入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

ミヒャエラ・グレックラーさんについて

2007-02-21 17:34:12 | 人物像
このブログでは、僕が個人的に知り合ったアントロポゾーフについても少しずつ書いていきたいと思っている。
というのも、最近僕はアントロポゾフィーについて必ず伝えておきたい点を二つ考えるようになったからである。

一つは、アントロポゾフィー(人智学)は「未完の思想」であるということ。「人間の知恵」なのだから、まだまだ完成されてなどいないのだ。

もう一つは、アントロポゾフィーを完成させるのは「あなた」ですよ、ということ。シュタイナーは一つの方向性や可能性を指し示したにすぎない。彼が願ったことが実現するためには、一人ひとりの「私」が、自分は「人間の知恵」の育成に参加している、自分がどう感じ、どう考えるかは、そのまま「人間の知恵」(アントロポゾフィー)の発展につながっているという認識をもつ必要があるのだ。

だから、シュタイナーが言ったことを鵜呑みにしたり、ヨーロッパのアントロポゾーフたちを「権威」にして、ヨーロッパのあり方をそのまま日本に当てはめたりするのは、初めからアントロポゾフィーの目指すところと逆行している。
僕たちはシュタイナーからも、ヨーロッパの先達からも非常に多くのことを学べるし、学ばなければならないが、それは僕たちが自分たちのおかれた状況のなかで、精一杯の「知恵」を働かせて生きるためなのである。

そういう意味で、僕が知り合った具体的なアントロポゾーフについて、僕自身の感じ方、考え方で語ってみることによって、一人ひとりの「私」のアントロポゾフィーというものが少し見えてくるのではないかと思った次第である。ただし、これはあくまでも僕個人の目からみた人物像であることは確認しておかなければならない。

最初に書いてみたいのは、僕がもっとも影響を受けたアントロポゾーフのひとりであるミヒャエラ・グレックラーさんのことである。

昨日まで、昨年10月に東京で行われたグレックラーさんの講演録に目を通していた。このところ彼女の講演通訳や文章の翻訳をすることが多い。今もまた、アントロポゾフィー医学についての彼女の文章を訳している。

グレックラーさんは現在、ゲーテアヌム医学セクションの代表という立場で、休む間もなく世界中を飛び回り、講演や執筆活動を精力的に続けている。僕が彼女に初めて出会ったのは、1980年代で、まだ彼女がゲーテアヌムに呼ばれる前のことだった。

その当時出版されたばかりの『小児科診察室』というアントロポゾフィー医学とヴァルドルフ教育の観点からの育児書の著者として評判になり始めたグレックラーさんを、僕の母が日本に招待した。僕はグレックラーさんが泊まっている那須の旅館まで迎えに行った記憶がある。

僕がそれまで知り合っていたアントロポゾーフはたいがい真面目で厳格な人が多かったので、重々しい雰囲気の女性を想像していた。ところが旅館のなかから出てきたグレックラーさんは、とても優しそうで、どこかいたずらっぽそうな微笑を浮かべ、とても若い印象を受けた。

彼女のドイツ語も「若い世代」の言葉遣いを感じさせた。もちろん、若い世代といってもいわゆる「団塊世代」のことで、ドイツでは「68年世代」などという。学生運動を経験した人たちである。
この世代の人たちは上下関係を嫌って、出会った人と割とすぐに「du」で呼び合う。グレックラーさんも、すぐにduで呼び合おうと言ってくれた。

(ドイツ語には英語のyouに当たる言葉がSieとduとふたつあって、Sieは初対面の相手や目上の人に使い、duは親しい間柄や目下の人に使うとされる。学生運動の世代の人たちは、知り合った相手とすぐに対等な関係に入り、好んでduを使うのだと思う。しかし、最近はまたSieがよく使われるように感じるのは僕だけだろうか? まだよく知らない相手と急に親しい雰囲気に突入するよりも、Sieという尊敬の念を含ませつつ、適度な距離を置いているほうが楽なのかもしれない。)

レストランで、グレックラーさんと母と僕とで自己紹介をかねていろんな話をした。そのとき、彼女が「子育ては一つの職業として認められるべきで、そのことを自分は政治家に会うたびに力説している」と言っていた。この言葉は『小児科診察室』にも記されている。

また、移動中に立ち寄ったスーパーで、冷凍食品がガラス板などで密閉されずにむき出しで置かれているのを見た彼女は、わざわざ僕をその場所まで連れて行って、「こういうのが私をかっとさせるのよ」(So was regt mich auf!)と言った。ものすごい電力の無駄使いだというわけだ。いわゆる指導的立場にあるアントロポゾーフが、そういう社会的な意識をもって活動していることに、新鮮な驚きと共感を覚えたものである。

また、別のときは、話が社交ダンスに及び、彼女は僕に「もしあなたが知らないのだったら、絶対に教えてあげなくては」と、―その時は松葉杖を使っていたので―、テーブルのうえで手の指でステップの踏み方をていねいに説明してくれたこともあった。

ともかく彼女と話していると、とても身近な感じがしたものだ。

『小児科診察室』の共著者である小児科医のゲーベルさんによると、グレックラーさんの講演を初めてきいたある母親は、「あなたたちアントロポゾーフは、ようやく私たち庶民のところに降りてきたのね」と感想を漏らしたそうだ。

その当時、僕は「シュタイナー」に対する親近感と憎悪とで、すごく苦しい思いをしていた。その葛藤は現在に到るまで続いているが、グレックラーさんは僕のその思いを理解してくれたひとりだった。

彼女の父親は、ヘルムート・フォン・キューゲルゲンという有名なアントロポゾーフである。グレックラーさんも生まれたときには、すでにまわりにアントロポゾフィーの環境があったのである。しかし、本当にアントロポゾフィーを自分の生き方として選びとるまでの道は簡単なものではなかったようだ。彼女は大学でも初めはゲルマニスティーク(独語独文学)を専攻して行き詰まり、20代の後半になってから新たに医学を志した。その過程で、アントロポゾフィーへの関わり方で悩んだという話をしてくれた。シュタイナー自身の著作には取り組むことができるが、シュタイナーを「信奉」する人々には困難を覚えたという。それは当時の僕にはとても心に響く話だった。

グレックラーさんは、当時僕にこんな話をしてくれた。ある人がシュタイナーに、「あなたの思想は素晴しいが、なぜあんな人たちと一緒に活動しているのですか?」とたずねた。すると、シュタイナーは「私にはこれ以上の人たちはいないからです」(Weil ich keine Besseren habe)と答えたという。その言葉には、自分の真意を理解せずに、「先生」(Herr Doktor)と言って崇拝するだけの人々に対するシュタイナーの失望や無念もあったかもしれない。けれども、それ以上に、自分とともに活動してくれる具体的な人間たちがいること、その人たちと始める以外にはないのだという思いがあったのではないだろうか。人間はいくらでも変わりうる。少なくとも自分の考え方に真剣に耳を傾けてくれる人たちがいれば、たとえ完全に理解してくれたとはいえなかったとしても、そこから何かが芽生える可能性がある。そんなふうに僕はシュタイナーのこのことばを理解するのだ。

グレックラーさんとの出会いは、僕にアントロポゾフィーというものは、一つの生き方であり、そこに悩みや葛藤がつきまとうのは当たり前なのだということを気づかせてくれた。さらに、グレックラーさんは僕をアントロポゾフィーのもう一つの側面にも引き合わせてくれた。それは厳密な「学」としてのアントロポゾフィー霊学という側面である。

グレックラーさんが東京でアントロポゾフィー医学(シュタイナー医学)について講演したとき、僕が通訳をすることになった。おそらく日本におけるアントロポゾフィー医学についての最初の講演のひとつだったのではないか。当時、僕は大学で英語に浸りきっていたので、そういう専門的な講演であれば、英語で話してもらって、英語から通訳をしたほうが正確なものになるのではないかと考えた。しかし、グレックラーさんは僕とドイツ語で会話していたこともあって、優しくこちらをリラックスさせるような口調で、「ドイツ語でやってみたら? きっと大丈夫よ」と言ってくれた。それによって、僕はアントロポゾフィー医学の考え方に、直接ドイツ語で触れる機会に恵まれたのである。

彼女の講演には、ニーチェが出てきたり、女性論や結婚論が出てきたりした。そこに身体の三層構造と思考・感情・意志の関連が、たとえば「下痢をすると気力が減退するのは、四肢・代謝系が意志とつながっているからだ」というように具体的に語られる。それまで人生論や霊界についての教えのように思っていたシュタイナー思想が、自然科学を踏まえた、人体についての厳密な理解につながり、それが実際の医療に応用されている。それは僕にとってアントロポゾフィーの新しい地平のように感じられた。

その当時、人類が遭遇したばかりのエイズという病気についても、グレックラーさんは真剣に考えていて、アントロポゾフィーの観点からみた免疫系の意味について語ってくれた。彼女の話の内容に関心のある方は、『小児科診察室』(水声社)、あるいは『医療と教育を結ぶシュタイナー教育』(石川公子、塚田幸三訳、群青社)をお読みいただければと思う。

その頃、父が設立した日本人智学協会の総会があり、その医学研究会の発表に僕も加わることになった。僕は「エーテル体」について語ることになっていた。
初め、僕は精神次元と物質次元を明確に切り離すという話をしようと思っていた。それは大学の図書館で借りたニューエイジ系の本(たしか工作舎から出ていた原題が”Quantum Question”という本の翻訳書)を読んだ影響だった。この本には、アインシュタインやパウリやハイゼンベルクといった物理学者たちが、徹底して物質の本質を究明しながら、同時に神に対する敬虔な思いを保ち続けていたということが書かれていた。それは神や宗教の領域は、科学で解明されるようなものではなく、科学とはまったく切り離された別の次元にあることを、それらの物理学者たちが心得ていたからだという。科学と宗教を混ぜ合わせるべきではない、というのがこの本の趣旨だったと思う。当時の僕に、この考え方はとても説得力があるように感じられた。そして、発表に向けての準備会では、その話を自信をもって展開してみせた。

ところが発表の直前になって、僕の中に「本当に、宗教と科学は切り離されるべきなのか?」「神は認識の対象にはならないのか?」という疑問が湧いてきた。僕は発表の本来のテーマであるエーテル体についてもう一度見直そうとして、『神秘学概論』の該当箇所を英語で読み直したりした。その当時はおもに英語でシュタイナーを読んでいたのである。

シュタイナーの語り口からは、どうしても目にみえないものは「認識の対象」として扱われているように感じられた。だったら、どうすれば「エーテル体」を認識したり、理解したりできるのか? 僕は発表の場では、しどろもどろになりながら、「シュタイナーはエーテル体をこのように説明しています」ということに終始した。

発表の後、父から「きみはグレックラーの影響を受けすぎているのではないか」と言われて、とても悲しい思いをしたのを覚えている。父はグレックラーさんの考え方を知っていたわけではなく、したがって彼女を批判的に見ていたわけではないが、僕が彼女とよく話をしているのは知っていたので、この発表の思わぬ展開と彼女を結びつけたのだろう。僕が、自分のなかで起こった考え方の変化や疑問について話すと、父は「だったら、それをそのまま発表すればよかったのに」と言った。確かにその通りで、僕がそのとき感じた疑問は、アントロポゾフィーを学び始めると、必ず出てくる問題の一つだったのである。

実際に哲学や自然科学の歴史のなかでも、「《神》を認識しようなどとするのは不遜である」という立場と、「神は認識されることを望んでいる」という立場の対立があったことを、僕はもっと後になってカッシーラーの『イギリスのプラトン・ルネッサンス』(工作舎)という本で知った。近代科学を築いた人々は、むしろ科学と宗教を切り離す立場の、敬虔なキリスト教徒が多かったのである。

知るということ、理解するということは不遜なことではない。むしろ本当に相手を理解したとき、その人の身になって考え、その人を自由にすることができる。その認識から「愛」は生じるというのがシュタイナー思想の基本的な考え方の一つであることを理解したのは、さらにその後、原書で『自由の哲学』を読んだときだった。僕がそのような重要な問題に目を向けられるようになった背景には、グレックラーさんとの出会いが大きな影響を及ぼしていたことは確かである。

グレックラーさんがゲーテアヌム医学セクションの代表に就任する直前に、シュトゥットガルトで話をしたことがある。そのとき、ゲーテアヌムにやや堅苦しいものを感じていた僕は、「ゲーテアヌムに行っても、あなたの柔軟さを失わないでくださいね」と言った。すると、彼女は微笑んで、「物質のゲーテアヌムは硬いけれど、霊的なゲーテアヌムはとても柔らかいのよ」と言っていた。

最近、グレックラーさんと会うたびに感じるのだが、彼女はものすごく多忙でなかなか会えないという点をのぞけば、すべての人に分け隔てや予断をもたずに、まっすぐに向き合っている。そしてアントロポゾフィーに対して社会の理解が高まると同時に、多くの誤解や困難も増大している社会状況のなかで、一歩一歩、アントロポゾフィー医学への社会的認知をとりつけるために、医師養成・研修や、講演や執筆を続けている。それを支えているのは、彼女のなかの「生き方」と「学」を結びつけるアントロポゾフィー霊学の力なのではないかと感じるのである。

(写真:上は、去年6月、ゲーテアヌム医学セクションの前でミヒャエラ・グレックラーさんと。下は、医学セクションの窓からゲーテアヌムの方を見たところ。)