入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

引っ越しました。

2008-10-31 12:02:19 | ごあいさつ
これまで「シュタイナー探訪」から「アントロポゾフィー研究所」まで、
お読みいただいた皆様に、改めてお礼を申し上げます。

今日から、新しいブログに引っ越すことにしましたので、お知らせいたします。
もし引き続きお読みいただければ、とてもうれしいです。

風韻坊ブログ
                                 

アントロポゾフィー指導原理 (51)

2008-10-30 19:15:47 | 霊学って?
51.
そのように歴史を考察することに対しては、容易に次のような反論が出されるだろう。そのような考察は、歴史から「根源性」や「素朴さ」を奪ってしまうというのである。しかし、それは不当な批判である。上記の考察方法は、「歴史的なもの」を人間本性の最奥まで辿ることによって、歴史に対する見方を深めるのである。それによって、歴史はより豊かに、より具体的になるのであって、貧しくなったり、抽象的になったりするのではない。ただし、歴史を記述するときは、生きた「人間の心」に対する感性と感覚を発達させなければならない。なぜなら、歴史を考察することによって、私たちは人々の心の深みへとまなざしを向けることになるからである。(訳・入間カイ)

51. Man wird leicht gegen eine solche Betrachtung einwenden, daß sie der Geschichte das Elementarische und Naive nimmt; aber man tut damit unrecht. Sie vertieft vielmehr die Anschauung des Geschichtlichen, das sie bis in das Innerste der Menschenwesenheit heinein verfolgt. Geschichte wird dadurch reicher und konkreter, nicht ärmer und abstrakter. Man muß nur in der Darstellung Herz und Sinn für die lebende Menschenseele entwickeln, in die man dadurch tief hineinschaut. (Rudolf Steiner)


歴史というと、
学校の「歴史」の授業を思う人もいるかもしれません。
歴史の教科書とか、歴史小説とか、
どこか私たちの「日常」とは遠いところにあるように
感じられるのではないでしょうか?

前項に引き続いて、この51項では、
私たち一人ひとりの生活、
さらには私たちの心の奥深くと、
人類の歴史は密接につながっていると述べています。

以前にいただいたコメントのなかに、
「心」や「ハート」、「マインド」といった言葉使いについてのご質問がありました。
そこで、ここではこれらの言葉についての僕の考え方と合わせて、
この指導原理の内容を見ていきたいと思います。

この51項の最後の一行には
Herz(英語のheart)とSinn(英語のsense)、
そしてSeele(英語のsoul)という言葉が出てきます。

歴史を語るときは、
「人間の心」に対する「感性」(heart)と「感覚」(sense)が必要だというのです。
この「人間の心」の「心」は
ドイツ語ではSeele、英語ではsoulです。
ソウル・ミュージックというときのソウルです。
魂の叫びとか、
黒人の魂というようなときのソウルなので、
「人間の魂」と訳すことも多くあります。

ただ、ここでは
私たちの通常の、感じたり、考えたりする心の働きが、
そのまま「歴史」とつながっていることを表わすために
「心」という訳し方をしました。

Heartは、心臓や心と訳されますが、
日本語でも「あの人にはハートがある」などといいますよね。
Heart(心臓)は、全身をめぐる血液が集まり、
また送り出される中心部です。
だから、心の温かさや
人の気持ちを思いやる心がheartとして表現されます。
Heartの温かさがあって初めて、
全身の機能が調和して働くことができます。
そのように、人々のハートの温かさによって
社会とか、家庭とかの平和も機能も維持されるわけです。

教科書に記載されているだけのような
歴史上の出来事や人物のことを話すときにも、
ハートが必要だと、シュタイナーはいうわけです。
なぜなら、たとえその人はずいぶんと昔に死んでいて、
今はその人がいつ生きて、何をしたかという「事実」しか分かっていなくても、
その人はかつて、今の私たちのように生きていて、
「私」として感じ、考え、行為していたからです。
そういう人間の《生》に対して、
そしてそこで「私」として精一杯生きた人間の《心》に対して、
歴史を語る者はheartをもっていなければならないというわけです。

さらに、シュタイナーは、
歴史に向き合うときは、
Heartだけではなく、senseも必要だと言っています。
このセンスは「感覚」と訳されますが、
光や色に対する視覚、
音や声に対する聴覚があるように、
「ああ、ここに人間が生きていたのだ」というような、
人間の存在を感じとる感覚があるといえます。
そういう感覚をシュタイナーは
「自我感覚」と呼びました。
この自我感覚は、自分自身の自我ではなく、
自分以外の人々のなかに、
自分と同じ「私」が生きていることを感じとる感覚です。
この自我感覚があるからこそ、
私たちは、他の人々の人生に対しても、
自分の人生と同じように大切なものとして向き合うことができます。
その意味で、
ここでシュタイナーが言っているsenseは、
自我感覚のことだと言えると思います。

ちなみに、
Senseには、「感覚」のほかに、「意味」という意味もあります。
Makes no senseといえば、「意味がない」とか「理屈に合わない」、
つまりナンセンスということになります。
以前、トーキング・ヘッズというバンドのアルバムのタイトルが、
„Stop making sense“だったのを思い出します。
「お利口さんはやめよう」とか
「常識にこだわるのはやめよう」とか、
そんな意味になるのかなと思います。
この意味でのSinnやsenseも、アントロポゾフィーにとって重要な語のひとつです。

歴史上の、
自分とは一見、何の関係もない人物のなかにも、
「たしかにそこに一人の《私》が生きていた」ことを感じ取り、
そのかけがえのない人生に対して温かい感性(ハート)をもって向き合うことで、
私たちは、「歴史」への感覚を発達させていきます。

歴史は、個人を超えた抽象的なものではなく、
一人ひとりの人間のかけがえのない《生》によって、
心の深みから繊細に紡ぎだされていくものなのです。

それはどこか、
「運命」への感覚と共通するものなのです。

というのも、
人生のなかに働く運命もまた、
ただ単に個人の思いを翻弄するものではなく、
生と死の繰り返しのなかで、
「私」は本当に何を目指して生きるのか、
という意志によって、叡智に満ちたしかたで紡がれていくからです。

そのような感じ方、考え方で「歴史」に向き合うとき、
歴史はより豊かで、より具体的なものとして見えてくる。
そのようにシュタイナーは言っているわけです。

そして、Seeleという言葉。
僕は、この言葉を広い意味での人間の感性(心性)として捉えています。
このSeeleを日本語で「心」と訳すときは、
思考、感情、あるいは言語の働きなど、
意識の「機能的」な側面を表そうとしています。

「魂」と訳すときは、意識の「機能」だけではなく、
情動や本能、予感など、表面的な意識では捉えきれない無意識的なもの、
さらには民族や人類にもつらなる
奥深さをもつものとしての「心性」を表そうとしています。

ただ、それが霊性(精神/Geist)と違う点は、
心性(Seele)はどこまでも個人性や主観性に根ざしているということです。
それは個人の心性であれば、
「私の思い」「私の感情」へのこだわりであり、
民族やグループの心性であれば(集合魂ともいいます)、
「われわれの思い」「われわれの主張」へのこだわりとして表出します。
つまり、そこにはつねに「分裂」や「排除」への傾向が必然的に含まれるのです。
ただ、このSeeleがあるからこそ、
私たちは一人ひとりが自分にこだわり、
人生の主人公として生きていくことができます。

霊性(精神)は、
そうした心性を突き抜けて、
永遠なるものや客観性、普遍性に到ったものです。
私自身のなかにも、
心性だけではなく、霊性があります。
それはその時々の感情に揺れる思いではなく、
一生を通じて私の根底にある、
「私は何を目指して生きるのか」という意志であり、
信念のようなものです。
それは私が生まれる前から、
生と死の移り変わりを貫いて存在しています。

一人ひとりの心性は、その人だけのものであり、
私の「感じ方」をそのまま他人に押し付けたり、
共有してもらったりすることはできません。
しかし、霊性は、
他人に共有してもらうことはできないけれど、
「理解」してもらうことはできます。
なぜなら、誰もが「霊性」をもっているからです。
それは「私」ということばが、
誰でも自分を指して「私」というという意味で、
「すべての人によって共有される普遍的な言葉」であると同時に、
自分のことを「私」といえるのは本人だけであるという意味で、
「自分だけが使えるもっとも個別的な言葉」であるのと同じことです。
つまり、人間の「霊性」とは本当の意味での「私」のことなのです。

そして、この「私」(霊性)は、
一人ひとりの人間の心(魂)のなかに生きています。

人間の心へのハートとセンスをもって歴史に向かうとき、
私たちは、
いくつもの時代を貫いて生き続けている
人類の霊性、
「私たち人間は何を目指して、この地球上に生きているのか」
ということを感じ始めるのです。

最後に、やはり「心」と訳される言葉に、
英語のmindがあります。
僕は、このmindは英語特有の言葉で
(辞書を引くと、サンスクリットのmanasやラテン語のmensに由来と書かれていますが)、
ドイツ語のGeistとSeeleをつなぐ意味合いの言葉だと思っています。

マインドには、思考や感情など、
意識の「機能」を表わす意味合いとともに、
Make up your mindというように、
決意や意志を表わす意味合いがあるからです。
自立したマインド、独立したマインドの持ち主というとき、
それは霊性に通じる意味合いを帯びています。

先ほど、ジョン・レノン(John Lennon)の
Mind Gamesという曲を聞いていました。
僕は以前、「アントロポゾフィーはロックだ!」と言ったことがありますが、
特に、ジョン・レノンの歌を聞くと、
アントロポゾフィーの「革命的精神」とのつながりを感じます。

歌詞カードが手元になく、きちんと聞きとれていればですけど、
このMind Gamesも不思議な歌だなあと思いました。

歌詞のなかには「聖杯」が出てきたりしますが、
ジョン・レノンは
「ボクたちは永遠にマインド・ゲームを行っている」といいます。

ゲームという言葉は、
ヘルマン・ヘッセの『ガラス玉遊戯』も想起させますが、
そこに「法則」(ルール)があり、
成功も、失敗もあることを感じさせます。
私たち一人ひとりが人生のなかで、
考え、感じ、迷いながら
人類が永遠に続けるゲームを行っているというのです。
そこで行きつく答えは「愛」(Love)。

ここでジョン・レノンがいうmind gamesは、
かつてシュタイナーが語った「人類の精神作業」そのものだと思います。

僕がこの言葉と最初に出合ったのは、『哲学の謎』のまえがきでした。
私たちが、日々の生活のなかで、
何かに遭遇し、悩み、考えて、
自分なりの決断を下して、一歩を踏み出すとき、
それはとても孤独な作業だけれど、
同じような問題に遭遇した人たちがこれまでもいた。
人類のこれまでの歩みのなかで、
一人ひとりの個人は人生に向き合い、
精一杯考えて、自分なりの答えを見出そうとしてきた。
一人ひとりが自分の足で立ち、孤独に生きながらも、
人類の歩みとのつながりを感じることによって、
自分自身への精神的な力づけを得ること、
それが「哲学」なのだ。
そのようにシュタイナーは言っていると、
当時の僕は感じて、力づけられたのを覚えています。

僕たち一人ひとりが考え、感じ、決意すること、
それを
ジョン・レノンはmind gamesと言ったのだと思います。
それはシュタイナーのいう人類全体の精神作業(geistge Arbeit)に、
つまり人類の霊性につながっているのです。

人類の歴史に対して、
ジョン・レノンの言葉も、
シュタイナーのこの指導原理の言葉も、

私たちの人生のなかの、一人ひとりの心の働きが、
人類の精神活動とつながっていることを伝えているのだと思います。

アントロポゾフィー指導原理 (50)

2008-10-29 14:13:30 | 霊学って?
50.
特に重要なのは、「人類の歴史的生命」の考察に関して次の点を指摘することである。すなわち、歴史において、一つの時代からまた別の時代へとさまざまな出来事を運び込むのは、人間自身の心である。そのことを明らかにすることで、「歴史考察」は生きてくるのである。繰り返される地上の「生」のなかで、人々の心は、時代から時代へと旅を続ける。(訳・入間カイ)

50. Es ist von ganz besonderer Wichtigkeit, darauf hinzuweisen, wie die Betrachtung des geschichtlichen Lebens der Menschheit dadurch belebt wird, daß man zeigt, es sind die Menschenseelen selbst, welche die Ergebnisse der einen Geschichtsepoche in die andere hinübertragen, indem sie in ihren wiederholten Erdenleben von Epoche zu Epoche wandeln. (Rudolf Steiner)


この50項で、
「個人の生」から「人類の生」へと視野が広がります。

この「人類」という視点は、
シュタイナーの思想にとっても、
アントロポゾフィー霊学にとっても、
きわめて重要な意味をもっています。

私たちが個人として生きているように、
人類も「生きている」。
歴史というものは、
ただの出来事の連なりではなく、
「人類の生」の軌跡である、という見方です。

これまでの指導原理では、
私たち一人ひとりの「生」が
地上の生と、死後の生を通して、
「内と外」の転換を繰り返し、
そこでは私たちの意志が
地上の生における「運命」のなかに働いている。
そういうところを見てきました。

ここでは、
そういう私たち一人ひとりは、
ある時代、ある地域を
他の人々とともに生きていることを指摘しています。
そこで私たちが何を感じ、何を考えて、
どんな生き方を目指すのか。
その意志は、死後の生においても
私たち自身を形成する力として働き、
私たちはふたたび地上に生まれます。

そのとき、新しい地上の生において
私たちがどの時代、どの地域に生まれるかは、
私たち自身の意志によって決まるわけです。

そして、私たちが時代から時代へ、
ある地域から別の地域へと「生まれ変わり」を続けるなかで、
私たちは個人の輪廻転生だけではなく、
人類としての歴史を紡いでいくことになります。

つまり、私たちは、
人類の歴史という「生」を担うものでもあるのです。
そして、
個人の「生」のなかに、
私たちの意志が「運命」の作用として働くとすれば、
人類の歴史という「生」のなかにも、
私たち自身の意志が働いていることになります。
(ただし、繰り返しになりますが、
運命のなかに私たちの意志が働いているというとき、
「不幸な目に合うのは、おまえ自身の行いが悪かったからだ」というような、
単純な因果応報の考え方ではないということは何度でも強調したいと思います。)

このことを意識のなかにとどめて、
さらに指導原理を読んでいきたいと思います。

アントロポゾフィー指導原理 (49)

2008-10-28 23:42:39 | 霊学って?
49.
人間は運命への問いによって、それまでの地上的な体験を超えた次元に目を向けざるをえなくなる。それによって、感性(感覚的本性)と霊性(精神的本性)の関係を真に感じ取ることができるようになるだろう。人間本質のなかに運命の働きを見る者は、すでに霊性のなかに立っている。なぜなら運命のなかのさまざまな関連性は、自然的なものとはまったく関わりがないからである。(訳・入間カイ)

49. In dem Besprechen dieses Hinausweisens des menschlichen Erlebens aus sich selbst an der Schicksalsfrage wird man ein wahres Gefühl entwickeln können für das Verhältnis des Sinnlichen und des Geistigen. Wer das Schicksal im Menschenwesen waltend schaut, der steht schon im Geistigen darinnen. Denn die Schicksalszusammenhänge haben gar nichts Naturhaftes an sich. (Rudolf Steiner)


この49項では、
「人間本質のなかに運命の働きを見る」という言葉に注目したいと思います。

本質というのは、ドイツ語のWesen。
「存在」とも訳されます。
このシュタイナーの言葉は、
「人間を成り立たせているもののなかに、運命の働きがある」
という意味になります。

私たちが「人間」というとき、
その人間とは何でしょうか。
その人がその人であるためには、
遺伝子とか、これまでの個人史とか、
自分の自分に対する意識とか、
他の人々の意識のなかに存在するイメージとか、
さまざまな要素が必要です。
そのなかで、きわめて重要なものとして
「運命の働き」があるということです。

シュタイナーは、
人間を成り立たせているもの、
つまり「人間の本質」は、
運命の働きによって成り立っていると言っているのです。

これまでの指導原理で見てきたのは、
人が死んで、ふたたび生まれるまでに、
つまり死と新たな誕生の間の「生」において、
自分は次の地上の人生ではどう生きたいかという意志が、
霊的な作用として、
人間自身をつくりあげていくということでした。

その意志が、
新たに地上に誕生してから、
運命の作用として、人間に働きかけるのです。

その意味で、
「人間とは何か?」と考えるとき、
運命を抜きには答えは得られないということになります。
そして、
運命の働きは「人間の本質」を成していると見るなら、
それは霊性を捉えていることになる。
なぜなら、運命の働きは、目にはみえない「霊的」なものだからです。

そのように運命について考えていくことで、
感覚によって捉えられるもの(感性)と、
精神によって捉えられるもの(霊性)との関係が、
次第にリアルに感じられてくるはずだ、ということです。

私たちがいまこの瞬間、
「なぜ自分はここでこうしているのだろう?」と考え、
そこに運命の働きを感じるとき、
私たちは「霊性の作用」に直接、向き合っています。

そして、その運命の作用は、
「私」という「人間の本質」と不可分に結びついているのです。

アントロポゾフィー指導原理 (48)

2008-10-27 22:31:05 | 霊学って?
48. Durch ein solches Heraufheben wird man gewahr, wie innerhalb des Lebens zwischen Geburt und Tod das Schicksalgemäße nicht gewoben wird; man wird dadurch gerade an der Schicksalsfrage auf die Betrachtung des Lebens zwischen Tod und neuer Geburt gewiesen. (Rudolf Steiner)

48.
そのように無意識であったものを意識の領域に運び上げていくことによって、「運命の作用は、誕生と死の間の人生のなかで織り成されるのではない」ということに気づくようになる。そして、まさに運命への問いによって、死と新たな誕生との間の「生」に目を向けるように促されるのである。(訳・入間カイ)


この48項は、
運命について考えることが、
「死後の生」について考えることにつながると述べています。

私たちの多くは、
「死んだらどうなるのか?」
「死後、私のこの意識はかき消えてしまうのか、それとも存続するのか?」
と考えたことがあるでしょう。

シュタイナーは、
「死後、どうなるのか?」を問う前に、
現在の、地上の人生で遭遇する「運命」ついて、
まず考えることを勧めているのです。

アントロポゾフィー霊学の特徴の一つは、
人間の「生」というものを、
生まれてから死ぬまでの「地上の人生」だけではなく、
いったん死んでから、また生まれるまでの期間も、
「死から新たな誕生までの《生》」と見なすところにあります。

つまり、人間の「生」はふたつあるのです。

そしてこれまでの指導原理で見てきたように、
現在の人生のなかで起こるさまざまな出来事の意味を、
人生全体との関連のなかで考えるうちに、
そこには「無意識の意志」が働いていることに気づくようになります。

その「意志」がどこから来るのかを考えるとき、
それはこの地上に生まれてからのことではない、ということに気づきます。
なぜなら、現在の「運命」に意味を与えるような視点は、
生まれてから死ぬまでの一生という限定された枠のなかでは捉えられないからです。

この出来事は、確かに私の人生全体にとって意味がある。
しかしその意味ゆえに、
この出来事を願うような「意志」は、
地上の自分には持ちえない。
地上を離れたところから、自分自身の生を見つめるのでなければ、
地上の自分のためにこのような運命を願うことはありえない。

つまり、自分の運命の中に、
地上の視野を超えた、広い視野がかかわっていることに気づくわけです。

そのとき、私たちは、
死後にも私たちの意志があり、
その意志が死後も、自分自身のために、
こうした運命の働きを準備するという考え方に思いが到るのです。

アントロポゾフィー霊学は、
つねに身近な現実から考え始めます。

今の人生で遭遇する一つひとつの出来事から、
運命というものへ、
そしてその運命をつくりだす、
生まれる前の「生」、
つまり「死と新たな誕生の間の《生》」について考えていくことが、
アントロポゾフィー霊学の、特徴的な考え方なのです。

アントロポゾフィー指導原理 (47)

2008-10-26 21:01:36 | 霊学って?
47.
人間の運命を全体としてつくりあげているもの。人間の通常の意識は、その微小な部分しか捉えることはできない。運命の働きの大部分は、無意識のなかに潜んでいる。しかし、まさに運命の中に働くものを解き明していくことが、「無意識的なものは意識化されうる」ということを示している。時々、まるで無意識というものは「知りえない」ものであり、そこに「認識の限界」があるかのように語る人々がいるが、それらはまったく間違っている。人間の運命のなかで、一つひとつの事柄が解き明されていくにつれて、以前は無意識であったものが意識の領域へと運び上げられていくのである。(訳・入間カイ)

47. Was in der Schicksalgestaltung des Menschen liegt, das tritt nur zum allerkleinsten Teile in das gewöhnliche Bewußtsein ein, sondern es waltet zumeist im Unbewußten. Aber gerade durch die Enthüllung des Schicksalgemäßen wird ersichtlich, wie Unbewußtes zum Bewußtsein gebracht werden kann. Es haben eben diejenigen durchaus Unrecht, die von dem zeitweilig Unbewußten so sprechen, als ob es absolut im Gebiete des Unbekannten bleiben müßte und so eine Erkenntnisgrenze darstellte. Mit jedem Stück, das sich von seinem Schicksale dem Menschen enthüllt, hebt er ein vorher Unbewußtes in das Gebiet des Bewußtseins herauf. (Rudolf Steiner)


この47項は、
人間の「意識」や「知ること」の大切さを述べています。
運命に対しても、
その「意味」を知ろうとすることは無駄なことではなく、
とても重要なことなのです。

運命に対して、
私たちは「なぜ?」な思いを抱きながらも、
「どうせわからない」という気持にもとらわれます。
けれども、霊学は
通常は「人間には知りえない」とされていることに対して
その意味を問うことから始まるのです。

運命はどのようにつくられるのか、
なぜ自分の人生はこのように展開していくのか。
その理由は、はじめ、私たちにはほとんど分かりません。

しかし、前項で触れられているように、
人生のなかで遭遇する一つひとつの出来事の意味を、
「人生全体」との関連のなかで探っていくとき、
「この出来事があったから、今の自分がある...」というように、
一つの事柄の意味が、全体との関連のなかで少しずつ見えてくることがあります。
もちろん、それだけで「運命」そのものが理解できたわけではありません。

しかし、ほんのわずかな「理解」でも、
それによって、
「運命」をつくりあげる膨大な無意識の働きは、
少しずつ「意識化」されていきます。
そして、
その「意識化」によって、私たちは少しずつ
自分の運命に対して、
自分の人生に対して「主体性」を獲得していくのです。

霊学は、
一人ひとりの人間を何らかの「教え」に依存させるものではなく、
一人ひとりがそれぞれ異なる「運命」に対して
主体的にかかわっていくための支えになろうとするものです。

シュタイナーは「運命」というテーマに即して、
そのような霊学の特徴を明らかにしようとしています。
あるいは、別の言い方をすれば、
霊学の本質は、
人間の運命への取り組みを支えることにあるからこそ、
この指導原理の導入部分で、
まず運命の問題を取り上げているともいえます。

そして、霊学の大きな役割のひとつが、
「以前は無意識であったもの」を「意識化」していくことにあるのです。

アントロポゾフィー指導原理 (46)

2008-10-25 12:51:11 | 霊学って?
46. Es sollte an Schicksalsfällen, die in das Dasein des Menschen so eintreten, daß man ihre Bedingungen im jeweilig gegenwärtigen Erdenleben nicht finden kann, gezeigt werden, wie gegenüber solchen Schicksalsfällen schon rein die verstandesgemäße Lebensansicht auf früheres Erleben hindeutet. Es muß natürlich aus der Art der Darstellung klar sein, daß mit solchen Darstellung nichts Verbindliches behauptet, sondern nur etwas gesagt werden soll, das die Gedanken nach der geisteswissenschaftlichen Betrachtung der Schicksalsfrage hin orientiert. (Rudolf Steiner)

46.
人間は生きていくなかでさまざまな運命に遭遇する。その際、地上を生きる人間にとって、自分の「現在の人生」を振り返るだけでは、そのような運命がもたらされる条件が見出せないことがある。そうした運命の事例に即して、純粋に普通の知性で考えても、「前世」に何らかの体験があったのではないかと思わざるをえない場合があることを示していくとよいだろう。もちろん、人間が何かに縛られているような印象を与えてはならない。運命の問題に対して、私たちの考え方を「霊学による考察」に向けて方向づけることが重要なのである。(訳・入間カイ)


この46項では、
「条件」という言葉に注目したいと思います。

運命という出来事には、
その出来事が起こるための「条件」があるということです。

そもそも、自分の今の生活を考えたとき、
そこには多くの「偶然」や「出会い」が重なり、
その時々の自分の思いが働いています。

あの時、あの人と出会わなければ、
もしくは、この本を手に取らなければ、
あるいは、ああいったことが起こらなければ、
そして、そのとき自分自身が一歩を踏み出さなかったら、
今、自分はこういう生活をしてはいなかった。
そのように考えられるのではないでしょうか。

つまり、そこには
「外」からもたらされる出会いやきっかけと、
「内」からもたらされる私自身の意志が働いているのです。
いくら出会いや促しがあっても、
私の気持ちが動かなければ、
運命は成立しないのです。

今の自分の生活は、
いくつもの「条件」が重なって成り立っています。
そして、そこには
「外なる条件」と「内なる条件」があります。

たとえば、
現在の「私」のあり方を成り立たせている「条件」として、
もっとも基本的なのは、
この時代に、
この地域に、このような親のもとに生まれてきた、
ということではないでしょうか。

それを「偶然」と考えることもできます。
でも、もし自分の今のあり方を大切にするのであれば、
この「私」を成り立たせている条件は、
「運命」ということになるでしょう。

運命が成り立つためには、
「外なる条件」と「内なる条件」の両方が必要です。

親となるふたりが出会い、
それによって、「私」が生まれる条件がととのったとしても、
それは「外なる条件」にすぎません。
それに加えて、「内なる条件」が、
つまり私自身が、
「この時代、この地域に、この親のもとに生まれる」
という意志をもつことが必要だったはずなのです。

すると、
私がそのような意志をもつに到った背景には、
「生まれる前」の何らかの体験があったのではないか。
そのように考えることが可能なのではないでしょうか。

シュタイナーにとって、
運命とは、
人間を受け身にしたり、縛ったりするものではなく、
一人ひとりの「意志」(主体性)を働かせるための「条件」なのです。

なぜ自分はこんな境遇に生まれてしまったのか、と問うこともできれば、
発想を転換して、
こういう境遇に生まれたからこそ、
今の自分があるということもできます。

そして、今の自分のあり方が、
自分が今後もさらに成長・発達していくとしても、
なるべくしてなった「必要なあり方」であるなら、
今の自分のあり方を願った、自分自身の意志があるはずです。

そして、
もし本当に、そのような意志があったとすれば、
こんな今の状況を目指したり、引き受けたりするまでには、
それなりの理由がなければなりません。

かつて、どのような体験をすることで、
このような人生、
このような状態を
目指したり、引き受けたりしようとするに到ったのか。

そのように問いかけることが、
霊学によって、
運命を考察することにつながるのです。

アントロポゾフィー指導原理 (45)

2008-10-24 20:40:26 | 霊学って?
45.
誕生から死に到るまで、物質のからだをもって生きるなかで、善人は外面的な生活においては不幸になることがあり、悪人は少なくとも表面上は幸福になることがある。この事実の意味を描きだす必要がある。その際、理論的な説明よりも、イメージ(形象)による例えを示すほうが重要である。なぜなら、イメージ(形象)による例えのほうが、「霊学による考察」の準備としてふさわしいからである。(訳・入間カイ)

45. Es sollte die Bedeutung der Tatsache, daß im physischen Lebenslaufe zwischen Geburt und Tod der Gute unglücklich im Außenleben, der Böse wenigstens scheinbar glücklich werden kann, geschildert werden. Beispiele in Bildern sind für die Erörterung wichtiger als theoretische Erklärungen, weil sie die geisteswissenschaftliche Betrachtung besser vorbereiten. (Rudolf Steiner)


この45項では、前項に引き続き、
運命に対する
「霊学による考察」とはどういうものなのかを述べています。

なぜこの世界では、善い人は報われずに不幸になり、
悪いことをする人は豊かになって、一見幸せになっていくのか。
これは私たちがよく感じること、
とくに思春期に痛切な疑問として悩んだことではないでしょうか。

シュタイナーは、
そのような「世界の公正さ」に対する素朴な疑問が
「霊学による考察」につながっていくと述べています。

ただし、
「理論的な説明」よりも、
「イメージ(形象)による例え」を示していくことが重要だというのです。

僕はこのことを次のように理解しています。
つまり、現実のなかにある不公正な状況に、
実際に、一つひとつ目を向けていって、
それをイメージ(形象)として捉えるということです。

ただし、ここでいうイメージは、
現実にありもしないことを勝手に思い描いた、
主観的なイメージではありません。
現実を見つめたとき、
そこに自分が見てとったことを他者に伝えるためには
相手にも現実が思い描けるように、
イメージで語らなければなりません。
つまり、シュタイナーのイメージ(形象)は、
現実をありのままに見ることによってつくりだされるものなのです。

霊学を語る側が、
現実の世界に目を向けずに、
ただカルマや輪廻転生や、あるいは子どもの発達について
あれこれ述べていたとしても、
それは「霊学による考察」にはなっていないのです。

現実に存在する不幸な状況、悲しい状況は、
物質における現実として展開されます。
だとすれば、
その背後には、霊的な現実があるのです。
今、目に見えている物質的な現実をしっかりと見なければ、
―しっかり見ることによってしか、イメージ(形象)は生じないのですから―
その背後にある霊的な現実を捉えることはできません。

霊学というものは、
「運命」という、私たち一人ひとりに直接かかわっている
「目にみえない」作用に対して
この世の物質的な現実を見つめるなかから
その背後の霊的な現実に到ろうとします。

そして
この世界に不公正が厳然と存在するのはなぜか。
その意味を探るためには、
理論を繰り広げることではなく、
現実に存在する一つひとつのイメージ(形象)を見ていくことが必要だ、
とシュタイナーは述べています。

そのように
「現実をあるがままに見ようとする態度」が、
「霊学による考察」のための準備になるのです。

アントロポゾフィー指導原理 (44)

2008-10-22 15:27:37 | 霊学って?
44.
運命に対する問いは、「霊学」による考察へと移行しなければならない。そのためには、具体的な個々の人間の体験例に即して、そこに運命の作用が一貫して働いていることに気づく必要がある。そして、その運命の作用が、人生全体にとって持つ意味を見出していくのである。たとえば、ある青年期の体験を見るとしよう。その体験は、必ずしも精神的に自立した、本当の意味で「自由」な人格によって引き起こされたものではないだろう。ところが、その体験が、その後の人生全体の形成に、大きな役割を果たすことがある。(訳・入間カイ)

44. Ein Übergang zu der geisteswissenschaftlichen Betrachtung der Schicksalsfrage sollte dadurch herbeigeführt werden, daß man an Beispielen aus dem Erleben einzelner Menschen den Gang des Schicksalmäßigen in seiner Bedeutung für den Lebenslauf erörtert; zum Beispiel wie ein Jugenderlebnis, das ganz sicher nicht in voller Freiheit durch eine Persönlichkeit herbeigeführt ist, das ganze späten Leben zu einem großen Teile gestalten kann. (Rudolf Steiner)


この44項から、
「霊学」とはどうものなのか、が示されます。

たとえば、
「運命」という問いに対して、
私たちは漠然と、
「なぜこういうことが起こるのだろう?」
「不思議なめぐり合わせだ」
といった感想を抱きます。
でも、それは「感想」にすぎません。

霊学は、
通常はそのような「不思議な思い」や
「信仰」の対象でしかないことを
「考察」の対象にしようとするのです。

そのとき、
「運命」という「あるかないかわからないもの」に対しても、
まずその「作用」に気づくところから、始めるわけです。
その際、シュタイナーは、
霊学が運命を考察する場合は、
「運命とは、こういうものだ」という一般論ではなく、
具体的な誰かが体験した具体例に即して考えることが重要だと
言っているわけです。

そして、
「ああ、ここには運命的な何かがある」と感じられる体験があったとき、
その体験だけをみるのではなく、
その体験が、その人の人生全体にとってどういう意味を持っているか、
というところに目を向けることが大切なのです。

つまり、一つの体験という「個別」なものを
その人の「人生」という「全体」に関連づけて見るということです。

たとえば、若いころには、
血気盛んであったり、まだ「分別」が十分になかったりして、
後から見れば「おとなげない」行為をしてしまうかもしれません。

その行為だけを取り上げれば、
「若気のいたり」と言えるかもしれないことが、
実はそれによって、
その人のその後の生き方が決まってしまうこともあるわけです。

その時点では、
その若者は、その行為によって
自分の人生を決定するつもりはないでしょう。
ところが、それによって、
実際にその人の人生全体が大きく方向づけられるとしたら、
そこには「運命的」なものが働いているといえます。
その若いころの行為は
人生全体にとって大きな「意味」をもっているわけです。

では、その「意味」とはどういうものなのか、
その行為によって、人生はどのような影響を受けたのか、

そこに目を向けるところから、
「霊学の考察」が始まるのです。

アントロポゾフィー指導原理 (43)

2008-10-21 15:43:41 | 霊学って?
43.
この霊的な現実化とは、人間が、死と新たな誕生の間で、自分自身をつくりあげることを意味する。人間は地上を生きるなかで、さまざまな「行為」を行った。今、死と新たな誕生の間で、人間はみずからの「本性」を自分自身の地上での行為の「写し絵」として作り上げるのである。そして、ふたたび地上に降り立ったとき、人間はこの「本性」にもとづいて、物質界を生きる自分の人生をつくりあげていく。運命のなかに働く霊性は、物質界のなかに現実化されていく。しかし、この現実化の前に、運命の原因となるものが、あらかじめ霊性の領域に引き戻されている必要がある。なぜなら、運命の作用は、地上における物質性の現れの結果としてではなく、霊性のなかから、つくりあげられていくからである。(訳・入間カイ)

43. In dieser geistigen Verwirklichung gestaltet sich der Mensch selber zwischen dem Tode und einer neuen Geburt; er wird wesenhaft ein Abbild dessen, was er im Erdenleben getan hat. Aus diesem seinem Wesenhaften heraus gestaltet er dann beim Wieder-Betreten der Erde sein physisches Leben. Das Geistige, das im Schicksal waltet, kann im Physischen nur seine Verwirklichung finden, wenn seine entsprechende Verursachung vor dieser Verwirklichung sich in das geistige Gebiet zurückgezogen hat. Denn aus dem Geistigen heraus, nicht in der Folge der physischen Erscheinungen gestaltet sich, was sich als schicksalgemäß auslebt. (Rudolf Steiner)


この43項では、
ふたつの「現実化」について語っています。
死後、ふたたび地上に生まれる前の、霊界での現実化と、
ふたたび地上に生まれてからの、物質界での現実化です。

ここで重要に思うのは、
人間の地上での行為が、霊界での「自分自身」になるということです。
「写し絵」というのは、
霊界で、その人に会ったとき、
その人の姿をみれば、その人が地上で何をやってきたかが見えるということです。
しかも、それがその人の「本性」になるのです。

それほどまでに
人間の「行為」は、
人間自身とつながっている、ということです。

ここでも、前に述べた
「内」と「外」の転換が前提になっています。
つまり、物質界における「内面」は
霊界における「外観」や「外界」になるということです。

そして、この地上で
一見、そとから自分に向ってくるもの、
あるいは、周囲の環境、
そして、そのなかで行為していく自分、
つまりすべてをひっくるめた自分の「人生」が、
生まれる前に、霊界でつくりあげた「自分自身」なのです。

だから、ひとりの人間の人生は、
霊界からみると、その人の本性そのものです。
そして、その人がどのように生きたかによって、
死後、その人がつくりあげる「本性」が変わってきます。
そして、その本性にもとづいて、
次の人生における運命のあり方が変わってくるということです。

そして、ここでシュタイナーが強調しているのは、
運命というのは、決して
物質界における「原因と結果」の関係ではない、ということです。

たとえば人生のなかでつらい目にあった人は、
前世で悪いことをしたから、その罰があたったのだというような、
そういう考え方ではない、ということです。

物質と霊性の関係、
内と外の絶えざる転換という見方からすれば、
この世で「現実化」するもの、
つまり、物質界の現実として
「外」から私たちに向かってくるものは、
いったん霊的な「現実」として、
霊界で、私たち自身がつくりあげた「本性」にもとづくものです。
その「本性」にもとづいて
つくりあげられていくのが、この世の現実なのです。
そういう意味で、シュタイナーは
「運命のなかに働く霊性」という言い方をしているわけです。

この霊性のなかには、さまざまな叡知が込められています。
自分自身の人生をふりかえるだけでも、
不思議なめぐり合わせや、簡単には理解できない出来事がたくさんあります。
そのような複雑な人生をつくりだしていくだけの知性というか、
叡知にみちたものが「霊性」なのです。

単純に、前世はこうだったから、今生はこうなる、
というのは、実のところ、物質の次元しか見ていない発想です。

一回の地上生と、その次の地上生との間には
「霊界での生」があり、
そこで「霊的な現実化」が行われている。

そして、そこで現実化された霊性が
地上の運命のなかに働いているのだから、
本当に運命を理解しようとすれば、
「かつての物質的な現実の結果としての運命」ではなく、
霊性のなかから生み出される運命、という考え方が必要になる。

この43項はそのように言っているのだと思います。