる。

今日の理事会では、母が、祖母は「報国」ということを大事にしていた、と語った。

僕の中で、先日、父と向き合っていたときの思いが、ふたたびよみがえってくる。
僕たちが研究し、実践しようとしているシュタイナー思想は、この国の歴史とどのようにかかわっているのか?

僕は、祖父や祖母は、ただ単に「お国」を振りかざしていたとは思わない。
シュタイナー思想でいえば、「国」もしくは「国家」は、法律の領域である。本来の国家は、民族や血筋とはまったく関係がない。そこで目指される理想は、「法のもとにおける万人の平等」である。
だから、祖父が、できるだけ多くの若者に大学教育の機会を与えようと努力したことは、彼の「国への思い」と合致する。

実際、祖父は、戦後の混乱期に、2級建築士の免許をとり、破損した家を安く買い取っては、自分で修繕して少し高く売り、そうやって自分の願いである学校建設の資金をつくったという。後から、その時期のことを「教育者としては恥ずかしいアルバイトの期間」として、あまり語りたがらなかったらしいが、「国」に仕えようとする思いのために、それだけの努力を払っていたことを知って、僕はむしろ誇らしく思ったものだ。

その熱い思いを「報国」ということばや、「天皇」に託すことは、いわば個人の「自由の領域」に属する。
祖父は、自分の思いを他人に押し付ける人ではなかった。

シュタイナーは、社会のなかに三つの領域を明確に区別していた。
万人の「平等」を法律によって保障するのは、国家(行政)の仕事である。
一人ひとりの個人の「自由」は、教育や文化活動などの「精神生活」のなかに働いていなければならない。
そして、経済とは、人々が社会の中でお互いを認め合い、それぞれの個性に基づく活動を支えあう「友愛」の原理によって動くものでなければならない。

もちろん、これは理想であって、そこに至る道はまだまだ遠いのかもしれない。
けれども、これらの三つの原理を混同しないことは、僕たちの日常生活にとっても有益だろう。

今日では、経済活動が「自由」の原理で動くことが当然とされている。
「平等」を基盤とすべき役人の仕事が、特定の政治家や企業への「友愛」(偏愛)によって歪められている。
本来は多様性があってしかるべき教育・文化の「精神生活」の領域には、自由ではなく、「出る杭は打たれる」とか、個人の内面に干渉してまで全員に同じ理念を強要するといった、間違った平等の原理が働いている。

特に、シュタイナー思想に基づいて活動しようとしている僕たちは、たえずこの三つの原理を自分の身近な現実にひきつけて、問い直していくことが必要だと思う。

シュタイナーのいう「経済の友愛」は、豊かな人が貧しい人にお金を恵むことではない。友愛とは、お互いの異なる立場を認め合うということだ。(ただ単に「許容」するとか、勝手にさせておくということではない。おたがいがどういう人たちで、どういう状況にあるのかを、いわば客観的に認識するということである。)

しかし、何より大事なのは、一人ひとりが精神的に自立していて(つまりシュタイナーのいう意味で「自由」であり)、社会や共同体のなかに「平等」の原理が保障されているということだ。
それがあって初めて、「経済の友愛」という原理が働くことができる。
それなしには、一人の豊かな人に全員が寄りかかったり、一人の力強い指導者が全員を引っ張り、牛耳ったり、あるいは皆が「自由」に自分の責任において考え、発言し、行動すべきところなのに、「平等」であろうとしてお互いに譲り合い、自己を抑圧して身動きがとれなくなる、といった事態が生じるだけだろう。

僕の祖父や祖母が思っていた「報国」は、決して「国の名のもとに個人の自由を抑圧すること」などではなく、一人ひとりが「自分らしく」生きられる社会をつくることではなかったのかと思う。
なぜなら、シュタイナーがいうように、個々人が自分が本当に好きなことを見出し、自分らしく生きられることこそが「社会にとっての資本」であり、国家とは、一人ひとりが自分らしく生きることを「平等」に保障するものだからである。

今日は、久々に訪れた那須の地で、祖母への思いから、そんなことを改めて思った。

父との再会

2006-03-23 23:54:26 | 日々の雑感
久しぶりに父と会うために、町田に行った。

喫茶店で、やや緊張しつつ父を待ちながら、僕は考えていた。
この町田に最後に来たのは、いつだったろうか?

日本人智学協会という組織を父が立ち上げたばかりの約20年前、僕は頻繁にここに来ていた。協会のあり方について話し合い、それをサポートするための「世話人会」というのがあって、僕はそれに参加していた。
話し合いは、いつも夜中まで続き、同じ横浜方面の仲間にクルマで送ってもらうとき、父が外に出てきて、僕らを見送ってくれる。なんだか歴史の生成に関与しているような、何か重要な仕事をしているような感じがしたものだ。
あの頃、僕は父の力になりたいとすごく思っていた。

その後、いろんな人が離れていき、僕も遠ざかった。父は自分の歩みを続けていた。僕も自分なりに道を模索した。
ちょうど、今日、届いたばかりの「ダス・ゲーテアヌム」という週刊誌を読んだところだった。スイスのアントロポゾフィー(人智学)協会が発行している会報である。会員への通信のところに、協会の理事会に対して起こされた二つの裁判とその判決、その後の理事会の動きを不服とする人々が、4月の総会と特別総会に提出した「動議」の内容が詳しく紹介されていた。

なんという不信感と怒りがこれらの人々の間に渦巻いていることか。ある人は、理事がいくらの給料をもらっているのか、裁判の費用がいくらについたのかを公開せよと迫る。ある人は、支部やグループの代表の集まりに対して、理事会がそこに招待する人と招待しない人を選別したことは、スイスの社団法人法にも、アントロポゾフィーの精神にも反すると訴える等々。
これらの人たちは、もし理事会が自分たちの動議を取り上げなければ、法的手段に訴えるという。そこで、理事会は争いを避けるために、彼らの動議の内容を会報で紹介し、特別総会を開くことにした。

これらの人たちが問題にしていることを、僕もかつては真剣に論じた。シュタイナーは、アントロポゾフィー協会をどのような組織にしようとしたのか? そこから僕は、シュタイナーの画期的な組織論や社会論の一端を垣間見ることができた。

しかし、今、これらの人々の剥き出しの怒りに触れたとき、彼らはいったい何と戦おうとしているのだろうかと思う。悲しい、行き場のない感情だけが伝わってくる。

僕は、父が最近読んだ小説について聞き、父と母がまだ一緒だった頃の話を聞き、父が体験した母方の祖父母の人柄について聞いた。それから、自分が読んだ「ダス・ゲーテアヌム」の記事の話をした。

そして、心の中で、なぜかやたらと戦争のことを思っていた。父は、戦争の時代を生きた人だ。今日、僕が会った別の人は、陸軍にいた。その人は、戦争には反対だ、憲法も教育基本法も変えるべきではない、と言っていた。

僕が、父から聞きたいのは、戦争のことなのかもしれない。シュタイナー思想と、父が十代の少年として体験した戦争とは、彼のなかでどのようにつながっているのか、あるいはいないのか。

僕が今、アントロポゾフィー協会について思うのはただひとつ、シュタイナーにとっての「協会」は「社会」そのものだったということ。シュタイナーが「協会」のあり方として願ったこと、目指したことを真剣に受け止めようとするなら、僕たちは「社会」そのものを見る必要がある(ドイツ語では、協会も、社会も、同じ「ゲゼルシャフト」ということばである)。

まだうまく言い表せないが、今日は、何かを感じた日だった。
いつか改めて、この感覚をことばにして捉えなおしてみたい。
(上の写真は、町田の喫茶店でお店の人に撮ってもらったものです。)

ミニブタの気質?

2006-03-18 18:25:06 | 日々の雑感
今日、「テレビチャンピオン」という番組で、ミニブタの調教とレースというのを見た。
僕の住んでいる鹿児島では、オンエアの時期にかなりずれがあるので、実際にはいつごろ放映されたのだろうか。僕にとっては発見だった。ミニブタという存在さえ、知らなかった。最近では、ペットとして人気があるらしい。
移動動物園の園長として長年動物の調教に携わってきた人、イノシシの調教の専門家、ミニブタのショーのトレーナーである若い女性の3人が、初めは言うことを聞かず、飼い主をてこずらせているミニブタを一匹ずつ、14日かけて調教し、最後にレースにのぞむ。
番組全体を見られなかったのだが、僕にとってインパクトがあったのは、「ミニブタにも、明らかに気質がある」ということだった。

気質というのは、シュタイナーの人間観の基本で、地水火風の四つの元素で人の体質や気質を見ていく。
地の気質は、「憂鬱質」とも言われ、体型は痩せ型、思索的だが、くよくよと悩んだりする。
水の気質は、「粘液質」とも言われ、体型は丸みを帯びていて、自分に耽溺する傾向があり、食べることが好きである。
火の気質は、「胆汁質」とも言われ、体型はずんぐりしていて、いわゆる「猪突猛進」タイプ、意志の力で障害をはねとばそうとする。
風の気質は、「多血質」とも言われ、体型はすらっとしていて、風のように関心が移ろいやすい。

調教されている三匹のミニブタを見ていて、さすがに悩み多き地の気質(筋張った痩せ型のブタ?)はなかったが、それ以外の気質が見事にあらわれていると思った。
白いミニブタの「チャンプ」は、小さくて愛らしいが、気に入らないことがあるとすぐに人を噛む癖があった。動きはすばやいが、注意力が散漫だった。手押し車に前足をのせて二足歩行で進むレースでは、鼻で押すワザを自分であみ出し、風のように疾走していた。
白黒のミニブタの「ミルキー」は、からだも大きく、すごい力で飼い主をずんずんと引っ張って歩く。苗の新芽が好物で、それを食べているときは、いくら引き離そうとしても、頑としてその場を動こうとしない。ボールをゴールに入れるサッカーの練習では、ボールの前に手をおくと、エサをとられると思って突っかかっていく。でも、トレーナーとともに、大いなる意志の力を発揮して練習に励んでいた。
黒いミニブタの「トム」は、ずんぐりした体型で、最初は周囲の人々に対してまったく無関心だった。おかしかったのは、レースのとき、最初はリードしていたのに、リンゴを食べるところで、後からきたミルキーに追い抜かれたことだ。水の気質は、ゆっくり味わって食べるのが好きなのだ。トムだけは、普段から「水」が大好きだったし・・・。

以前から、動物にははっきりした性格の違いがあると思っていたが、こうした気質の違いを意識したことはなかった。シュタイナーの用語でいえば、動物には、物質の体(地の元素)と生命体(水の元素)に加えて、感覚体(風の元素)がある。人間の場合は、そこにさらに自覚体(火の元素)が加わる。
でも、このミニブタたちを見ていて、動物には「四つの体」(元素)がすべて備わっているのではないかと思うようになった。人間の特徴である、「自分はいずれ死ぬ」という意識や、「自分はどこから来て、どこへ行くのか?」といった自己の運命に対する意識は、いわゆる第五元素(Quintessence)から来ているのではないか・・・。

なんにしても、あのミニブタさんたちは「愛されて」いた。家族からも、トレーナーの人たちからも。食って寝るばかりと思われているブタさんの潜在能力を引き出すのは、人間の子どもと同様、コミュニケーションとか、愛情といったものなんですね。