入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

霊学って?(2)

2006-03-20 04:40:29 | 霊学って?
「霊」って何だろう?
幽霊とか、守護霊とか、「肉と霊」といった言い方をするとき、その「霊」なるものは、いったい何なのだろうか?
まず基本的なこととして、「この私が、霊なのだ」ということに気づくことが重要である。たとえば、霊能者が相手に向かって、「あなたの前世は、お姫様でした」と言ったとすれば、それはその相手の「私」という意識が、今は記憶もないけれど、過去のある時点で、「お姫様である私」という意識をもって生きていた、ということだ。それが本当であるかどうかは、ともかくとして。

いまの「私」は、会社員とか、学生とか、フリーターとか、男とか、女とかいう自己意識をもっているかもしれない。しかし、その同じ「私」が、過去のある時点では、サムライとか、騎士とか、お姫様という自覚をもっていたとすれば、その時々の「私は~である」という「~」にあたる部分は変化するとしても、「私」そのものはずっと存続していることになる。
「霊は存在する」ということは、「私は、不変である」といっているのと同じことだ。変わるのは、その時々の「私」を形容し、特徴づけている女とか男といった性別や、性格や、生きている状況などの属性にすぎない。

ということは、「私には霊が見える。あなたの背後には霊がいる」と言っている人は、そこに何者かの「私」を知覚しているということになる。その「私」には、目に見える属性はない。しかし、幽霊とか守護霊などというように、恨みや悲しみといった感情や、守護するという働きなど、目にみえない属性をともなうことがある。
ただし、一般に幽霊とか怨霊とか、生霊という場合、それが強烈な感情の痕跡であって、その痕跡が気配として感知されているのか、それとも本来の「霊」(つまり「私」)そのものが存在しているのかは、区別がむずかしいところだ。

シュタイナーは、徹底してこの「私」にこだわった。シュタイナーの霊学とは、「私とは何か?」「私は何者なのか?」を探求する学問だといってよいだろう。なぜなら、霊とは、すなわち「私」なのだから。

ちょうど先ほど、日テレの「ドキュメント’06」という番組を見た。あるご夫婦についてのドキュメンタリーだったが、涙が出るほど心を揺り動かされた。夫はアルツハイマーの認知症が進行していて、記憶をどんどん失っていく。その彼の「私」を支えているのが、歌うという行為である。妻は、「夫が歌を歌っているあいだは、彼自身でいられる」といって、ついにはお店をたたんで、彼が最後まで歌を歌えるように支えている。
お二人のお店が、ちょうど三鷹のシュタイナー学校が移転した先の神奈川県藤野町にあることにも驚いたが、僕は、この女性がひたすらパートナーの「私」に向かおうとしている姿に感銘を受けた。それは、シュタイナー思想(人智学/アントロポゾフィー)が目指していること、そのもののように思えた。
夫の「私」を感じ取るのは、妻自身の「私」である。たぶんテレビには映らないこと、外からはうかがい知ることのできないご苦労や、きれいごとでは済まされないこともたくさんあるのだろうが、人間の価値は、「私」のなかにあるということを感じさせてくれる番組だった。
人間の尊厳や、自己としての一貫性は記憶のなかにあるので、事故やアルツハイマー病などで脳が損なわれ、記憶を失えば、「私」そのものが消えていくように感じられる。けれども、シュタイナー思想の観点からいえば、脳は「霊」を映し出す鏡である。鏡が壊れてしまえば、霊(すなわち「わたし」)の働きは、この世には反映されなくなる。アルツハイマー病の人の活動は、だんだんに物質の次元から霊の次元に移っていくことになる。
霊そのものに目を向けようとするなら、一人ひとりの「私」が失われることはない。けれども、この物質の世界にあって、霊を感じ取ろうとすることは、ものすごい意識的な努力が必要である。

シュタイナーはあるとき、アントロポゾフィーとは何か、という問いに対して、このように答えた。「アントロポゾフィーとは、自分が頭で理想として目指していることと、実際の自分の身体がどっぷり浸っている社会的価値観との間で引き裂かれ、そんな自分に絶望することのなかに生じるものである。人間の歴史のなかで、およそすべての価値あるもの、創造的なものは、悲しみのなかから生まれたのだ。」

僕は、シュタイナーのこの言葉のなかには、彼が自分の思想に「アントロポゾフィー/人智学」(人間の知恵)という名前をつけた理由が込められていると思っている。
サンテグジュペリの『星の王子様』ではないが、「本当に大切なものは、目にはみえない」。社会からすぐには認められないもの、自分ひとりにしかその価値が感じ取れないもの、そういうものこそ、シュタイナーのいう「霊的」なものなのである。
一人ひとりの「私」が、霊的なもの、目にみえないものを守ろうと懸命に努力するとき、その努力のなかで、アントロポゾフィーが、つまり人間本来の「知恵」が働くというのである。(アントロポゾフィーとは、ギリシャ語で、「アントロポス=人間」と「ソフィア=知恵」の合成語である。)

その意味で、シュタイナーのいう霊学は、特殊な「霊能力」をもった人が伝える「教え」などではなく、一人ひとりが自分が感じる「大切なもの」を守ったり、育てたりするための道具なのだと、僕は思っている。
(上の写真は、43歳のルドルフ・シュタイナー)