入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

アントロポゾフィー指導原理(4)

2007-08-29 14:00:42 | 霊学って?
4.
人間が自分の感情に確かさを持ち、
自分の意志を力強く働かせるためには、
霊界の認識が必要である。
なぜなら、
どれほど自然界の偉大さ、美しさ、叡智を感じようとも、
それだけでは人間固有の本質への問いには、
答えが与えられないからである。
この「固有の本質」は、
人間が死の門を通過するまで、
自然界の素材や力をつなぎとめ、
生命をもって活動する人間の
全体像(ゲシュタルト)を成り立たせている。
その後、人間の全体像は自然にゆだねられる。
自然は、人間の全体像をつなぎとめるのではなく、
分解することしかできない。
偉大で、美しく、叡智に満ちた自然は、
「いかにして人間の全体像は解体されるか」
という問いに答えることはできるが、
「いかにして人間の全体像は維持されるのか」
という問いには答えられない。
どのような理論によっても、
感性をもった人間の魂のなかから、
―その魂が自分で自分を麻痺させようとするのでなければ―
この問いを消し去ることはできない。
本当に目覚めているすべての人間の魂のなかでは、
この問いの存在によって、
世界認識の霊的な道へのあこがれが色褪せることなく、
働き続ける。(訳・入間カイ)

4.
Der Mensch braucht zur Sicherheit in seinem Fühlen,
zur kraftvollen Entfaltung seines Willens
eine Erkenntnis der geistigen Welt.
Denn er kann die Größe, Schönheit, Weisheit der natürlichne Welt
im größten Umfange empfinden:
diese gibt ihm keine Antwort auf die Frage nach seinem eigenen Wesen.
Dieses einge Wesen hält die Stoffe und Kräfte der natürlichen Welt
so lange in der lebend-regsamen Menschengestalt zusammen,
bis der Mensch durch die Pforte des Todes schreitet.
Dann übernimmt die Natur diese Gestalt.
Sie kann dieselbe nicht zusammenhalten,
sondern nur auseinandertreiben.
Die große, schöne, weisheitsvolle Natur gibt wohl Antwort auf die Frage:
wie wird die Menschengestalt aufgelöst,
nicht aber, wie wird sie zusammengehalten.
Kein theoretischer Einwand kann diese Frage
aus der empfindenden Menschenseele,
wenn diese sich nicht selbst betäuben will,
auslöschen.
Ihr Vorhandensein muß die Sehnsucht
nach geistigen Wegen der Welterkenntnis
unablässig in jeder Menschenseele,
die wirklich wach ist, regsam erhalten.
(Rudolf Steiner)


この第4項では、
人間と自然界の関係が語られます。
自然界の「偉大さ」、「美しさ」、「叡智」、
すなわち「力」と「美」と「知」。

これに対して人間は、
感情における「確かさ」、
意志における「力強さ」、
そして「霊界の認識」をもって向き合います。

霊界の認識がなければ、
人間の感情は不確かで、
意志も働くことができない。

私は誰かと話をしていて、
相手のいう一言一言によって、
共感と反感の間を揺れ動く。

あるいは、
自分は本当にこの仕事がやりたいのか、
仕事に対する熱意と無気力が
その時々の状況で、交互に入れ替わる。

私は、本当はどうしたいのか、
自分の人生をどう生きたいのか、
シュタイナーはそこに
「人間の固有の本質」を見ていたようです。

そして、
この「固有の本質」を見極めるためには、
「霊界の認識」が必要だというのです。

「霊界の認識」とは、言い換えれば
「世界を霊的に認識する」ということ。

人間の身体のなかには、
自然界に由来する物質や作用が働いています。
それらは本来なら、
分解や破壊への傾向をもつものであり、
それらをつなぎとめ、
人間の「全体像」をつくりだしているのは、
一人ひとりの「固有の本質」なのです。

私はこの人生で何をしたいのか、
一人ひとりの根源的な「生への意志」が、
一人ひとりの「生きた身体」を成立させている。

だから、人間が死を迎え、
「この人生をどう生きるか」という意志が去ったとき、
身体は自然界に還され、
崩壊し始める。

私自身の「固有の意志」が、
この自然界のなかで、
「私」という現象を成立させている。

人間は、
感じる心をもっているかぎり、
私は何者なのか、
何のために生まれ、
どのように生きていきたいのか、
という問いを抱え続けている。

この問いがあるから、
世界を霊的に探求したいというあこがれが、
つねにこみあげてくる。
そこに一人ひとりの「魂の欲求」(第1項)としての
アントロポゾフィーの始まりがあるのだろうと思います。

アントロポゾフィー指導原理 (3)

2007-08-23 21:20:50 | 霊学って?
3.
ある種の人々は、
感覚的直観の境界は、すなわちすべての認識の境界である
と信じている。
もしこれらの人々が、自分はいかにしてこの境界を意識するに到るか
ということに注意を向けるなら、
この「意識」の中に、
境界を乗り越えるための能力が含まれていることに気づくであろう。
魚は、水の境界まで泳ぐ。
しかし、水の外で生きるための身体器官が備わっていないので、
そこから引き返さなければならない。
人間は、感覚的直観の境界に到る。
そのとき、人間は、
自分はこの境界に到る道の途上で、
「魂の力」を身につけてきたことを認識する。
それは、感覚的直観では捉えられない元素のなかでも、
魂的に生きるための力なのである。(訳・入間カイ)

3.
Es gibt Menschen, die glauben,
mit den Grenzen der Sinnesanschauung seien auch die Grenzen aller Einsicht gegeben.
Würden diese aufmerksam darauf sein,
wie sie sich dieser Grenzen bewußt werden,
so würden sie auch in diesem Bewußtsein die Fähigkeiten entdecken,
die Grenzen zu überschreiten.
Der Fisch schwimmt an die Grenze des Wassers;
er muß zurück, weil ihm die physischen Organe fehlen,
um außer dem Wasser zu leben.
Der Mensch kommt an die Grenze der Sinnesanschauung;
er kann erkennen,
daß ihm auf dem Wege dahin die Seelenkräfte geworden sind,
um seelisch in dem Elemente zu leben,
das nicht von der Sinnesanschauung umspannt wird.
(Rudolf Steiner)


ここでいう「感覚的直観」(Sinnesanschauung)とは、
視覚、聴覚、触覚などの感覚器官を使って、
直接的に「経験」できるということです。
(「直観」は哲学用語で、「直接的に経験できること」を指しています。
いわゆる「ひらめき」や「気づき」という意味での「直感」とは違うので、
ご注意ください。)


目で見たり、耳で聞いたり、
手で触ったりできないものは、
本当には知りえない。

そういう感じ方は、ごく自然なものです。

たとえば、誰かと会って話をしている。
その人が去ってしまう。
その人の姿が見えなくなったら、
もうその人のことはわからなくなって、不安になる。
いつもその人の姿が見えていて、その人の声が聞こえていないと
安心できない。

シュタイナーは、「幼児は全身が感覚器官だ」といいますが、
その意味で、幼い子どもたちは、
「感覚的直観の境界が、すなわちすべての認識の境界とであると信じている」
人たちに含まれるといえます。

母親が自分の視界のなかからいなくなると、
すぐに不安にかられるのです。

しかし、記憶力、思考力、想像力が発達すると、
たとえ今、目の前にその人がいなくても、
その人はどこかで存在しているし、
おそらく自分のことを考えていてくれるだろう
と思えるようになります。

そういう感じ方は、
すでに「感覚的直観」の境界を少し超えているといえます。

しかし、誰かと死に別れたとき、
その人の姿も見えなくなり、
声も聞こえなくなっても、
今も存在していると本当に確信することは
なかなか困難です。

霊魂は不滅かもしれないし、
人間、死んだら無に還るのかもしれない。
本当のところは誰にもわからないよ、
というのは、
「感覚的直観の境界が、すなわちすべての認識の境界とであると信じている」
ということになります。

シュタイナーは、
この「境界」に注意を向けるように促します。

なぜ私は「死後」のことを考えるのか、
あるいは、なぜ私は
彼・彼女と別れた後、
その姿や声に直接触れられなくなってからも
その人とのつながりを感じていられるのか。

もはや自分の感覚が相手にとどかなくなったとき、
その「境界」を強く意識するのはなぜなのか。

人間の視覚、聴覚、触覚といった感覚に
「境界」があるということ、
その境界を意識できるということ、
その事実がすでに
境界の向こうに何かがあり、
その何かを私たちが感じ取っていることの証明なのだ、
とシュタイナーは言っているようです。

今何かが見えていて、
次の瞬間、その何かは見えなくなる。
しかし、見えなくなっても、
その何かは、私のなかに存在し続けている。

もはや感覚では捉えられなくなった何かは、
私の意識のなかに単なる記憶として存在しているだけなのか、
それとも、それは「現実」に存在し続けているのか?

そのように意識すること自体のなかに、
境界を乗り越え、その先に進むための力が潜んでいる。

いかにして、
私たちは「境界」を意識するに到るのでしょうか?

人によっては、
疑問も持たずに素通りしてしまうことがらが、
私の心には痛みと共に食い込んでくるのはなぜなのか?

これまでの人生の歩み、
そのときどきで選び取ってきた道、
出会いや別れや喜びや悲しみ、
そのすべてがあって、
私はいま、この「境界」を意識するに到った。

そのことに注意を向けるとき、
この人生そのものが、
私に境界を乗り越えて進むための「魂の力」を与えてくれていることに気づく。

なぜなら、
これまでの人生を振り返るとき、
私はそこに「感覚的直観」の尺度では計り知れない、
霊的な叡智の働きを感じるからです。

その叡智に触れるとき、
人間は自分自身の魂の力に気づくのです。

開高健氏の「絶対の悪」ということば

2007-08-22 10:38:35 | 社会問題
「私のこだわり人物伝」というNHKの番組。
作家の重松清氏が、開高健氏の「ベトナム戦記」について語っていました。
とても強い印象を受けたところがあります。

開高氏がサイゴンの広場で、
米軍によるベトコン少年兵の公開処刑を目撃したとき、
その場にひしめく「絶対の悪」に触れて、
「自分のなかの何かが粉砕された」というくだりです。

開高氏は、南側の従軍記者として米軍に同行しました。
ジャングルのなかでゲリラの急襲にあって、
九死に一生を得る体験もしたそうです。
そのとき、銃撃されて逃げまどいながら、
開高氏の眼は、一瞬、地を這うアリたちの動きを捉えます。

しかし、サイゴンの広場では、
開高氏は安全な第三者として、
軍用トラックの陰から公開処刑を見ていました。
そこには、動きは一切なく、
すべてが「静止」しているように感じられたといいます。
そして、その場にひしめく
「絶対の悪」のようなもの。

それはいったい何だったのでしょうか?

僕は、
開高氏はそのとき、
「アーリマン」に触れたのではないか、と感じました。

アーリマンとルツィフェル。
シュタイナーは「悪」をふたつのカテゴリーで捉えました。
アーリマンはそのひとつです。

もう一方のルツィフェルは、
人間の自我を肥大させます。
自分の美しさ、偉大さ、優秀さについて
妄想を抱かせるのです。
そして、その「誇大妄想」のなかに、
他者を引きずり込もうとします。

その最大で最悪の例は、
ヒトラーによるナチズムだろうと思います。
あるいは、「神風」や「玉砕」というイメージで
国民を戦争に巻き込んでいった日本の軍部。

ルツィフェルには、
冷静な現状分析よりも、精神論で突っ走る傾向があるのです。
それに対して、アーリマンは、
ひたすら冷徹で、現実に根ざしています。

アーリマンの端的な現われは、
広島・長崎への原爆投下でしょう。
アメリカが、広島だけでなく、長崎にまで原爆を投下したのは、
ウラン型とプルトニウム型の連続実験をしたかったから、
という説があります。
そのような冷たい計算はきわめてアーリマン的です。

アーリマンは、
自分の自我を「権力」で強化し、
他者の自我を「無化」しようとします。

戦争には、
アーリマンとルツィフェルの共同の働きが見られます。
ルツィフェルは
国家や民族の「美しさ」や「優秀さ」の妄想をつくりあげ、
アーリマンは、国家や集団の権力によって
一人ひとりの「個」(自我)を無化していきます。
そのとき、
目に見えない意志が、人々を戦争へと押し流していくのです。

戦争では、国家や宗教や民族主義など、
何らかの「大儀」の名のもとに、
人が人を殺し、人が人に殺されます。
そこでは、
一人ひとりの個人が生きてきた人生、
一人ひとりの複雑な思いや感情、
一人ひとりが抱いている未来への希望は
すべて無化されます。

開高氏が体験した戦場で、
北ベトナムのゲリラと南軍の米兵が戦うとき、
そこには、アリたちの動きに象徴されるように、
傷つき苦しむ者たちの人間性が
わずかでも残っていたのではないか?

しかし、サイゴンの広場で、
米軍が、ベトコンの少年兵を公開処刑するとき、
そこには、処刑する兵士、それを傍観する人々、
すべての個人が抱える複雑な人生を
無化するような何か、
人間の複雑さを否定するような
「単純さ」が働いていた。

その「単純さ」に、
開高氏は「砕かれた」といいます。

僕は、それは純粋な「アーリマン」の体験だったのではないか、
と思うのです。

憲法9条は、
「国権の発動たる戦争」を放棄するといいます。
もはや「国家の名のもとに人を殺す」ことはしない、
という日本人の決意。
すなわち、
もはやアーリマンに自己を委ねない、という決意。

憲法9条は、
一人ひとりのかけがえのない人生、
一人ひとりの人間の複雑さを大切にする、
そんな国家を目指そうという
日本人の決意を表しているのです。


「すべての決意は一つの力である。
たとえ、その力が向けられた場において、
ただちに成功を収めることがなかったとしても、
その力は独自のしかたで作用し続ける。」

「悪しきもの、不完全なものへのもっとも適切な闘い方は、
善なるもの、完全なるものを創造することである。」
                (ルドルフ・シュタイナー)

アントロポゾフィー指導原理 (2)

2007-08-20 15:07:20 | 霊学って?
2.
アントロポゾフィーは、霊的なしかたで獲得される認識を伝達する。
ただし、アントロポゾフィーがそのような認識を伝達する唯一の理由は、
日常生活や、感覚的知覚と悟性活動を基盤とする科学が、
人生の道において何らかの境界へ導くからであり、
もしその境界を乗り越えられなければ、
魂的な人間存在は死滅しなければならないからである。
この日常生活や科学は、
その前で立ちすくみ、動けなくならざるを得ないようなしかたで、
境界へ導くことはない。
そうではなく、そのような感覚的直観の境界においては、
人間の魂自身によって、霊界への展望が開かれるのである。(訳・入間カイ)

2.
Anthroposophie vermittelt Erkenntnisse,
die auf geistige Art gewonnen werden.
Sie tut dies aber nur deswegen, weil das tägliche Leben und
die auf Sinneswahrnehmung und Verstandestätigkeit gegründete Wissenschaft
an eine Grenze des Lebensweges führen,
an der das seelische Menschendasein ersterben müßte,
wenn es diese Grenze nicht überschreiten könnte.
Dieses tägliche Leben und diese Wissenschaft führen nicht so zur Grenze,
daß an dieser stehendgeblieben werden muß,
sondern es eröffnet sich an dieser Grenze der Sinnesanschauung
durch die menschliche Seele selbst
der Ausblick in die geistige Welt.
(Rudolf Steiner)


この指導原理の第2項は、
一人ひとりの「真実の人間性」としてのアントロポゾフィーの働き
について述べています。

アントロポゾフィーは、「霊的な認識」をもたらします。
しかし、ここでいう「霊的」とは、
日常生活や自然科学からかけ離れたものではないのです。

むしろ、アントロポゾフィーの霊的認識に到るためには、
ごく普通に日々の生活をいとなみ、
自分の感覚と知性にもとづく科学的態度を踏まえることが必要なのです。

そのうえで、「境界」ということばが出てきます。

この境界に突き当たることが、
アントロポゾフィーが働く前提条件なのです。
いつ、どういう状況でこの境界に突き当たるのか、
それは一人ひとりの人生によって異なります。

生きていくなかで、困難な選択を迫られたり、
体力の限界や病気に遭遇したり、
あるいは科学者や研究者として
「認識の限界」に突き当たることもあるでしょう。

この「境界」の体験は、それを乗り越えられなければ、
「魂的な人間存在は死滅しなければならない」ような危機的なものです。
しかし、
「この日常生活や科学は、
その前で立ちすくみ、動けなくならざるを得ないようなしかたで、
境界へ導くことはない」
といいます。

ここには、「運命」に対する絶対的な信頼があるのです。

しかし、その「境界」の体験は非常に厳しいものです。
それを恐れて、「境界」を意識せずに生き続けることもありえます。

その場合、その人の魂は本当に生きているとはいえないかもしれません。

ここでシュタイナーが、
「日常生活と科学」という言い方をしていることにも
意味があります。

一人ひとりの生き方は、非常に「主観的」なものです。
そこでは自分が人生の主人公だからです。
それに対して、科学は「客観的」とされています。
自分の主観を排して、対象を客観的に観察し、分析していきます。

そのように精神的態度としては、
一見対極にある「日常生活」と「科学」が、
ここでは一括りにされているのです。

このことを理解するヒントは、
『神智学』や『神秘学概論』などで、シュタイナーが語っている
「悟性魂」のなかにあります。

悟性とは哲学用語ですが、シュタイナーはこのことばを、
「自分の外にあるものを根拠にして、自分を支える」意識のありよう
として使っています。
 
そして、この意識のありようを
「悟性魂」とも「心情魂」とも呼んでいるのです。
シュタイナーの本を読んでいて、
「悟性=心情魂」という表現を見かけた方もいるのではないでしょうか。

判断力や理解力、あるいは知性とも言い換えられる「悟性」と、
一人ひとり異なる感性の部分である「心情」が、
なぜイコールで括られるのでしょうか?

それは、主観と客観、悟性と心情はつねに入れ替わり、
逆転、反転し続ける「対」の関係にあるからです。

たとえば、このブログでも触れたことのある
フェミニズムの自然科学論から見ると、
一見「客観的」とされる自然科学者の態度のなかには、
「男性性」が潜んでいます。
それは対象に関わることを恐れ、
相手をモノに還元してしまう態度です。

その場合、
研究対象の「主体」としての感じ方は否定され、
研究者自身の主体性だけが対象を支配します。

そのような「男性的」な科学のありようが、
近代以降の自然破壊や戦争、殺戮にまで導いたともいえるのです。

その一方で、たとえば家事や買い物、子育てや近所づきあいから、
さらには格差社会や戦争の問題まで、
自分の「日常」に入り込んできたものは、
一気に「現実味」を帯びてきます。

直接、自分の「痛み」や「皮膚感覚」につながったとき、
つまり自分の「主観」で捉えられたとき、
物事を「他人事」ではなく、
「自分のコト」として感じることができます。

たとえば、「わが子を戦争にやりたくない」
という母親の感覚は、
そうした皮膚感覚にもとづいているといえるでしょう。

シュタイナーは、この二つの精神的態度、
つまり主観と客観や、悟性と心情が対を成していること、
そしてこの二つが一方に偏って他方を支配するのではなく、
相互に絶えず回転し、逆転、反転を繰り返しながら「運動」するとき、
人間の魂は「霊界」への展望を切り開くことができるというのです。

悟性魂や心情魂は、
まだ「境界」にはぶち当たっていない状態です。
そのままで、まるで問題を感じないで生きていくことも可能です。
しかし、人間の運命は大概、
何らかのかたちでそのような「境界」の体験をもたらすのです。

一見、絶体絶命の、
どうしたらよいかわからないような状況の前に立たされること、
その状態をシュタイナーは「意識魂」と呼びました。

そこでは、外的な状況や理屈だけでは、
自分が一歩を踏み出す根拠になりえません。
一人ひとりが、自分自身のなかに、
自分を支える根拠を見出さなければならないのです。

それが、本来は、現代の人間がおかれた「魂の状況」だというのです。

しかし、勇気をもってその境界に向き合ったとき、
必ずアントロポゾフィー(真実の人間性)は働く
とシュタイナーは述べています。

そのとき、
自分が獲得した認識や気づき、あるいはひらめきが
(その認識の訪れ方は人それぞれですが)、
シュタイナーのいう「霊的なしかたで獲得される認識」なのです。

そうした霊的な認識を得るためには、
一人ひとりの魂の次元で、
つまり自分の人生のなかで、
自分の「境界」に向き合わなければなりません。

そのとき、
人間の魂は、自分自身の力で、
自分が進むべき方向を見出します。

それがシュタイナーのいう「霊界への展望」であり、
それを見出すのは、自分自身なのです。

自分以外の権威(霊能者や指導者など)が指し示す道を行くこと、
他人任せにすることは、
シュタイナーのいう「霊性」とはまったく別のことです。

霊性は、
あくまでも自分自身の魂のなかから、
自分自身によって見出されるものです。
そして、それこそがアントロポゾフィーなのです。

アントロポゾフィーが「思想」や「世界観」であるとすれば、
その思想や世界観は、
「従うべき教義」などではなく、
一人ひとりの自己のうちにある「真実の人間性」を信頼し、
その人にとっての真実の道を歩むことを力づけるものなのです。

また、その意味で、
シュタイナーのいう「霊界」とは、
この世から切り離された「あの世」ではなく、
どこまでも一人ひとりの現実と地続きのものです。

「霊界への展望を切り開く」ことは、
突如、誰かがぶっ飛んで「常軌を逸した」話を始めることなどではなく、
自分の「知性」と「心情」をともに働かせて、
自分の「境界」を開いていくこと、
それまでの自分の狭い感じ方や考え方を拡大していくことなのです。

しかし、それは決して当たり前に起こることなどではなく、
非常に多くの勇気と覚悟を必要とすることです。

これまでの人類の膨大な叡智は、
そのようにして、
一人ひとりの人間が精一杯生き、
考え、感じ、行為していくなかで、
蓄積されてきたのです。

そこにアントロポゾフィーは一貫して働いてきたのであり、
それは一人ひとりの「私」のなかに、
私の「真実の人間性」として
今も生き続けているのです。

周辺事態法

2007-08-19 08:51:08 | 社会問題
この写真のステッカーは、1998年、僕が初めて参加した市民運動、
「かごしま平和ネットワーク」がつくったものです。

この年の3月、たまたま新聞で、
「周辺事態法案」(日米新ガイドライン)を考える集いの案内を見かけました。
この法案は、いわゆる「周辺事態」に際して、
アメリカが軍事行動を起こした場合、
日本の自衛隊がそれを支援することを定めたものでした。
直観的に、この法案が通ったら本当に危ない、
と感じていました。

その集まりには、主婦から、詩人から、大学教員まで、
いろんな人たちが参加していました。
そのなかの有志が、この「かごしま平和ネットワーク」をつくったのです。

「かごしま平和ネットワーク」では、当時の鹿児島県知事に対して、
「県民の平和と安全のために、国にこの法案の撤回を求めてください」
という署名運動を展開しました。

鹿児島市の繁華街で、
他の市民グループの人たちといっしょにビラを配ったり、
マイクを握って、「この法案の本質は戦争協力法案なんです」と訴えて、
署名を集めました。

5000名以上の署名が集まり、みんなで県庁に行って、
―知事には会ってもらえませんでしたが―
防災課の人たちに署名を渡しました。

その後も、県庁の人たちと継続して話し合いを持ったり、
県内の政党を訪ねたり、いろいろな活動をしましたが、
結局、翌年1999年に、この法案は可決。
周辺事態法は成立しました。

参議院で採決が行われる日、
参議院に電話をかけて、
電話に出てくれた議員たちに一生懸命訴えたときのこと、
そしてその後のむなしさと敗北感は今でも印象に残っています。

「ノストラダムスの大予言は当たったのか、当たらなかったのか?」
少なくとも、僕にとっては、
この1999年は、
「恐怖の王が降ってきた」と言っても過言ではない、
戦後の日本にとっての大きな転換点でした。

この周辺事態法の成立から、国家国旗法や、
住民票にコード番号をつけて一元的に管理する「改正住民基本台帳法」などが
次々に成立。
昨年末にはついに「教育基本法」が改変され、
いよいよ「憲法」そのものの改変が現実味を帯びてきています。

そんな時代のなかで、僕たちはアントロポゾフィーと取り組んでいるのです。

アントロポゾフィー指導原理 (1)

2007-08-18 01:59:31 | 霊学って?
このアントロポゾフィー研究所のブログでは、試みに、
シュタイナーが晩年、アントロポゾフィー協会の会員たちのために毎週つづった
「アントロポゾフィー指導原理」を一つずつ、
僕自身の理解とともに取り上げていこうと思います。

アントロポゾフィー指導原理
―思想発展の指針として、ゲーテアヌムより―

1. アントロポゾフィーは、一つの「認識の道」である。
この「道」は、人間本質における霊性を、宇宙における霊性へ導こうとする道である。
アントロポゾフィーは、人間のなかに、心の欲求、感情の欲求として現れる。
こうした欲求に応えられることが、アントロポゾフィーの正当性の証明でなければならない。
アントロポゾフィーを認めることができるのは、
自分の心情のゆえに、やむにやまれず追い求めてきたものを
アントロポゾフィーのなかに見出す人だけである。
したがって、アントロポゾーフ(人智学徒)になりうるのは、
人間本質と宇宙について問うことが、ちょうど飢えや渇きの感覚と同じように、
生きるために必要なことと感じられる人々だけなのである。(訳・入間カイ)

1. Anthroposophie ist ein Erkenntnisweg,
der das Geistige im Menschenwesen zum Geistigen im Weltenall führen möchte.
Sie tritt im Menschen als Herzens- und Gefühls-bedürfnis auf.
Sie muß ihre Rechtfertigung dadurch finden,
daß sie diesem Bdürfnisse Befriedigung gewähren kann.
Anerkennen kann Anthroposophie nur derjenige,
der in ihr findet, was er aus seinem Gemüte heraus suchen muß.
Anthroposophen können daher nur Menschen sein,
die gewisse Fragen über das Wesen des Menschen und die Welt
so als Lebensnotwendigkeit empfinden,
wie man Hunger und Durst empfindet.
(Rudolf Steiner)


認識の道
シュタイナーは、
「アントロポゾフィーとは一つの認識の道である」
ということばで、この指導原理を始めています。

アントロポゾフィーについて、シュタイナーはいくつかの定義をしていますが、
これから読者が辿っていく指導原理の過程に関しては、まず出発点に、
それが「認識の道」であることを確認する必要があるのです。

このアントロポゾフィーという認識の道は、
「人間本質における霊性を宇宙における霊性へ導こうする道である」
とされています。
これはどういう意味でしょうか?

まず「人間本質」ということばが、難解に感じられます。
なぜ単に「人間」と言わないのでしょうか? 

次に、「霊性」ということばも、きわめて理解することが困難です。
霊性とは何なのでしょうか?

そして、「人間における霊性」と言った場合と、
「人間本質における霊性」と言った場合の違いは何でしょうか?

本質
ドイツ語では、「本質」はdas Wesen。
ものごとの本質や、実質を指すことばです。
Das Menschenwesenというときは、
「人間なるものの本質や実質」というような意味になります。

単に「人間」と言わず、「人間本質」という理由は、おそらく、
ここでは一人ひとりの個人としての人間ではなく、
「人間一般」もしくは「すべての人間に共通のこと」を指しているからです。

人間であれば、誰でも持っている「霊性」。
そのような「人間の本質をなす霊性」について語っているのです。

霊性
それでは、「霊性」とは何でしょうか?
「霊性」は、ドイツ語ではdas Geistigeという形容詞を名詞化したものです。
「霊的なもの」というのが直訳です。
ただ、日本語で「霊的なもの」というと、
どこかふわふわした、捉えどころのないものや、
抽象的なもの、実質のないもののように感じられてしまいます。

しかし、ここでいう霊性は、人間の本質や実質をなすもの、
つまりきわめて具体的なものなのです。

ここでいう「霊性」は、
「認識」や「考えること」に関わるものであることは確かです。
なぜなら、「アントロポゾフィーは一つの認識の道」であると言っているからです。

認識によって、人間の霊性は、宇宙の霊性とつながるのです。

霊性と思考
人間の霊性の一番はっきりした現われは、思考活動(考えること)です。
そして、宇宙にはさまざまな法則(自然法則)があります。

法則それ自体は目には見えません。
人間の思考だけが、法則を捉えることができます。

人間が考えることで、自然法則を理解すること、
それだけでも「人間の霊性を宇宙の霊性へ導く」ことになるのです。

しかし、宇宙には、そして人間自身のなかには、
自然法則だけではなく、それ以外の次元の法則があります。
そのことをアントロポゾフィーは明らかにしていくのであり、
それはこの先の指導原理のなかでさらに語られていきます。

心=感情の欲求
次に、
「アントロポゾフィーは、人間のなかに、心の欲求、感情の欲求として現れる」
ということばが続きます。

「認識の道」であるアントロポゾフィーは、
すべての人間の自然な欲求として現れる、というのです。

ここに、先の「人間なるものの本質」という
「人間一般」とのつながりが見えてきます。

人間であれば誰でも「霊性」を持っており、
それは本来、一人ひとりの個人の「心の欲求」として、
「感情の欲求」として現れるはずだ、
ということです。

「霊性」は、すべての人が普遍的にもっているものです。
それに対して、「心の欲求」や「感情の欲求」は、きわめて個人的なものです。

「個」の次元と「普遍」の次元
ここには、すべての人間に共通する普遍的なものとしての霊性と、
一人ひとりの個人が別様にもっている感情や心のありよう
という二つの次元が出てきます。

アントロポゾフィーは、
人間における霊性(普遍性)と、
宇宙における霊性(普遍性)をつなぐ認識の道だけれど、
その出発点は、一人ひとりの個別の心の欲求なのです。

「心の欲求に応えるもの」としてのアントロポゾフィー
「こうした欲求に応えられることが、
アントロポゾフィーの正当性の証明でなければならない。
アントロポゾフィーを認めることができるのは、自分の心情のゆえに、
やむにやまれず追い求めてきたものを
アントロポゾフィーのなかに見出す人だけである。」

この一文は、非常に重要だと思います。
つまり、アントロポゾフィーの正当性は、
学術的な証明によってではなく、
一人ひとりの「心の欲求」が満たされるかどうかだ、
とシュタイナーは言っているのです。

本来、アントロポゾフィーは「霊学」として、
きわめて厳密で、論理的なものです。
だからこそ、アントロポゾフィーは「認識の道」であるわけです。
けれども、その正当性は、論理的な証明によってではなく、
一人ひとりの心の欲求の満足によってもたらされる。

もしくは、本当の「認識」こそが、
一人ひとりの「心の欲求」を満たすことができる、とも言えるでしょう。

情緒的な同情の表現や、
根拠のない神秘的な話で煙に巻くことでは、
実は一人ひとりの「心の欲求」は満たされない、ということでもあります。

「生きるために必要なもの」としてのアントロポゾフィー
したがって、「アントロポゾーフ」(アントロポゾフィーの道を歩む者)とは、
人間本質や宇宙について、単なる知的好奇心であれこれ考える人ではなく、
それを問うこと、考えることが、
飢えや渇きといった「生命感覚」に直結している人なのです。

人間とは何か、宇宙とは何かといったことを
考えずには生きていけない人、
それがアントロポゾーフであり、
実はそういった認識はすべての人間にとって
「生きるために必要なこと」であるはずだ、
とシュタイナーは示唆しているわけです。

プロコフィエフさんが話してくれたこと
このことは、以前、
ロシア人のアントロポゾーフである
セルゲイ・プロコフィエフさん(現在、ゲーテアヌム理事のひとり)が
話してくれたことを想起させます。

ベルリンの壁が崩れる前、旧ソ連の社会では、
アントロポゾフィーは禁止されており、
アントロポゾフィーを地下運動のようにして研究することは、
自分だけではなく、家族や親戚にも危険をもたらすことでした。
プロコフィエフさんたちは、何度も自分の良心に問いかけ、
「自分には、アントロポゾフィーを学ぶことで、
自分以外の人たちを危険な目に遭わす権利があるのか?」
と問いかけたそうです。

最終的に、彼らが出した答えは、
「自分たちにとって、アントロポゾフィーは、
呼吸するために必要な空気のようなものだ。
生きていくために、アントロポゾフィーはどうしても必要だ」
ということでした。

そこまで思い定めたとき、プロコフィエフさんは、
アントロポゾフィーを学び続ける決意をすることができたといいます。

そして、ベルリンの壁が崩れ、初めて西側を訪ねたとき、
西側のアントロポゾーフの多くにとって、
アントロポゾフィーがまるで「贅沢な楽しみ」のようなものであることを知って、
大きなショックを受けたといいます。
旧ソ連のアントロポゾーフにとって、
アントロポゾフィーはきわめて「実存的」なものでした。

そして、シュタイナーが見ていたアントロポゾフィーとは、
実は、まさにそのような「生きるために必要なもの」だったのです。

アレスター・クロウリーとマザーグース(その1)

2007-08-16 13:49:08 | タロット
入間カイのアントロポゾフィー研究所では、タロット研究を柱のひとつに据えようと思っています。

タロットもまた、シュタイナーのアントロポゾフィーと同様に、さまざまな誤解にさらされ続けています。
特に、占いの道具として使われることから、占い師への依存や、タロット・カードに関する恣意的な解釈など、危険な要素がまとわりついています。

しかし、アントロポゾフィーの観点からタロットをみるとき、なぜ人間の文化のなかに、このタロットというものが現れたのか。
そこに込められた深い叡智が、より鮮明に浮かび上がってくるように思えます。

タロットとの関連で、もっとも重要な人物のひとりが、アレスター・クロウリーだろうと思います。

いま、彼の『魔術』(Magick)という本を原書で読んでいます。
クロウリーは、シュタイナーと同様、さまざまな誤解や噂にさらされた人物ですが、オリジナルの英文に触れると、何か直接伝わってくるものがあります。

彼のやや古風で大仰な文体(シュタイナーのドイツ語もよくそう言われますが)からは、通常の言語では表現しきれないものを、何とか正確に言い表そうとする努力の跡がうかがわれます。
クロウリーの人格がどのようなものであったにせよ、霊的なものに対する彼の誠実さや真剣さは疑いようがないと感じられるのです。

僕が共感するのは、たとえば次のようなクロウリーのことばです。

「フラーテル・ペルドゥラボ(クロウリーの別名)は、あらゆる偉大な宗教教師のなかでも、もっとも誠実である。
他の教師たちは、『我を信ぜよ』というが、彼は『我を信じてはならない!』という。
彼は信奉者を求めないし、信奉者なるものを嫌悪し、拒絶するのだ。
彼が求めるのは、学ぶ者たちの一団が自立して自己信頼をもち、独自の方法に基づいて、研究を成し遂げることである。
もし彼がいくつかの有用な手がかりを提供することで、学ぶ者たちの時間と労力が節約されるなら、それだけで彼の仕事は彼自身に満足をもたらすのである。」(訳・入間カイ)

このクロウリーのことばは、若い頃のシュタイナーが傾倒したニーチェの『ツァラトゥストラ』を想起させます。

たとえば、ニーチェは次のように書くのです。

「教師に対する悪しき報い方は、いつまでも生徒にとどまることだ。
なぜお前たちは、私の冠をむしりとろうとしないのか?
お前たちは私を尊敬するという。
しかし、ある日、その尊敬が覆されたらどうするのか? 
お前たちの頭のうえに柱が倒れ掛かってこないように、気をつけるがいい。
お前たちはまだ、自分自身を探求していない。だから、私を見出したのだ。
すべての信奉者のふるまいはそのようなものだ。
単に信ずることには、ほとんど価値がない。
だから、お前たちに命ずる。
私を手放し、お前たち自身を見出すがいい。
そして、お前たちがみな私を否定し去ったとき、
私はふたたびお前たちのもとに戻ってこよう。」(訳・入間カイ)

このような「学ぶ者の自立と自己信頼」を求める姿勢は、シュタイナーにとっても、あらゆる神秘修行の前提条件でした。
彼もまた、自分のことばがただ鵜呑みにされることに対して、繰り返し警告しています。
あるとき、「私たちはあなたを尊敬しています」といわれたシュタイナーが、「私は尊敬されたいのではない。理解されたいのだ」と叫んだ話は有名です。

なぜこういう話を書いてきたかというと、シュタイナーにしても、クロウリーにしても、ありとあらゆる否定的な噂がまとわりついているからです。
たとえ、どんなに立派なことを書いていても、裏で陰謀や卑劣な行為に手を染めていた、という類の話です。

かりに、ある人が語った話に感銘を受け、それによって自分の認識が深まったり、発展したりしたとします。
その後で、その人が実は極悪非道な人間だったと分かったら、最初に受けた感銘や、その結果として自分が得た認識は、突然、意味を失うのでしょうか?

先に挙げたクロウリーやニーチェのことばは、認識の主体はあくまでも「私」自身であることを示しています。

どのような立場の人が語ったことばであれ、それを偏見なしに受け止め、そこに認識を働かせること。それがアントロポゾフィーの基本態度だと思います。

以上を踏まえて、クロウリーの指摘も手がかりにしつつ、僕なりのタロットの考察を始めたいと思います。

先に触れた『Magick』という本のなかで、アレスター・クロウリーは、いわゆるマザー・グースに触れています。
子どもたちが口ずさむ詩のなかに、カバラの叡智が込められている、とクロウリーは言います。
そして、「ハバッドおばさん」や「ハンプティ・ダンプティ」などの詩を、「生命の樹」やヘブライ文字に即して解釈してみせるのです。
                         
                         (この続きはまたいつか)

敗戦記念日に

2007-08-15 12:11:14 | 社会問題
前回、「この次は民族魂と民族霊について書きたい」と記しました。
けれど、これはあまりに膨大な―それこそ一冊の本になるような―テーマであること。
そしてこのブログに中途半端なかたちで書いてしまうと、余計な誤解を招きかねないと思い直しました。
このテーマについて、できるだけ明確にわかりやすく伝えるにはどうすればいいのか、もう少し考えてみたいと思います。

その代わり、今日は最近出版した本をご紹介します。

これは僕個人にとっては、非常に思い入れの強い一冊です。
今年5月末、ドイツのハノーヴァーで、ゲーテアヌム教育セクション代表のクリストフ・ヴィーヒェルト氏と話をして、彼のいくつかの論文を日本語に訳すことで合意した後、帰国してすぐに翻訳に取り掛かりました。

佐藤雅史さんがとても好意的な書評を書いてくださって、フォーラム・スリーのホームページにも掲載されていますので、ぜひご覧ください。
(「4日間夜っぴで仕上げた」とありますが、実は昼間はzzz…)。

8月は、テレビでも新聞でも、戦争をめぐる特集が続いています。
お盆とも重なって、死者たちがとても身近になるこの時期、僕は特にこの本のテーマを思うのです。

『シュタイナー学校は教師に何を求めるか』というのは、一人ひとりの教師のあり方を取り上げた論文集です。
子どもをめぐる会議について、思春期の子どもたちとの向き合い方について、教師のメディテーションについて…。

ヴァルドルフ(シュタイナー)学校では、一人ひとりの教師が自分の授業に全責任を持ちます。
シュタイナー自身が願った学校のかたちは、本来は、校長のいない学校でした。
一人ひとりの教師が、自分よりも上の権威に責任を委ねず、自分自身の責任で自分の授業をつくっていくことを求めたのです。
現在でも、組織運営上は「校長」や「教頭」を置いたりしますが、精神的には一人ひとりの教師が自立して自分の授業に向かうことが求められます。

これは実際には、かなりの責任と覚悟が求められることです。

だからこそシュタイナーは、「教員養成」を非常に重視しました。
「社会問題のなかでもっとも重要なのは教育問題であり、教育問題のなかでもっとも重要なのが教員養成の問題である」と述べているほどです。

シュタイナー学校の教師は(もちろんシュタイナー学校に限られませんが)、しっかりとした教員養成を受けるだけではなく、一生涯、研修を続けることになります。

もう一つ重要なのは、一人ひとりの教師が自分の授業に全責任をもつといっても、その教師が「孤立」するのではない、ということです。

教師は自立するだけではなく、学校が一つのコミュニティ(共同体)になるのです。
そのあり方をシュタイナーは「共和制」と呼びました。

自立した教師たちは教師会をつくり、そこで知恵を出し合い、学びを共有します。

この本の最初に取り上げられている「子どもをめぐる会議」は、教師会全体で、一人の教師が受け持っている生徒についてイメージを共有し、新しい方向性を見出していく過程が描かれています。
そこでは単により経験と力のある教師が、べつの教師の授業に口を出すのではなく、一人ひとりの個を尊重しつつ、全体でそれを支えるという「個と全体」の生きた関係が実践されています。

この本を一読されると、シュタイナー学校の教師にとって、いかに教育が神聖で真剣な仕事であるか、またいかにメディテーションというものが、決して単なる現実逃避などではなく、困難な現実に向き合うために、一人ひとりの「個」を強めていくための大切な手段であるか、ということが感じ取られると思います。

シュタイナーが、最初のヴァルドルフ学校をつくったのは、第一次世界大戦の終結直後のことです。
いたるところで、多種多様な民族主義が台頭し、社会全体が混乱のなかにあったとき、シュタイナーは独自の社会運動(「社会三層化」)を展開し、その一環として「ヴァルドルフ学校」が設立されたのです。

シュタイナーが掲げた「自由への教育」は、みんなが好き勝手に行動するような自由ではなく、「自己との一致」のことです。
一人ひとりが自分はこの人生で何をなしたいのかを見出し、自分らしく生きられるようになることを目指した教育です。

そのような教育の現場において、まず一人ひとりの教師が精神的に自立していることは、もっとも重要な前提条件でした。

ちなみに、著者であるヴィーヒェルトさん自身も強調していたのですが、ここでいう「シュタイナー学校の教師」には、「シュタイナー幼稚園の教師」も含まれます。

僕には、今の日本の状況において、シュタイナー学校や幼稚園の教師が、どのような精神的態度をもって教育に取り組んでいるのかを伝えることが非常に重要であると思えたのです。

日本ではまだ、教師の精神的自立の重要性は十分には認識されていないように思います。
教育の自由が侵害される出来事はいたるところで起こっています。

ここで冒頭の問題に戻るのですが、僕は戦争というのは、一人ひとりが自分の考え方、感じ方、つまりは「自己」を放棄してしまったとき、起こるものだと思っています。そのとき、全体が個を呑み込み、押し流すのです。

日本は、敗戦にあたって、もはや「自己」を放棄するのではなく、「戦争」そのものを放棄することを選びました。

今、人類にとってかけがえのない財産である憲法9条が危機的状況にありますが、僕はこの9条の精神を守り抜くためにもっとも有効な手段の一つが、一人ひとりの教育者のなかに生きるアントロポゾフィーだと思っています。

その意味で、僕個人にとっては、この『シュタイナー学校は教師に何を求めるか』という本は、現在の日本の社会状況に直結する一冊なのです。


『シュタイナー学校は教師に何を求めるか』
クリストフ・ヴィーヒェルト著、入間カイ訳、水声社、定価2000円+税
一般の書店でも入手できますが、直接版元の水声社にご注文いただくこともできます。
特に10冊以上のご注文の場合は、割引のご相談にも応じるとのことなので、お問い合わせください。

アントロポゾフィー研究所のはじまり

2007-08-12 18:42:36 | 霊学って?
アントロポゾフィーと人智学
またまた長いこと、ご無沙汰してしまいました。
今日から、このブログの名前を変えて、「入間カイのアントロポゾフィー研究所」として再スタートします。

アントロポゾフィーというのは、シュタイナーが自分の思想的立場に付けた名前です。「人智学」と呼ばれることもあります。

語源はギリシャ語で、アントロポス=人間、ソフィア=知恵という二つのことばの合成語です。

僕自身は、現時点では、人智学という漢字のことばよりも、あえてカタカナのアントロポゾフィーのほうを使っています。

人智学というと、日本語とのなじみはよいのですが、逆に、この思想のなかに、僕たちにとって未知なるもの、これから新しく出会うべき斬新なものが含まれていることが見落とされてしまうように感じるのです。

むしろ、まだしばらくの間は、アントロポゾフィーという異質な響きを通して、このことばに意識的に向き合っていきたいと思っています。

「神中心」から「人間中心」へ
シュタイナー自身が語っているのですが、彼がウィーンの学生だった頃、ロベルト・ツィンマーマンという学者の講義を聞いていて、初めてこのことばに出会ったそうです。

ツィンマーマンは、これからの新しい時代の哲学のあり方として、このことばを提唱していました。

ツィンマーマンがいうには、これまで(19世紀後半まで)のヨーロッパ哲学のあり方は、「テオゾフィー」(神智学)であり、そこでは人間は「神」を中心にして思考していた。けれども、これからの人間は、自分自身(人間)を中心に考え、「アントロポゾフィー」(人智学)を目指さなければならない、というのでした。

若きシュタイナーは、この考え方に共感しました。
そして、後に神智学協会から離れて、自分自身の立場をより明確に打ち出すとき、このアントロポゾフィーということばを使うようになったのです。

人間の責任は「考えること」
ところで、「人間中心」などと書くと、結局シュタイナーも人間を特別視するのか、人間だって自然の一部じゃないか。そういう欧米の人間中心主義が、環境破壊や戦争や、ありとあらゆる害悪をもたらしたのだ、と反論されるかもしれません。

しかし、シュタイナーのアントロポゾフィーは、人間の「責任」や「主体性」を明らかにするために、あえて「人間中心」ということをいうのです。

たしかに、人間も自然の一部であることは間違いありません。
けれども、人間は「ことば」を持ち、自我を発達させ、考える力を使って、自然から逸脱した独自の社会を創り出してきました。
シュタイナーは、それをただ容認するのではなく、人間はそのような自己に対して責任をもつべきだと説いたのです。

人間の責任とは、自分がもっている「考える力」を最大限に使って、認識することです。
シュタイナーは、「私たちは知識を求めなければならない。認識を求めなければならない。それが考える力を与えられた人間の義務なのだ」と言っています。

その意味で、シュタイナーのアントロポゾフィーは、人間中心主義というよりも、「私中心」主義といったほうが正確かもしれません。

というのも、考えること、認識することは、―ちょうど「私の代わりにトイレに行って来て」とは頼めないのと同じで―、他人任せにはできないからです。

アントロポゾフィーは、一人ひとりの「私」が知ること、考えることから始まります。

真実の人間性としてのアントロポゾフィー
日本にシュタイナー思想が一般的に紹介されてから、すでに30年以上が経過したと思います。

この間に、日本の各地にシュタイナー学校や幼稚園が設立され、シュタイナーのバイオダイナミック農法を実践する農場や、オイリュトミー、言語形成(朗誦)、シュタイナー教育や治療教育、アントロポゾフィー医学などを取り上げる講座や講演会も数多く開催されるようになりました。

シュタイナーの名前が社会に広く知られるようになる一方で、シュタイナーがもっとも重要視したこと、つまり「一人ひとりの私が認識すること」が見失われつつあるように感じています。

アントロポゾフィーは、何もヨーロッパやアメリカに留学しなければ、あるいはどこかの講座で学ばなければ修得できないものではありません。

シュタイナー自身のことばでいえば、アントロポゾフィーとは、一人ひとりの内にある「真実の人間性」なのです。

本来の人間の知恵は、一人ひとりが自分らしく生きて、一人ひとりの内なる人間性が発揮されるときに、おのずと働きます。

現在の世界に、戦争や環境破壊をはじめ、これだけ愚かしいことが横行しているのは、一人ひとりの人間性が本当には生きられていないからだといえます。

これからシュタイナー思想に基づく活動は、教育現場から医療現場、その他のさまざまな社会領域に入り込もうとしています。
そのとき、一人ひとりのなかに本当に「アントロポゾフィー」が生きているかどうかが問われてくるでしょう。

ヨーロッパの人々と共有した危機感
今年の5月から6月にかけて、ヨーロッパをまわったのですが、そのとき多くのアントロポゾーフ(アントロポゾフィーを自分の道として選びとった人=人智学徒)たちが、こんなことを口々に言っていたのが印象に残っています。
「ヴァルドルフ(シュタイナー)学校をはじめ、アントロポゾフィーに基づくさまざまな活動は世界中に普及しつつあるけれども、その実質が希薄になりつつある。アントロポゾフィーそのものを深めていかなければならない。」

この危機感は、僕自身の問題意識と完全に合致したものでした。

自律性につながるアントロポゾフィー
現在、社会的に注目されつつあるヴァルドルフ(シュタイナー)教育も、アントロポゾフィー医学も、農業や治療教育やオイリュトミーも、そのすべてはアントロポゾフィーという共通の源泉から発しています。

現在の状況は、おそらくすべての人にとって非常に困難なものでしょう。
それぞれが自分の生活や仕事を抱えていて、それだけで精一杯であることでしょう。
しかし、そういう時だからこそ、一人ひとりがアントロポゾフィーと向き合い、それを自分自身の思想として、自分自身の「真実の人間性」につながるものとして、育成していく必要があると感じるのです。

そうでなければ、アントロポゾフィーは結局、「海外の興味深い思想」の一つであり、「かつてシュタイナーが提唱したもの」にとどまることでしょう。

しかし、シュタイナーが願っていたのは、ちょうどプロメテウスが人間に「火」をもたらしたように、彼がもたらしたアントロポゾフィーが一人ひとりの内に火を灯し、それが一人ひとりの本当の自律性、主体性として働き始めるということでした。

そこにおいて、シュタイナーと僕たち一人ひとりとの関係は、主従関係などではなく、生きいきとした「仲間」の関係、「友情」の関係へと変化していくことでしょう。

シュタイナーから受け取った火を、僕たち自身のなかで灯していくことによって、そこから独自の多様な思想や活動が生じるはずなのです。

アントロポゾフィー研究所
僕自身も、日本におけるアントロポゾフィー医学の研修に通訳として関わったり、日本シュタイナー幼児教育協会の海外担当を引き受けたり、さらには私立幼稚園の園長まで務めたりする状況のなかで、これまで以上に「現実社会とアントロポゾフィーの関係」を強く意識するようになりました。

そして、自分のアントロポゾフィーの翻訳や研究の仕事を、どうすれば一人ひとりの内なるアントロポゾフィーを力づける方向につなげていけるのだろうか、と考えるようになりました。

一つの結論は、以前このブログの冒頭に書いた「ルドルフ・シュタイナー研究所」ではなく(これにもいろいろな経緯があるのですが)、自分だけの「アントロポゾフィー研究所」を始める、ということです。

これは僕自身がアントロポゾフィーそのものに向き合うため、そして僕自身の考え方、感じ方を自分の責任のもとに表現していくためのものです。
いわば「劇団ひとり」さんのように、「ひとり研究所」という形を選んだわけです。

そのほうが、自分が紹介したい本や資料、あるいは自分が現在の日本と世界の状況において考えていることを自分の責任において、自由に発表することができます。

その意味で、このブログのタイトルも、これまでの「シュタイナー探訪」から「アントロポゾフィー研究所」に変えました。

今の僕の生活スタイルのゆえに、どうしても一人ひとりの方に、僕が見ているアントロポゾフィーについて詳しくお話することができないでいます。
それをこのブログを通して、少しでも補っていければと考えています。

次回は、先月コメントをいただいた「民族魂と民族霊」について書こうと思います。



下の写真は、5月末に参加したヴァルドルフ(シュタイナー)幼児教育者世界大会の会場となったドイツ・ハノーヴァーのヴァルドルフ学校。最終日で、皆さん荷物をもって帰り支度をしています。