人間の三つの大きな特徴として、直立歩行、言語、思考を取り上げてきた。
今回は、三番目の「思考」(考えること)を中心に見ていきたい。
アントロポゾフィー(人智学)は、まず目に見えるものを丁寧に観察し、そこから「目に見えないもの」(つまり「霊的」なもの)を読み解いていく。
人間の「考え」は、目には見えない。
他の人々が何を考えているのかは、外からは分からない。
以前、「内」と「外」という観点を紹介したが、「考え」というものは、まさに人間の「内」に生じるものである。
思考は目に見えないのに、「人間は考える存在である」ことを誰も疑わない。
それは、ひとつには「自分が考えている」ことが実感できるからだろう。
そして、もうひとつには、他の人々が、からだを動かしたり、ことばをしゃべったり、絵を描いたりする「活動」の中に、何らかの考えが表現されていることを感じるからだろう。
たとえば、幼い子どもが絵を描いているところを見ると、クレヨンなどでらくがきを始めたばかりの幼児は、最初は形にならない、グシャグシャした線を描いていたりする。それが次第に丸とか、四角とか、はしごのような形をなしてくる。そして、やがては木とか、お母さんやお父さんの「顔」とか、「おうち」を描くようになるのである。
そのように「顔」とか「家」などの具体的なモノを描くようになった子どもは、絵を描きだす前に、「きょうは、おうちの絵を描く」と言って、初めから「目的」を持っていたりする。それが「考え」なのだ。
実際に出来上がった絵を見ても、その子どもが何を描きたくて描いたのか、その考えが現れている。
ところで、「考え」とまぎらわしいのが、感情である。
感情もやはり、目にはみえない。
しかし、人間は自分自身の「内」に怒りや悲しみや喜びを感じたことがあるから、他の人の感情も読み取ることができる。
絵の中には、その絵を描いた人の「考え」だけではなく、感情も表現されている。
「考え」と「感情」の違いって、何だろうか?
たぶん、それは「自分」との関わりだと思う。
感情は、いつも「私」が当事者である。
怒っていたり、悲しんでいたり、喜んでいたりするのは、いつも「私」である。
だから、感情は、「思考」よりも、ずっと切実なのだ。
思考は、誰にとっても同じである。
太陽は、東から昇って西に沈むとか、
1+1は2であるといったことは、
私が怒っていようが、悲しんでいようが、変わることがない。
でも、太陽は東から昇って西に沈む、というのは、目にはみえない「考え」である。
というのも、かりに朝8時に、家の外に出て、太陽を見上げてみても、そこに見える太陽は、まぶしかったり、暖かったりするかもしれないが、決して「東から昇って西に沈む」なんていう姿をしているわけではない。
「太陽は東から昇って西に沈む」というのは、太陽の動きを何日かかけて観察したうえで読み取った「考え」なのである。
数も目にはみえない。
数を「考える」ことができるのは、人間だけだ。
サルは、2本のバナナとか、3個のオレンジといったことは把握できるが、
2本のバナナと3個のオレンジを足すと5になる、という「5」という数は捉えられないという。
目に見える世界に存在するのは、バナナとか、オレンジとかいう具体的なモノであって、「数」そのものはどこにも存在しない。
「数」は、人間が考えることによって読み取ることしかできない。
感情も目にみえない。
目にみえない他人の感情を読み取るには、自分の感情を働かす必要がある。
痛みを感じたことがある人だけが、他人の痛みを感じ取ることができる。
ところで、「シュタイナーの身体観(1)」で、こんなことを書いた。
幼い子どもが立ち上がるところを観察しながら、それを観察している自分の「内」にどのような感情や思いが生じてくるのかに注意を向ける。すると、そこに生じてくる思いは、たとえば「創造への意志」とでもいえるようなものではないか、と。
もしそのようなことが感じられるとすれば、それは、幼い子どもが初めて立ち上がろうとするときに働いている衝動(意欲や意志といったもの)が、それを見ている大人の中にも働いているからである。
立ち上がろうとする力、手足を動かす力を、かりに「意志」と呼ぶとしよう。
もともと目には見えない「考え」や「感情」が、人間の行為によって目に見えるものになるのは、「意志」の働きがあるからだ。
怒りや悲しみや喜びを表現するために絵を描くためには、手で絵筆を取らなければならない。
何らかの目的を実現するために事業を起こすためにも、人と話し合い、足で歩くなど、からだを動かさなければならない。
自分の感情や考えをことばで言い表すためにも、口を開いて、音声を発するという行為が必要である。
そうした身体の行為があったとき、そこから「目的」(考え)や「感情」という目に見えないものを読み取ることが可能になる。
そのようにして、人間は、目にみえない「内」なるものを、意志の力で「外」に表出し、目に見えるものに変えているのだ。
幼い子どもは、まず「立ち上がること」(直立歩行)を獲得することによって、目にみえない感情や思考を表現するための基盤をつくる。
その基盤のうえに「言語」(ことば)が獲得される。ことばによって、まずは感情が表現される。
そして、言語という基盤のうえに、「思考」が発達する。
そのように、幼い子どもが段階を追って獲得していく「人間の三つの大きな特徴」(直立歩行、言語、思考)は、それを「内」から見ようと試みることで、人間が存在することの大きな意味を示すようになる。
人間は、この目に見える物質世界に、目に見えない感情や思考を実現していく。そして、目にみえる世界から、そこに働いている目にみえないものを読み取っていく。そのすべての基盤が、幼児期に築かれるのである。
以上、シュタイナーの身体観を理解するための前提として、人間の三つの大きな特徴である「直立歩行」「言語」「思考」を手がかりに、それらが人間の心の働きである「意志」「感情」「思考」の基盤であることを明らかにしようと試みた。
シュタイナー思想では、人間の「私」の働きとして、思考、感情、意志を重要視している。
これらの働きは、身体を基盤に生じているのである。(つづく)
今回は、三番目の「思考」(考えること)を中心に見ていきたい。
アントロポゾフィー(人智学)は、まず目に見えるものを丁寧に観察し、そこから「目に見えないもの」(つまり「霊的」なもの)を読み解いていく。
人間の「考え」は、目には見えない。
他の人々が何を考えているのかは、外からは分からない。
以前、「内」と「外」という観点を紹介したが、「考え」というものは、まさに人間の「内」に生じるものである。
思考は目に見えないのに、「人間は考える存在である」ことを誰も疑わない。
それは、ひとつには「自分が考えている」ことが実感できるからだろう。
そして、もうひとつには、他の人々が、からだを動かしたり、ことばをしゃべったり、絵を描いたりする「活動」の中に、何らかの考えが表現されていることを感じるからだろう。
たとえば、幼い子どもが絵を描いているところを見ると、クレヨンなどでらくがきを始めたばかりの幼児は、最初は形にならない、グシャグシャした線を描いていたりする。それが次第に丸とか、四角とか、はしごのような形をなしてくる。そして、やがては木とか、お母さんやお父さんの「顔」とか、「おうち」を描くようになるのである。
そのように「顔」とか「家」などの具体的なモノを描くようになった子どもは、絵を描きだす前に、「きょうは、おうちの絵を描く」と言って、初めから「目的」を持っていたりする。それが「考え」なのだ。
実際に出来上がった絵を見ても、その子どもが何を描きたくて描いたのか、その考えが現れている。
ところで、「考え」とまぎらわしいのが、感情である。
感情もやはり、目にはみえない。
しかし、人間は自分自身の「内」に怒りや悲しみや喜びを感じたことがあるから、他の人の感情も読み取ることができる。
絵の中には、その絵を描いた人の「考え」だけではなく、感情も表現されている。
「考え」と「感情」の違いって、何だろうか?
たぶん、それは「自分」との関わりだと思う。
感情は、いつも「私」が当事者である。
怒っていたり、悲しんでいたり、喜んでいたりするのは、いつも「私」である。
だから、感情は、「思考」よりも、ずっと切実なのだ。
思考は、誰にとっても同じである。
太陽は、東から昇って西に沈むとか、
1+1は2であるといったことは、
私が怒っていようが、悲しんでいようが、変わることがない。
でも、太陽は東から昇って西に沈む、というのは、目にはみえない「考え」である。
というのも、かりに朝8時に、家の外に出て、太陽を見上げてみても、そこに見える太陽は、まぶしかったり、暖かったりするかもしれないが、決して「東から昇って西に沈む」なんていう姿をしているわけではない。
「太陽は東から昇って西に沈む」というのは、太陽の動きを何日かかけて観察したうえで読み取った「考え」なのである。
数も目にはみえない。
数を「考える」ことができるのは、人間だけだ。
サルは、2本のバナナとか、3個のオレンジといったことは把握できるが、
2本のバナナと3個のオレンジを足すと5になる、という「5」という数は捉えられないという。
目に見える世界に存在するのは、バナナとか、オレンジとかいう具体的なモノであって、「数」そのものはどこにも存在しない。
「数」は、人間が考えることによって読み取ることしかできない。
感情も目にみえない。
目にみえない他人の感情を読み取るには、自分の感情を働かす必要がある。
痛みを感じたことがある人だけが、他人の痛みを感じ取ることができる。
ところで、「シュタイナーの身体観(1)」で、こんなことを書いた。
幼い子どもが立ち上がるところを観察しながら、それを観察している自分の「内」にどのような感情や思いが生じてくるのかに注意を向ける。すると、そこに生じてくる思いは、たとえば「創造への意志」とでもいえるようなものではないか、と。
もしそのようなことが感じられるとすれば、それは、幼い子どもが初めて立ち上がろうとするときに働いている衝動(意欲や意志といったもの)が、それを見ている大人の中にも働いているからである。
立ち上がろうとする力、手足を動かす力を、かりに「意志」と呼ぶとしよう。
もともと目には見えない「考え」や「感情」が、人間の行為によって目に見えるものになるのは、「意志」の働きがあるからだ。
怒りや悲しみや喜びを表現するために絵を描くためには、手で絵筆を取らなければならない。
何らかの目的を実現するために事業を起こすためにも、人と話し合い、足で歩くなど、からだを動かさなければならない。
自分の感情や考えをことばで言い表すためにも、口を開いて、音声を発するという行為が必要である。
そうした身体の行為があったとき、そこから「目的」(考え)や「感情」という目に見えないものを読み取ることが可能になる。
そのようにして、人間は、目にみえない「内」なるものを、意志の力で「外」に表出し、目に見えるものに変えているのだ。
幼い子どもは、まず「立ち上がること」(直立歩行)を獲得することによって、目にみえない感情や思考を表現するための基盤をつくる。
その基盤のうえに「言語」(ことば)が獲得される。ことばによって、まずは感情が表現される。
そして、言語という基盤のうえに、「思考」が発達する。
そのように、幼い子どもが段階を追って獲得していく「人間の三つの大きな特徴」(直立歩行、言語、思考)は、それを「内」から見ようと試みることで、人間が存在することの大きな意味を示すようになる。
人間は、この目に見える物質世界に、目に見えない感情や思考を実現していく。そして、目にみえる世界から、そこに働いている目にみえないものを読み取っていく。そのすべての基盤が、幼児期に築かれるのである。
以上、シュタイナーの身体観を理解するための前提として、人間の三つの大きな特徴である「直立歩行」「言語」「思考」を手がかりに、それらが人間の心の働きである「意志」「感情」「思考」の基盤であることを明らかにしようと試みた。
シュタイナー思想では、人間の「私」の働きとして、思考、感情、意志を重要視している。
これらの働きは、身体を基盤に生じているのである。(つづく)