このブログには、結局、かなり難解なことを書いている。
特に、この「個人、動物、そして民族のたましい」というテーマは、文章も長いし、内容も複雑だし、もし読んでくださっている方があるとしたら、それだけでありがたい。
文章が難解になってしまっているのは、内容が僕自身のなかでまだ未消化だからだ。それでも、今、一番言いたいことを書いている。そして、今回は、自分にとって非常に大切な部分を書くことになる。
それだけに、道筋が整理されていないことにもお構いなしに、自分の頭の中にあることを記していこうと思っている。
だから、他の人々にとって理解し難いのは当然である。
もし以下の文章を読んでくださる方がいたら、難解に思えるのは僕自身の考えが未整理であるからなので、ただ流し読みして、全体の印象をつかまえていただければと思う。(これは僕の他の文章についても言えることだが・・・。)
では・・・。
これまで、「たましい」ということをめぐって書いてきたが、今回は、現代という時代に対して、シュタイナー思想がどのような意味を持っているのか、私見を述べたいと思う。
前回は、地球上のすべての存在は「意志」においてつながっている、と書いた。
そして、生物は、この「存在への意志」を自分の内に取り込んで、独自に生成・発展していく。生物には、「個別の意志」があるのだ。
しかし、植物や動物の場合、この「個別の意志」は、一つひとつの個体というよりも、むしろ「種」という集合体によって担われているようだ。進化の過程では、一つの種のなかで、環境への適応や突然変異といった変化が起こる。
そこでは、一つひとつの個体の意志は、より大きな「種」という全体の意志に組み込まれているような観がある。もちろん、そこからの「逸脱」もあるわけだが。
人間の場合はどうだろうか?
人間の「種」、つまり人種という概念は、ナチスの時代に強調された。
今日でも、人種や民族の違いによる差別や対立が、依然としてさまざまな葛藤を生んでいる。
シュタイナーは、人間の場合は、一人ひとりの個人が一つの「種」に相当すると述べている。つまり、シュタイナー思想では、個人の意志が飲み込まれてしまうようなより大きな「全体の意志」は、本来は存在しないはずなのである。
しかし、それでも現実には、民族の意志、国家の意志、集団の意志を感じさせるさまざまな状況がある。
オリンピックやサッカー、野球などで、異なる国のチームが戦うとき、そこでは明らかに民族や国家の違いによって、人々の心は高揚している。
実際に、民族や国家に、固有の「意志」があるのだろうか?
僕は、そこでは「意志」というよりも、「感情」と「ことば」が大きな役割を果たしていると思う。
前回も書いたように、「ことば」は「感情」によって発生し、感情を思考へともたらす働きをする。
しかし、感情が思考へと至らなければ、感情は人々を分断するだけである。
なぜなら、感情とは「内と外」を分け、内面性や個別性を生み出す作用を持っているからである。
感情や感覚によって、動物も人間も、固有の内面生活をもつ。
そのとき、個体の内面を集団へ広げるのが「ことば」の働きである。
大概の動物が、言語に近いコミュニケーション手段を持っている。イルカのコミュニケーションは有名だが、多くの動物が、たとえば外敵が近づいたときに仲間に警告するための音声を持っている。
そうしたコミュニケーション手段は、同じ種のなかで通用する。
人間の言語も、民族や共同体によって異なる。
少数民族は、固有の言語を守ることで、自分たちのアイデンティティーを守ろうとする。
同じ言語を共有することによって、民族や共同体への帰属意識が生じるということはあるだろう。
また、民族に限らず、IT業界とか、広告業界とか、芸能界といったいわゆる「業界」にも、「ジャーゴン」と呼ばれる共通言語がある。ジャーゴンというのは、特殊な言葉遣いを共有することで、自分たちが同じ共同体に属していることを内外に知らしめる作用がある。
そうやって「ことば」を通して、何らかの集団意識が生まれるとき、その集団がもっている「意志」も意識されるようになる。
そして、集団として、他の集団に対する敵対心や、排他的な感情が生じることもある。それは、「ことば」というものが、感情に対応していることから来ている。
そのような集団意識は、感情と、それを媒介する「ことば」を有しているという点で、一つの「たましい」であると言えるだろう。
スポーツのチームも、政治の派閥も、企業も、民族や国家も、あらゆるグループは、そのような「たましい」を持つことになる。
しかし、その「たましい」は、人間のたましいとは違って、思考にまで至っていないことが多い。
思考に至らなければ、集団で行動する動物の群れの意識に近い作用が、人間の集団の「たましい」に働くことになる。
いや正確には、動物のたましいとは違う。なぜなら、動物の集団は、それぞれの「種」の英知に満ちた「意志」によって導かれているからである。思考に至っていない人間の集団は、その時々の気分や感情によって、いとも簡単に一つの方向に押し流される。
そういった集団は、まだ自分たちの本当の「意志」を把握できていないのである。
シュタイナーは、民族問題について語ったとき、「民族魂」という言い方をした。それは、多くの民族のたましいが、まだ、思考に至っていないからだろう。
民族のたましいが、思考に至ったとき、初めて「民族霊」という言い方が可能になる。
以前、「霊とは私のことである」と書いた。
ここでは、「霊とは、自覚された意志のことである」と言いたい。あるいは、「《私》とは、自覚された意志のことである」と。
人間は、考えることによって、「自分はこの人生で何を成し遂げたいのか?」「自分はどこから来て、どこへ向かおうとしているのか?」を明らかにしようとする。
そこでは、なかなか答えは得られないが、それでも自分の「たましい」の奥底に潜んでいる意志を明らかにしようと努め、人生の局面、局面で、自分が進みたい方向を選択する。それが「私」の作用なのである。
動物たちは、いわばひとつの「集合魂」を共有している。その「たましい」を、それぞれの種の「霊」が外から導いている。その種に属する動物たちの全体的な意志が、それぞれの個体の生成・発展を「内」から支えるとともに、全体の「種」としての進化の方向を「外」から定めているのである。
それに対して、人間の場合は、一人ひとりが人生における生成・発展だけではなく、いわゆる輪廻転生というかたちで、「進化」そのものの担い手となる。
ただし、ここで強調しておきたいのは、シュタイナーのいう「進化」は、決して「より高まる」ことではない、ということだ。進化には、高い低い、優劣は関係ない。あくまでも自分自身の潜在的な「個別の意志」を十全に展開することが、進化の意味なのである。(英語でも、ドイツ語でも、「進化」ということばは「内から外へと開いていくこと」「展開すること」を意味する。)
さて、人間は、いやおうなく集団のなかに生まれる。民族、国家、地域社会、そして家族も、ひとつの集団である。そこには、共有される言語や習慣といったものがある。
シュタイナーは、そうした集団の「たましい」を否定するわけではない。
しかし、集団の「たましい」は、感情の次元から思考の次元へと至らなければならない。そのとき初めて、その集団が本来持っている「意志」が明確になるのである。
シュタイナーは、第1次世界大戦の直前に行った『民族魂の使命』という講演のなかで、「民族のたましいの課題は、民族としての自己認識である」と語った。これは一見、民族意識の高揚を狙った発言のようにも受け取られるが、ここでの主体はあくまでも「特定の民族の中に生まれた一人ひとりの個人の意識」である。
ある国家のなかのマジョリティを占める民族に生まれた個人もいれば、マイノリティに生まれた個人もいる。自分の民族の言語を母語とする人もいれば、自分の民族の言語ではなく、その国家の共通語を母語として育つ人もいる。「民族の問題」は、一人ひとりにとってまったく個別の問題である。
シュタイナーが促したのは、一人ひとりが自分の民族との関係において、自分自身を問い直すことである。
一人ひとりのそのような意識的な作業によって、感情や気分に押し流されていた「民族魂」は「民族霊」へと変容していく。
民族霊は、一人ひとりが自分の個別の意志を抑圧したり、「全体」のなかに組み入れることによってではなく、自分らしく生きることによって初めて、覚醒する。
「民族霊」と呼ぶにふさわしい「意志」は、他の民族を抑圧したり、自己の成員である個人の意志を抑圧することはないだろう。
また、血縁や土地にこだわることもないだろう。シュタイナーは、「未来における民族は、もはや血ではなく、カルマによって成り立つものとなるだろう」と述べている。
ここでの「カルマ」とは、運命とか、めぐりあわせと言い換えてもいいだろう。つまり、自分が出合った民族、その文化に共感を感じた民族に、自分の意志で帰属することも可能になるだろう、ということだ。
そのように、一人ひとりの個別の「私」が自由に生きることによってこそ、現在、地球上のさまざまな地域で紛争や対立にからめとられている諸民族は、それぞれの固有の文化の中に秘めた本来の可能性を発揮することができるだろう。
そして、ここで述べたことは、大小さまざまなグループにも当てはまる。人々が出会い、共同で何かに取り組むとき、そこには「共有の意志」を働かせる大きな可能性が生じる。それは個人がひとりで行うのとは違う、新しい可能性である。
そのグループの中の一人ひとりが、本当に自分自身の個別の意志を働かせようと努めることで、そのグループの全体の意志も生きてくる。
反対に、個人が自分の意志を「全体の意志」のために抑圧するような状態では、その集団の「たましい」は、感情のレベルにとどまるだろう。お互いに気を遣い、同じ気分の中に浸りながら、画一的な色合いが支配していく。そして、何かのきっかけで、一斉に同じ方向に集団で押し流されていく・・・。
ここで、危険なのは、感情だけからなる集団の「たましい」は、何らかの「意志」や「意図」によって乗っ取られることがある、ということだ。
そういうときは、必ずと言っていいほど人々の「不安」や「恐怖心」を利用する。つまりは、「感情」を刺激するのである。
そのとき、その民族や国家や集団は、本来の意志とは別に、個々人の意志を飲み込みながら、一つの方向へと操られていく。
それを防ぐ手立ては唯一つ、自分自身を生きるということ、自分の個別の意志を働かせていくということだ。(そして、自分を生きることは、考えること、知ることと直結している。)
それは、民族や国家や社会や、その他の共同体を無視することではない。
一人ひとりが真に生きることによってこそ、その個人を取り巻く社会は生きてくる。なぜなら、たましいの深みにおいて、すべての意志はつながっているからである。
ここにおいて、シュタイナー思想はもっとも有効な道具、もしくは武器を提供している、と僕は思っている。
特に、この「個人、動物、そして民族のたましい」というテーマは、文章も長いし、内容も複雑だし、もし読んでくださっている方があるとしたら、それだけでありがたい。
文章が難解になってしまっているのは、内容が僕自身のなかでまだ未消化だからだ。それでも、今、一番言いたいことを書いている。そして、今回は、自分にとって非常に大切な部分を書くことになる。
それだけに、道筋が整理されていないことにもお構いなしに、自分の頭の中にあることを記していこうと思っている。
だから、他の人々にとって理解し難いのは当然である。
もし以下の文章を読んでくださる方がいたら、難解に思えるのは僕自身の考えが未整理であるからなので、ただ流し読みして、全体の印象をつかまえていただければと思う。(これは僕の他の文章についても言えることだが・・・。)
では・・・。
これまで、「たましい」ということをめぐって書いてきたが、今回は、現代という時代に対して、シュタイナー思想がどのような意味を持っているのか、私見を述べたいと思う。
前回は、地球上のすべての存在は「意志」においてつながっている、と書いた。
そして、生物は、この「存在への意志」を自分の内に取り込んで、独自に生成・発展していく。生物には、「個別の意志」があるのだ。
しかし、植物や動物の場合、この「個別の意志」は、一つひとつの個体というよりも、むしろ「種」という集合体によって担われているようだ。進化の過程では、一つの種のなかで、環境への適応や突然変異といった変化が起こる。
そこでは、一つひとつの個体の意志は、より大きな「種」という全体の意志に組み込まれているような観がある。もちろん、そこからの「逸脱」もあるわけだが。
人間の場合はどうだろうか?
人間の「種」、つまり人種という概念は、ナチスの時代に強調された。
今日でも、人種や民族の違いによる差別や対立が、依然としてさまざまな葛藤を生んでいる。
シュタイナーは、人間の場合は、一人ひとりの個人が一つの「種」に相当すると述べている。つまり、シュタイナー思想では、個人の意志が飲み込まれてしまうようなより大きな「全体の意志」は、本来は存在しないはずなのである。
しかし、それでも現実には、民族の意志、国家の意志、集団の意志を感じさせるさまざまな状況がある。
オリンピックやサッカー、野球などで、異なる国のチームが戦うとき、そこでは明らかに民族や国家の違いによって、人々の心は高揚している。
実際に、民族や国家に、固有の「意志」があるのだろうか?
僕は、そこでは「意志」というよりも、「感情」と「ことば」が大きな役割を果たしていると思う。
前回も書いたように、「ことば」は「感情」によって発生し、感情を思考へともたらす働きをする。
しかし、感情が思考へと至らなければ、感情は人々を分断するだけである。
なぜなら、感情とは「内と外」を分け、内面性や個別性を生み出す作用を持っているからである。
感情や感覚によって、動物も人間も、固有の内面生活をもつ。
そのとき、個体の内面を集団へ広げるのが「ことば」の働きである。
大概の動物が、言語に近いコミュニケーション手段を持っている。イルカのコミュニケーションは有名だが、多くの動物が、たとえば外敵が近づいたときに仲間に警告するための音声を持っている。
そうしたコミュニケーション手段は、同じ種のなかで通用する。
人間の言語も、民族や共同体によって異なる。
少数民族は、固有の言語を守ることで、自分たちのアイデンティティーを守ろうとする。
同じ言語を共有することによって、民族や共同体への帰属意識が生じるということはあるだろう。
また、民族に限らず、IT業界とか、広告業界とか、芸能界といったいわゆる「業界」にも、「ジャーゴン」と呼ばれる共通言語がある。ジャーゴンというのは、特殊な言葉遣いを共有することで、自分たちが同じ共同体に属していることを内外に知らしめる作用がある。
そうやって「ことば」を通して、何らかの集団意識が生まれるとき、その集団がもっている「意志」も意識されるようになる。
そして、集団として、他の集団に対する敵対心や、排他的な感情が生じることもある。それは、「ことば」というものが、感情に対応していることから来ている。
そのような集団意識は、感情と、それを媒介する「ことば」を有しているという点で、一つの「たましい」であると言えるだろう。
スポーツのチームも、政治の派閥も、企業も、民族や国家も、あらゆるグループは、そのような「たましい」を持つことになる。
しかし、その「たましい」は、人間のたましいとは違って、思考にまで至っていないことが多い。
思考に至らなければ、集団で行動する動物の群れの意識に近い作用が、人間の集団の「たましい」に働くことになる。
いや正確には、動物のたましいとは違う。なぜなら、動物の集団は、それぞれの「種」の英知に満ちた「意志」によって導かれているからである。思考に至っていない人間の集団は、その時々の気分や感情によって、いとも簡単に一つの方向に押し流される。
そういった集団は、まだ自分たちの本当の「意志」を把握できていないのである。
シュタイナーは、民族問題について語ったとき、「民族魂」という言い方をした。それは、多くの民族のたましいが、まだ、思考に至っていないからだろう。
民族のたましいが、思考に至ったとき、初めて「民族霊」という言い方が可能になる。
以前、「霊とは私のことである」と書いた。
ここでは、「霊とは、自覚された意志のことである」と言いたい。あるいは、「《私》とは、自覚された意志のことである」と。
人間は、考えることによって、「自分はこの人生で何を成し遂げたいのか?」「自分はどこから来て、どこへ向かおうとしているのか?」を明らかにしようとする。
そこでは、なかなか答えは得られないが、それでも自分の「たましい」の奥底に潜んでいる意志を明らかにしようと努め、人生の局面、局面で、自分が進みたい方向を選択する。それが「私」の作用なのである。
動物たちは、いわばひとつの「集合魂」を共有している。その「たましい」を、それぞれの種の「霊」が外から導いている。その種に属する動物たちの全体的な意志が、それぞれの個体の生成・発展を「内」から支えるとともに、全体の「種」としての進化の方向を「外」から定めているのである。
それに対して、人間の場合は、一人ひとりが人生における生成・発展だけではなく、いわゆる輪廻転生というかたちで、「進化」そのものの担い手となる。
ただし、ここで強調しておきたいのは、シュタイナーのいう「進化」は、決して「より高まる」ことではない、ということだ。進化には、高い低い、優劣は関係ない。あくまでも自分自身の潜在的な「個別の意志」を十全に展開することが、進化の意味なのである。(英語でも、ドイツ語でも、「進化」ということばは「内から外へと開いていくこと」「展開すること」を意味する。)
さて、人間は、いやおうなく集団のなかに生まれる。民族、国家、地域社会、そして家族も、ひとつの集団である。そこには、共有される言語や習慣といったものがある。
シュタイナーは、そうした集団の「たましい」を否定するわけではない。
しかし、集団の「たましい」は、感情の次元から思考の次元へと至らなければならない。そのとき初めて、その集団が本来持っている「意志」が明確になるのである。
シュタイナーは、第1次世界大戦の直前に行った『民族魂の使命』という講演のなかで、「民族のたましいの課題は、民族としての自己認識である」と語った。これは一見、民族意識の高揚を狙った発言のようにも受け取られるが、ここでの主体はあくまでも「特定の民族の中に生まれた一人ひとりの個人の意識」である。
ある国家のなかのマジョリティを占める民族に生まれた個人もいれば、マイノリティに生まれた個人もいる。自分の民族の言語を母語とする人もいれば、自分の民族の言語ではなく、その国家の共通語を母語として育つ人もいる。「民族の問題」は、一人ひとりにとってまったく個別の問題である。
シュタイナーが促したのは、一人ひとりが自分の民族との関係において、自分自身を問い直すことである。
一人ひとりのそのような意識的な作業によって、感情や気分に押し流されていた「民族魂」は「民族霊」へと変容していく。
民族霊は、一人ひとりが自分の個別の意志を抑圧したり、「全体」のなかに組み入れることによってではなく、自分らしく生きることによって初めて、覚醒する。
「民族霊」と呼ぶにふさわしい「意志」は、他の民族を抑圧したり、自己の成員である個人の意志を抑圧することはないだろう。
また、血縁や土地にこだわることもないだろう。シュタイナーは、「未来における民族は、もはや血ではなく、カルマによって成り立つものとなるだろう」と述べている。
ここでの「カルマ」とは、運命とか、めぐりあわせと言い換えてもいいだろう。つまり、自分が出合った民族、その文化に共感を感じた民族に、自分の意志で帰属することも可能になるだろう、ということだ。
そのように、一人ひとりの個別の「私」が自由に生きることによってこそ、現在、地球上のさまざまな地域で紛争や対立にからめとられている諸民族は、それぞれの固有の文化の中に秘めた本来の可能性を発揮することができるだろう。
そして、ここで述べたことは、大小さまざまなグループにも当てはまる。人々が出会い、共同で何かに取り組むとき、そこには「共有の意志」を働かせる大きな可能性が生じる。それは個人がひとりで行うのとは違う、新しい可能性である。
そのグループの中の一人ひとりが、本当に自分自身の個別の意志を働かせようと努めることで、そのグループの全体の意志も生きてくる。
反対に、個人が自分の意志を「全体の意志」のために抑圧するような状態では、その集団の「たましい」は、感情のレベルにとどまるだろう。お互いに気を遣い、同じ気分の中に浸りながら、画一的な色合いが支配していく。そして、何かのきっかけで、一斉に同じ方向に集団で押し流されていく・・・。
ここで、危険なのは、感情だけからなる集団の「たましい」は、何らかの「意志」や「意図」によって乗っ取られることがある、ということだ。
そういうときは、必ずと言っていいほど人々の「不安」や「恐怖心」を利用する。つまりは、「感情」を刺激するのである。
そのとき、その民族や国家や集団は、本来の意志とは別に、個々人の意志を飲み込みながら、一つの方向へと操られていく。
それを防ぐ手立ては唯一つ、自分自身を生きるということ、自分の個別の意志を働かせていくということだ。(そして、自分を生きることは、考えること、知ることと直結している。)
それは、民族や国家や社会や、その他の共同体を無視することではない。
一人ひとりが真に生きることによってこそ、その個人を取り巻く社会は生きてくる。なぜなら、たましいの深みにおいて、すべての意志はつながっているからである。
ここにおいて、シュタイナー思想はもっとも有効な道具、もしくは武器を提供している、と僕は思っている。