入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

シュタイナーの「カミング・アウト」-霊能力をめぐって-

2006-03-21 23:54:17 | 霊学って?
シュタイナー思想について、僕が常々考えていることの一つが「霊能力」の問題である。「霊が見える」とは、どういうことなのか?

シュタイナーという人は、幼い頃から他の人々には見えないものが見えていた。自然の中の精霊や、死者の存在が身近に感じられたという。
この特殊な能力のために、シュタイナーは非常に孤独だった。すでに子ども心に、自分が親しんでいる「霊的な世界」について他の人たちに話したりすれば、理解されないどころか、白い目で見られてしまうことが分かっていたのだ。

若い頃のシュタイナーは、自分にとっての「現実」である霊的な世界と、他の人々にとっての「唯一の現実」である目に見える世界との折り合いをつけるために、大変な苦労を重ねた。科学や哲学を学び、自分が見ている霊的世界を「理解」しようとしたのである。

シュタイナーの自伝には、「私は沈黙しなければならないのか?」と題された章がある。彼が、自分にとって身近な霊的世界について語るべきか否か、を突きつめて考えたのは、40歳の頃だ。シュタイナーにとっては、霊的世界の存在は、それなしでは生きる意味が見出せないほど真実なものであった。でも、それを語ることは、無理解にさらされるし、それまで彼が一歩一歩築き上げてきた、「まともな評論家・学者」としての社会的立場を切り崩しかねない。

結局、彼は「沈黙」ではなく、「語る」ことを選んだ。そして、今日の僕たちが知っている「シュタイナー学校の創始者」であり、「オカルティスト」でもあるシュタイナーの生き方が始まった。

シュタイナーの人生におけるこの「転機」は、いわゆるシュタイナー派の人々の間では、「偉大な秘儀参入者」(一般社会からは隠された特別の秘密の知識を学ぶことができた人)が、ついに人類に対してその叡智を公開する覚悟を決めた偉大な瞬間であるかのように語られることが多い。

それはそうかもしれないが、僕は、基本的に、シュタイナーのこのときの決断は、今日でいうところの「カミング・アウト」だったと思っている。言わずもがなのことだが、カミング・アウトというのは、同性愛や性同一性障害の人々をはじめ、一般に「少数派」とされている人たちが、長いこと世間に対しては「本来の自分らしさ」を偽って生きてきて、それが苦しくなり、ついには「自分は~なんだ!」と公表することをいう。

シュタイナーの生きていた当時は、作家オスカー・ワイルドの例でも知られているように、同性愛はまったく許されることではなかった。また、シュタイナーのように「普通の人には見えないものが見える」などといえば、一種の精神障害とみなされる危険は十分にあったと思う。実際に、彼が霊的世界について語り始めてからは、それまで親交のあった著名な文化人たちは、一斉に離れていったのだ。

シュタイナーは、何よりも自分自身に忠実であろうとしたのだと思う。シュタイナーの思想は、「一人ひとりの自分らしさ」に最大の価値をおいている。そして、もし自分に、人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるのであれば、そのような自分を全力を傾けて肯定するのである。

他の人には見えない「霊」の姿が見え、「霊」が語る言葉が聞こえることは、いわゆる精神障害とされる症状にも通じるところがある。つまり、いわゆる霊能力と精神障害は紙一重といえるのではないか。違いの一つは、自分の自由意志で何かを見ることができるか、また、そこに見えていることを自分で理解できるかどうか、ということだろう。しかしそれ以上に、いわゆる霊能力と精神障害のもっとも大きな違いは、「それが苦しいかどうか」ではないか、と僕は思っている。もちろん、霊能者の中には、自分の意志とは関係なく、勝手に何らかのヴィジョンを見せられてしまい、長いことそれに苦しめられた、という人は少なくない。しかし、何かが見えてしまうこと、聞こえてしまうことが、本人にとって苦しくてたまらず、そこから抜け出したいとあがいているなら、助けが必要である。

実際、イギリスの作家コリン・ウィルソンが評伝『ルドルフ・シュタイナー』の中で紹介しているエピソードに、確かこういう話があった(この本がいま手元になく、うろ覚えなので、もし違っていたら後で訂正したい)。人と会うたびに、その人の前世のイメージが見えてしまい、苦しくなった人が、シュタイナーのもとに相談に来た。シュタイナーは、その人に特殊な瞑想法を教え、それを続けるうちに、その人にはもはや他人の前世のイメージは見えなくなり、それに悩まされることはなくなったという。

これは幻視、幻聴といった症状に悩まされている人が、薬を処方されて、その症状から解放されることとまったく変わらない(もちろん、薬の副作用や、自分の意志で薬を飲むのか、飲ませられるのか、世間からどのように扱われるかなど、個別のケースで複雑な要素が絡むことはいうまでもない)。

いわゆる精神障害とされる人の幻視・幻聴は、現実とは一致せず、霊能者の霊視・霊聴は現実と符合する、という異論を唱える人があるかもしれない。しかし、およそすべての感覚は、何かを知覚しているのである。どのような感覚であれ、何かに対応して生じている。つまり、幻覚という症状からも、なぜそのような症状が起こるのかを考えること、そこから何かを読み取ることはできるのである。

この「考える」こと、そして「読み取る」ということに、すべてがかかっている。なぜ自分にこういう状況が降りかかってくるのか、それについて考え、自分の人生を理解しようとあがくという点は、「少数派」といわれる人々に限らず、すべての人に共通しているのである。

この点を見過ごすと、シュタイナーという人を特別視してしまう。確かに、彼は大多数の人とは違っていた。しかし、僕たちはみな、一人ひとりが「他の大多数」とは違う何かを持っている。シュタイナーという人の偉大さは、その「霊能力」にあるのではない。まだ同性愛も、精神障害も今よりももっと強い差別にさらされていた時代にあって、自分の「特殊な個性」を認め、さらに他の人々にも理解できるような言葉で、自分が見ているものを丁寧に語る努力をし続けていた、というところに、僕はシュタイナーの偉大さを見ている。

そして、今日でも、何らかの「少数派」の傾向をもち、世間の「白い目」にさらされることを恐れている人たちが、あえてそのような自分を認め、自分を理解しようと努め、それを一般の人々にも理解できる言葉で語ろうと試みるなら、それはシュタイナーと同様に偉大な行為である。そのような試みの中からこそ、アントロポゾフィー(人間の知恵)は生まれ、その知恵は多くの人を支えることになるだろう。
(上の写真は、18歳のシュタイナー)

最新の画像もっと見る