入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

アントロポゾフィー研究所のはじまり

2007-08-12 18:42:36 | 霊学って?
アントロポゾフィーと人智学
またまた長いこと、ご無沙汰してしまいました。
今日から、このブログの名前を変えて、「入間カイのアントロポゾフィー研究所」として再スタートします。

アントロポゾフィーというのは、シュタイナーが自分の思想的立場に付けた名前です。「人智学」と呼ばれることもあります。

語源はギリシャ語で、アントロポス=人間、ソフィア=知恵という二つのことばの合成語です。

僕自身は、現時点では、人智学という漢字のことばよりも、あえてカタカナのアントロポゾフィーのほうを使っています。

人智学というと、日本語とのなじみはよいのですが、逆に、この思想のなかに、僕たちにとって未知なるもの、これから新しく出会うべき斬新なものが含まれていることが見落とされてしまうように感じるのです。

むしろ、まだしばらくの間は、アントロポゾフィーという異質な響きを通して、このことばに意識的に向き合っていきたいと思っています。

「神中心」から「人間中心」へ
シュタイナー自身が語っているのですが、彼がウィーンの学生だった頃、ロベルト・ツィンマーマンという学者の講義を聞いていて、初めてこのことばに出会ったそうです。

ツィンマーマンは、これからの新しい時代の哲学のあり方として、このことばを提唱していました。

ツィンマーマンがいうには、これまで(19世紀後半まで)のヨーロッパ哲学のあり方は、「テオゾフィー」(神智学)であり、そこでは人間は「神」を中心にして思考していた。けれども、これからの人間は、自分自身(人間)を中心に考え、「アントロポゾフィー」(人智学)を目指さなければならない、というのでした。

若きシュタイナーは、この考え方に共感しました。
そして、後に神智学協会から離れて、自分自身の立場をより明確に打ち出すとき、このアントロポゾフィーということばを使うようになったのです。

人間の責任は「考えること」
ところで、「人間中心」などと書くと、結局シュタイナーも人間を特別視するのか、人間だって自然の一部じゃないか。そういう欧米の人間中心主義が、環境破壊や戦争や、ありとあらゆる害悪をもたらしたのだ、と反論されるかもしれません。

しかし、シュタイナーのアントロポゾフィーは、人間の「責任」や「主体性」を明らかにするために、あえて「人間中心」ということをいうのです。

たしかに、人間も自然の一部であることは間違いありません。
けれども、人間は「ことば」を持ち、自我を発達させ、考える力を使って、自然から逸脱した独自の社会を創り出してきました。
シュタイナーは、それをただ容認するのではなく、人間はそのような自己に対して責任をもつべきだと説いたのです。

人間の責任とは、自分がもっている「考える力」を最大限に使って、認識することです。
シュタイナーは、「私たちは知識を求めなければならない。認識を求めなければならない。それが考える力を与えられた人間の義務なのだ」と言っています。

その意味で、シュタイナーのアントロポゾフィーは、人間中心主義というよりも、「私中心」主義といったほうが正確かもしれません。

というのも、考えること、認識することは、―ちょうど「私の代わりにトイレに行って来て」とは頼めないのと同じで―、他人任せにはできないからです。

アントロポゾフィーは、一人ひとりの「私」が知ること、考えることから始まります。

真実の人間性としてのアントロポゾフィー
日本にシュタイナー思想が一般的に紹介されてから、すでに30年以上が経過したと思います。

この間に、日本の各地にシュタイナー学校や幼稚園が設立され、シュタイナーのバイオダイナミック農法を実践する農場や、オイリュトミー、言語形成(朗誦)、シュタイナー教育や治療教育、アントロポゾフィー医学などを取り上げる講座や講演会も数多く開催されるようになりました。

シュタイナーの名前が社会に広く知られるようになる一方で、シュタイナーがもっとも重要視したこと、つまり「一人ひとりの私が認識すること」が見失われつつあるように感じています。

アントロポゾフィーは、何もヨーロッパやアメリカに留学しなければ、あるいはどこかの講座で学ばなければ修得できないものではありません。

シュタイナー自身のことばでいえば、アントロポゾフィーとは、一人ひとりの内にある「真実の人間性」なのです。

本来の人間の知恵は、一人ひとりが自分らしく生きて、一人ひとりの内なる人間性が発揮されるときに、おのずと働きます。

現在の世界に、戦争や環境破壊をはじめ、これだけ愚かしいことが横行しているのは、一人ひとりの人間性が本当には生きられていないからだといえます。

これからシュタイナー思想に基づく活動は、教育現場から医療現場、その他のさまざまな社会領域に入り込もうとしています。
そのとき、一人ひとりのなかに本当に「アントロポゾフィー」が生きているかどうかが問われてくるでしょう。

ヨーロッパの人々と共有した危機感
今年の5月から6月にかけて、ヨーロッパをまわったのですが、そのとき多くのアントロポゾーフ(アントロポゾフィーを自分の道として選びとった人=人智学徒)たちが、こんなことを口々に言っていたのが印象に残っています。
「ヴァルドルフ(シュタイナー)学校をはじめ、アントロポゾフィーに基づくさまざまな活動は世界中に普及しつつあるけれども、その実質が希薄になりつつある。アントロポゾフィーそのものを深めていかなければならない。」

この危機感は、僕自身の問題意識と完全に合致したものでした。

自律性につながるアントロポゾフィー
現在、社会的に注目されつつあるヴァルドルフ(シュタイナー)教育も、アントロポゾフィー医学も、農業や治療教育やオイリュトミーも、そのすべてはアントロポゾフィーという共通の源泉から発しています。

現在の状況は、おそらくすべての人にとって非常に困難なものでしょう。
それぞれが自分の生活や仕事を抱えていて、それだけで精一杯であることでしょう。
しかし、そういう時だからこそ、一人ひとりがアントロポゾフィーと向き合い、それを自分自身の思想として、自分自身の「真実の人間性」につながるものとして、育成していく必要があると感じるのです。

そうでなければ、アントロポゾフィーは結局、「海外の興味深い思想」の一つであり、「かつてシュタイナーが提唱したもの」にとどまることでしょう。

しかし、シュタイナーが願っていたのは、ちょうどプロメテウスが人間に「火」をもたらしたように、彼がもたらしたアントロポゾフィーが一人ひとりの内に火を灯し、それが一人ひとりの本当の自律性、主体性として働き始めるということでした。

そこにおいて、シュタイナーと僕たち一人ひとりとの関係は、主従関係などではなく、生きいきとした「仲間」の関係、「友情」の関係へと変化していくことでしょう。

シュタイナーから受け取った火を、僕たち自身のなかで灯していくことによって、そこから独自の多様な思想や活動が生じるはずなのです。

アントロポゾフィー研究所
僕自身も、日本におけるアントロポゾフィー医学の研修に通訳として関わったり、日本シュタイナー幼児教育協会の海外担当を引き受けたり、さらには私立幼稚園の園長まで務めたりする状況のなかで、これまで以上に「現実社会とアントロポゾフィーの関係」を強く意識するようになりました。

そして、自分のアントロポゾフィーの翻訳や研究の仕事を、どうすれば一人ひとりの内なるアントロポゾフィーを力づける方向につなげていけるのだろうか、と考えるようになりました。

一つの結論は、以前このブログの冒頭に書いた「ルドルフ・シュタイナー研究所」ではなく(これにもいろいろな経緯があるのですが)、自分だけの「アントロポゾフィー研究所」を始める、ということです。

これは僕自身がアントロポゾフィーそのものに向き合うため、そして僕自身の考え方、感じ方を自分の責任のもとに表現していくためのものです。
いわば「劇団ひとり」さんのように、「ひとり研究所」という形を選んだわけです。

そのほうが、自分が紹介したい本や資料、あるいは自分が現在の日本と世界の状況において考えていることを自分の責任において、自由に発表することができます。

その意味で、このブログのタイトルも、これまでの「シュタイナー探訪」から「アントロポゾフィー研究所」に変えました。

今の僕の生活スタイルのゆえに、どうしても一人ひとりの方に、僕が見ているアントロポゾフィーについて詳しくお話することができないでいます。
それをこのブログを通して、少しでも補っていければと考えています。

次回は、先月コメントをいただいた「民族魂と民族霊」について書こうと思います。



下の写真は、5月末に参加したヴァルドルフ(シュタイナー)幼児教育者世界大会の会場となったドイツ・ハノーヴァーのヴァルドルフ学校。最終日で、皆さん荷物をもって帰り支度をしています。

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1 コメント

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眼横鼻直 (shouko)
2007-08-16 12:22:17
カイさんの新しくシフト変換した場に励まされました。
そして自らの内側に存在していた真のカイさんを現そうとされる勇気に、感服いたしまし、私も勇気を持って投稿させていただきます。
カイさんのとらえる「アントロポゾフィー」を私自身の内なる心で捉えようと何度も読みかえすうちに、「道元」が37歳にして興聖寺の開堂(ちなみに開堂とは、その寺の長老となったとき、住持する際初めて、真理を開示することで、そのひとの内側で捉えた真理とは何かを宣言する場)の時に述べた言葉が思い出されました。
それは「眼横鼻直」(げんのうびちょく)でした。
簡単に私の言葉でいいますと、眼は横に切れていて、鼻はまっすぐについている。当たり前のことを当たり前として認識する事の重要性を、大事にしろということで、また、このあたりまえの事とは、人間が造ったモノではないことを認識する重要性も含まれていることです。道元は「人の造ったモノは必ず人によって壊される。だからこそ、造ったモノでないモノを認識せよ」と、言っています。
ここにはカイさんの言うところの「あるがまま」と、共通するなにかを感じます。
今の社会は、とうてい愛とはほど遠い情景が映し出されているように見えます。私はなぜなのか?と言う問いの答えを最近私なりに見つけ始めました。それが、この道元の言葉にもある、人が造った社会だからだと思うのです。その根底に在るのは、カイさんの言う、「あるがまま」の自分を捨て、自分を別の誰かに自分自身が造り上げているからだと思うのです。
なぜか。それはあまりにも人が、当たり前のことを当たり前として認識できないぐらい、複雑な他者の影響の幻想の中にはまりこんでしまったためだと、思うのです。
子供と共に生きるようになって感じることは、当たり前の大切さと、自分がこの当たり前のことが、いかに判らなくなっていたかということでした。
子供は成長するのが当たり前。
日々変化し、進化するのが当たり前。
私が幻想の中にはまったのは、肉体の成長が終わり、大人というレッテルの中に入った時でした。その時から自分の腐敗が始まったように思います。
今再び子供という存在に出会い気づいたこと。それは、身体の成長の終わりは、新たな次の段階、人としての心や内的な成長の始まりだったということです。そして人は、常に成長をするのが、当たり前。これを止めることが、実は人にとって最も不自然な事なのだと、痛感しています。

生のために生きるのか。
死に向かって生きるのか。

私はシンプルに、人として当たり前のことを当たり前のように感じながら生きる先に、「あるがままの自分」に出会える幸せが待っていると、思うのです。
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