入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

シュタイナーの身体観(2)

2006-03-24 23:53:02 | 霊学って?
人間を「外」から見たとき、①直立姿勢で歩くこと、②ことばを話すこと、③考えること、という三つの大きな特徴が見えてくる。

前回は、こうした「人間らしさの特徴」を「内」から見ることができる、ということを書いた。

そして、幼い子どもが「立ち上がる」という現象を見つめているとき、それを見ている私自身の「内」に生じてくる思いを、たとえば「創造への意志」ということばで表現できるのではないか、と述べた。

今回は、人が「ことば」を語るということについて、見ていきたい。

まず、ことばを「外」から見てみよう。
すると、たとえば、人間の身体には肺や気管などの呼吸器、声帯を始めとする「発声器官」があって、そういう身体器官があるからこそ、「話す」という活動が成り立っている、ということが見えてくる。

それでは、「内」から見た場合は、どうだるうか?
子どもに限らず、誰かがしゃべっているところを観察しつつ、そのように観察している自分自身の「内に」生じてくる感情や思いに注目するのである。

僕自身の「内」には、次のような思いが浮かんでくる。

たとえば、自分自身の喉の辺りがむずむずして、相手が言っていることばを繰り返したくなる自分に気づく。
「ことば」には、それを聞いている側にも、発話を呼び起こす力があるようだ。

また、こんなことも思う。
以前、『子ども時代の権利』という小冊子シリーズの中の『テレビと《ことば》の発達』という号を訳していて知ったのだが、人が語りかけるとき、それを聞いている相手の身体はきわめて微細な振動をおこしているという。これはスピーカーなどの機械の音声ではおこらない現象だそうだ。

赤ちゃんが初めて発する音声は、息を吐き出すときの空気の音である。それに唾がからまって、ルルルルというような音声になる。それが次第に、「ブーブー」とか、「ワンワン」とか、「ママ」とか「パパ」といった単語になり、やがてひとつの「文」にまで発達していくわけだ。

つまり、「ことば」は、空気を吸ったり、吐いたりすることから始まる。赤ちゃんが「呼吸」しているからこそ、発声が可能になる。

語りかけることは、自分の考えや感情を息(空気)に乗せて、相手に伝えるということだ。

そして、相手のことばに耳を傾けることは、相手が吐き出した「息」を吸い込むことに似ている。「あうんの呼吸」などというけれど、語り、聞くという関係の基本は、呼吸なのだ。

そして、もし僕が感じたように、人がしゃべっているところをじっと見ているうちに、自分の内からことばが出てくるとすれば、それは「聞く」ことが「息を吸う」ことと同じであり、いったん吸い込んだ息を、こんどは「私の息」として吐き出そうとする欲求が出てくるからだろう。

よく「作品に魂を吹き込む」というが、ギリシャ語で「霊」を意味するプネウマということばは、息吹という意味でもあるらしい。ことばを語り合うことによって、人は「霊」を呼吸していると言えるのかもしれない。

僕がいちばん神秘的に感じるのは、幼い子どもがことばを習得するなかで、「私」ということば(一人称)を発する瞬間が訪れるということだ。
つまり、それまでは周囲の大人たちに呼びかけられるままに、自分のことを「~ちゃん」「~くん」と言っていた子どもが、あるとき急に、「ボク」とか「わたし」というようになる。

前に、「霊とは私のことである」と書いた。
身近な大人に語りかけられる中で、子どもの中に「私」という意識が目覚めていく。こういうことが可能なのは、大人が幼い子どもに語りかけることばの中に、その人の「私」があるからではないのか。その人の「私」の息吹に触れるからこそ、子どもの「私」の息吹も引き出されるのではないか。

このように見てくると、ことばの基盤は「感じる」ことにあるようだ。

相手のことばに耳を傾けることは、その人の存在を感じようとすることだ。相手を感じたとき、その相手に対して、自分は何を語りたいのかが感じられ、ことばが出てくる。

また、沈黙している相手にひたすら耳を傾けることで、その人の中から、ことばを引き出すこともできるだろう。
ただし、これはその人に無理に語らせるということではない。むしろ、その人自身は語らなくても、耳を傾けている者自身の「内」から、その人の思いがことばとなって湧き起こるということもある。

さらには、自分自身に耳を傾けること、自分自身に対して感覚を働かせることも重要である。
自分自身が感じている痛みや悲しみを自分で感じようとしない限り、本当に語るべき「私のことば」が出てこない、というとはありうるのだ。

そのように、「ことば」を「内」から見ようとしたとき、そこには人間の「感情」や「感覚」が、まるで「呼吸」のようなものとして感じられるのではないだろうか。

人々がお互いのことばに耳を傾け、語り合うとき、さまざまな思いや感情が、そして「私」そのものが、呼吸とともに行き交っている。そんなイメージが見えてくる。(つづく)