入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

ブログ再開

2006-09-23 01:29:34 | 日々の雑感
今日、ようやく自分の何かに触れたような気がした。
もっと言えば、13歳か14歳の頃の自分を感じたのである。
きっかけはCDだった。友人である原善伸というギタリストが、3人のドイツ留学仲間といっしょに「ケルン・ギター・カルテット」と名乗って作ったアルバムで、彼らの世代のためか、妙に昭和の懐かしい感じがあって好きなのだ。
父親にも、先日、深刻な話をする前に、原さんに頼んで、このCDを彼に送ってもらった。父もこのCDが気に入ったようで、彼は特にピアソラの曲が良かったと言った。僕は、最後のクルト・ワイルの曲が好きだった。
それで、先ほど、その二つの曲を続けて聴いていた。そうしたら、思春期の頃の自分がよみがえってきた。
思うに、その頃の父は、大学を辞めて、まだ迷っていた時期ではなかったか。僕は、中学に入ってすぐに不登校になり、しばらくして家族4人でドイツへ渡った。母としては「日本脱出」という覚悟を決めていたらしい。シュトゥットガルトのレバノン街に部屋を借り、僕と妹はウーランツヘーエにあるヴァルドルフ学校(最初のシュタイナー学校)に転入した。だが、半年もすると、父は日本に戻ることにしたらしい。僕たちはふたたび鎌倉の家に戻り、僕は地元の公立校に入って、すぐにまた不登校になった。

ドイツに行く前に、僕は東京駅の大丸デパートの手品売り場でテンヨーのディーラーをしていた人と仲良くなり、真剣にマジックを練習していた。ターベルコースというアメリカの手品の本が日本語訳で出版されたばかりで、その最初の3巻くらいを買って、ドイツに持って行ったのを覚えている。
ドイツでは、『夜中出歩くものたち』という児童文学を夢中になって読んだ。魔女とか黒猫とかが出てくる話で、その影響で、僕は自分で独自の「魔法文字」をつくり、それで日記を書いたりした。たぶん、その流れなのだと思うが、日本に帰ってから、僕はショートショートのような短い物語を書いたり、詩を書いたりするようになった。
同世代の友人はなく、僕に付き合ってくれるのは、父の研究会に集まってくる大人たちで、彼らから子ども扱いされるのが、僕はつらかった。どうすれば、大人に見られるのかといつも思っていた。
そして、学校。やはり学校は苦痛だった。というよりも、なぜ学校へ行かなければいけないのか、どうしてもわからなかった。このまま学校に行かなければ、社会から受け入れられないことはわかっていた。ただ、家にいて、手品を練習して人に見せたり、詩を書いたりしているだけではだめなのだ。

父が、シュタイナーの『神智学』、次いで『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』を出版するにつれて、いくつかの研究会ができた。鎌倉にもサロン的な集まりがあって、そこから何人かの人が、ヨーロッパに留学に旅立っていった。そのたびに送別会が開かれて、みんなが暖かいことばを投げかけ、おいしい食事やお菓子や飲み物がふるまわれた。僕はいつしか、自分も留学すれば、あんなふうに送り出してもらえるのだ、と考えるようになった。そして、実際にイギリスとアメリカのシュタイナー学校に留学したのである。

今の僕が、通訳だの、翻訳だのをしながら、かろうじて社会的な体裁をとりつくろうことができているのは、あの時留学して、帰国子女という枠で日本の大学に入ったからだ。ただ、留学した時点で、僕はそれまでの前髪をだらっと垂らして、青白い顔をした、たまに学校に行くとクラスの女の子たちから「気持ち悪い」と言われた、手品と詩を書くことのほかに好きなことがない、あの少年を置き去りにしたのだ。

イギリスから一時帰国したとき、僕は周囲の大人たちの反応があまりにも違うのでびっくりした。僕は一気に華やかな、あこがれられる存在になっていた。留学する前は、大人たちは僕の話に付き合うのがいかにも面倒臭そうだったのに(実際、ぐだぐだと面倒ではあったと思うが)、こんどは好んで僕と話したがる人たちがいた。そして、僕はその位置取りを楽しんだ。僕はまるで英語ができる優等生のようにふるまい、以前の、英語もできなければ、いかにも内向的な自分を軽蔑したのだ。

こういうことは、これまでも言ったり、書いたりしてきた。自分の原点が「不登校」にあると、何度も口にした。けれども、それさえも「嘘」だったような気がする。
さっき、僕は13歳の頃の自分に触れたと思った。あの当時の自分が、何度も問いかけていたこと、なんで学校に行かなければならないのか、なんで自分は今ここにいて、これからどこに向かって行くのか、といった問いかけに、今の自分自身が答えなければならないと強く思ったのである。

そうしたら、僕は自然と父のことを思い、またゲーテのことを思っていた。
思い出したのは、いつか父が話してくれたことだ。父が最初にドイツのミュンヘンに留学していたとき、夜中、雪の降るなかを外へ出て行って、道路のうえに大の字に寝て、自分は今あこがれのドイツにいるのだと強く感じたそうだ。そのときの彼のあこがれは、今も生きつづけているのだろうか?

僕は13歳の頃、一時期、夜、風の音が聞こえてくると、無性になつかしいような、不思議な感覚にとらわれていた。その感情がいったいどこから来るのか、幼少期に過ごしたドイツでの思い出なのか、あるいは霊的な故郷のようなものなのか、ともかく「何か」が風の音の向こうにあって、僕はそれを何とか思い出そうとしていた。そのような話をしたとき、父だけは「わかるよ」と言ってくれた。

今思うと、父が「わかるよ」と言ったのは、僕と同じ感情を持っているということではなかっただろう。当時の僕が感じていた「何か」は、やはり僕だけのことがらに違いない。ただ、父には、何か名状しがたいものへのあこがれを持つ、ということが理解できたのだと思う。彼の場合、それは彼をドイツへ、そしてシュタイナーへと導いたノヴァーリスや、ドイツ・ロマン主義へのあこがれだったのかもしれない。いずれにしても、他人とは共有できない「あこがれ」をもっているというところで、僕は父によって理解されていると感じていた。

僕はさっき、自分が長いこと、本当に長いこと、この「あこがれ」を捨て去っていたことに気づいたのだ。僕のあこがれが向かう先は、父のそれが向かう先とは違うだろう。おそらく、すべての人の魂のなかに、そのようなあこがれが潜んでいるのではないか。それは自分はいったい何者で、どこから来て、どこへ行くのか、といったことばで表現されるところのものだ。人間は誰しも、それを知りたいと願っているのではないか。

そして、なぜゲーテを思ったかというと、彼の「死して成れ、この意を知らぬかぎり、お前はこの地上において、悲しい客でしかない」というようなことばを思い出したからだ。多くの人が、自分は何者なのか、なぜこの時代に、この土地に、このような境遇のもとに生まれてきたのかを知らず、ただ地上をさまようようにして去って行く。僕のなかで、ゲーテの「死して成れ」という思想が、僕が置き去りにしていたあこがれとつながったのだ。

そのとき、僕は、ゲーテという人も、かつてはこの地上を生きていたのだと感じたのである。ニュートンも、パラケルススも、ライプニッツも、自分自身の霊的起源のようなものを探りながら、この地上を生きていた。そして、今、ひきこもりとか、ニートとか言われている人たちも、いや本来はすべての人間が、自分自身の霊的起源を思い出そうという欲求をもっているのではないか。

僕は、この一点においてであれば、アントロポゾフィーを嘘のないかたちで求められると思った。それは僕にとって、13歳、14歳の頃の自分につながって、その頃の自分自身の問いかけに答えていく試みなのだ。この思いを、これからの自分の活動の根本にすえたいと思う。僕がなぜ、今の時代に日本に、あのような親のもとに生まれたのか。それはそこで出会ったアントロポゾフィーをもって、自分自身の憧れを追い求めていくためなのだと思う。
この日本のあまりにもひどい社会状況に対して、僕は発言したり、戦いを挑んだりすると思う。それはしかし目的ではない。僕の目的はあくまでも自分のあこがれを追求すること、自分の人生を生きることだ。でも、そのためには、それが可能な社会でなければならない。僕は自分のために、よりよい社会を願うのである。

ちなみに、このCDに興味をもたれた方への情報:
「耳に残るは君の歌声」~日本の歌からタンゴまで/ノスタルジックな音の絵葉書
演奏:ケルン・ギターカルテット(中根康美、原善伸、田代城治、佐藤達男)
注文先:ALM RECORDS